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「散らされる神、集められる神」

1999年10月10日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 エレミヤ書31・10‐14

「諸国の民よ、主の言葉を聞け。遠くの島々に告げ知らせて言え。『イスラエル を散らした方は彼を集め、羊飼いが群れを守るように彼を守られる』」(10節)。

 主の言葉が、諸国の民に告げ知らされねばなりません。遠くの島々に、主の言 葉が告げ知らされねばなりません。距離的にも、時間的にも、遠く離れたこの日 本の人々にも、主の言葉が告げ知らされねばなりません。しかし、主はイスラエ ルの神ではないのでしょうか。確かに主は御自身をイスラエルの神として現され ました。しかし、主の最終的な関心はイスラエルに留まりません。神の関心は諸 国の民に向けられています。主の最終的な関心は、先に選ばれた神の民にではな く、全世界に向けられているのです。主の目はこの国にも向けられています。こ の国に生きる、すべての人に向けられているのです。神が求めておられるのは、 この世界の一部ではありません。この世界のすべてなのです。神は、世界が神に 立ち帰ることを求めておられるのです。

 ですから、主の言葉は、遠くの島々にに告げ知らされねばなりません。ここで は何を語れと言われているのでしょうか。「イスラエルを散らした方は彼を集め、 羊飼いが群れを守るように彼を守られる」。これが告げ知らされるべき内容です。 やはりイスラエルのことではありませんか。それが諸国の民と何の関わりがある と言うのでしょう。私たちはこうして旧約聖書を読みました。旧約聖書には、イ スラエルの民の歴史が記されております。私たちとまったく異なったルーツを持 ち、全く異なった文化を持つ民です。そこに記されている、契約、律法、礼拝、 メシアの希望、神の約束、それらは諸国の民にとって、私たちにとって、何の関 わりもないように見えなくもありません。

 しかし、主は、御自分がイスラエルに対してどのように振る舞われたかを告げ 知らせよと言われるのです。神は御自分とイスラエルとの関わりを、諸国の民に 指し示されるのです。なぜなら、主がどのような御方であるかが、そこに示され ているからです。世界に関心を向け、私たちに関心を向けておられる主なる神が いったいいかなる方であるかを、私たちはイスラエルの歴史の中に見るのです。

●イスラエルを散らされた方

 では、主はいかなる御方なのでしょう。私たちは主なる神をどのように理解し たらよいのでしょう。その方は「イスラエルを散らした方」と書かれています。 「散らす」ということは、裁きを意味します。主は、御自分の民を裁かれた方で あります。そのことに私たちはまず心を留めなくてはなりません。

 イスラエルの中心はエルサレムでした。神殿のあるシオンの丘でありました。 12節には、人々がシオンに帰って来ると告げられています。これは、彼らが、 シオンから遠くに散らされている、ということを意味します。その出来事は、歴 史的には、紀元前6世紀におけるバビロニアの襲来によって起こりました。エル サレムは陥落し、神殿は破壊されてしまったのです。多くの人々が捕らえ移され ました。民は散らされたのです。神は、御自分の神殿が異国の民によって破壊さ れることを許されました。これは大変不思議なことのように思えます。

 しかし、これは既に語られていたことでした。エレミヤ書7章をお開きくださ い。エレミヤ書において、神殿は特別な意味を持ちます。これはエレミヤが多く の預言を語った舞台でありました。彼は神殿の門に立ってこう語ったのでありま す。

 「主を礼拝するために、神殿の門を入って行くユダの人々よ、皆、主の言葉を 聞け。イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。お前たちの道と行いを正せ。 そうすれば、わたしはお前たちをこの所に住まわせる。主の神殿、主の神殿、主 の神殿という、むなしい言葉に依り頼んではならない。この所で、お前たちの道 と行いを正し、お互いの間に正義を行い、寄留の外国人、孤児、寡婦を虐げず、 無実の人の血を流さず、異教の神々に従うことなく、自ら災いを招いてはならな い」(7・2‐6)。

 中東の権力構造が大きく変わりつつある激動の時代でした。多くの人が不安を 覚えていました。それゆえ、人々はこぞって神殿の門をくぐったのです。しかし、 彼らの関心は、今の生活が守られ、安全が保たれ、繁栄が確保されることでしか ありませんでした。神殿の門をくぐりながら、関心は神御自身ではなく、神が何 を求めておられるかでもなく、互いの間に神の御心が実現することでもありませ んでした。それゆえ、彼らは一方において弱者を虐げ、神の御心を踏みにじりな がら、他方において「主の神殿」という言葉を題目のように繰り返したのです。 そこには、主の神殿のある都は滅びないという、彼らの信心がありました。しか し、罪を悔い改めて神に立ち帰ることなく、ただ「主の神殿」をお題目のように 繰り返しても、それはむなしい言葉に過ぎない、と主は言われるのです。そのむ なしい言葉に依り頼んではならない、と。

 人は悔い改めて神に立ち帰り、新しい生活を求めるよりも、むなしいものに依 り頼んで、古い生活をそのままに保とうといたします。しかし、神は人間の背き をそのままにはされません。人が神に背いているならば、神はその裁きをもって、 その背いているという現実を明らかにされるのです。人がむなしいものに依り頼 んでいるならば、それがむなしいものでしかないことを明らかにされるのであり ます。主は、むなしいものに依り頼んでいる人々の生活に終止符を打たれます。 彼らの空虚な偽りの生活を終わりにされるのです。そのためには、御自分の神殿 さえ破壊されることを良しとされるのです。それは自ら痛みを負いつつ、民を裁 かれる神であることを意味します。このように、主は民を散らされる神でありま す。正しく裁かれる神なのです。

●イスラエルを集められる方

 このように、主の裁きによってイスラエルは終わりを経験したのでした。しか し、終わりにされたのが主であるならば、終わりは終わりのままではありません。 「イスラエルを散らした方は彼を集め、羊飼いが群れを守るように彼を守られる 」と書かれている通りです。

 ファン・ルーラーというオランダの神学者が、ゼカリヤ書の説教の中でこのよ うなことを言っていました。「…しかし、生ける神は物事の終わりを行き止まり にしてしまわれないのです。人間的に見れば、終わりに至った時、もはやそこに は何も残ってはいないかも知れません。終わりは終わり以外の何ものでもないで しょう。しかし、生ける神は終わりを突き抜けてさらに物事を先へと導かれるの です。そのようにして、イスラエルの民は捕囚を通してその先へと導かれたので した。」

 イスラエルを散らされた主は、再び彼らを集められます。散らされることが裁 きを意味するならば、集められることは罪の赦しを意味します。罪の赦しによっ て、終わりは新しい始まりとなるのです。ここに示されているのは、裁きなき赦 しの神でも、赦しなき裁きの神でもありません。散らした方が再び集められるの です。

 そして、11節以下に、赦され、集められた民の姿が描写されております。神 は羊飼いが群れを守るように、その民を守られるのです。神はその赦しと回復の 御業において、人に何を与えようとしておられるのでしょうか。人は神によって 回復されるとき、その新しい生において何を経験するものとされるのでしょうか。

 まず第一は、解放し給う神の力です。主はその力強い御手をもって解放しよう としておられるのです。「主はヤコブを解き放ち、彼にまさって強い者の手から 贖われる」(11節)。

 「彼にまさって強い者」――北のイスラエル王国を滅ぼし、その民を支配した のはアッシリアでした。南のユダ王国を滅ぼし、その民を支配したのはバビロニ アでした。弱い者は、「彼にまさって強い者」に支配されます。より強い者がよ り弱い者を支配する。それがこの世界の構造です。肉の目には、支配する力の関 係がこの世界を動かしているようにしか見えません。そして、さらに言えば、こ の世界を支配しているのは、人間を自由にさせまいとする罪の力であり、人を生 かすまいとする死の力です。この強い者には、誰も打ち勝つことができません。 最終的には、この罪と死の力が世界を滅びへと向かわせているようにしか見えな いのです。

 しかし、聖書はもう一つの力に目を向けさせます。「彼にまさって強い者の手 から贖われる」御方の力です。生ける主は解放の主であります。そもそもイスラ エルの歴史は、エジプトから解き放つ神の力強い御手(出13・3)の経験から 始まりました。彼らが祝ってきた過ぎ越しは、その記念でありました。神によっ て罪を赦された民は、再びその力強い御手を知ることになるのです。イスラエル の民は「彼にまさって強い者の手から贖われる」のです。

 第二は、神による真の豊かさです。「彼らは喜び歌いながらシオンの丘に来て、 主の恵みに向かって流れをなして来る。彼らは穀物、酒、オリーブ油、羊、牛を 受け、その魂は潤う園のようになり、再び衰えることはない」(12節)。  ここで「主の恵み」が、穀物、酒、オリーブ油、羊、牛などによって表現され ています。それは具体的なモノです。ここに見るように、神は決して禁欲主義者 ではありません。その民に具体的に必要なものを与えてくださるばかりか、この 世界の豊かさを楽しむことを良しとされます。人はこの世において与えられるも のを楽しみ、人生を楽しんだらよいのです。問題は、モノそのものにあるのでは ありません。豊かさが何であるかを取り違えるところにあるのです。

 同じ物質的な豊かさでありましても、ここに描かれているのは、寄留の外国人、 孤児、寡婦を虐げることによって得た富ではありません。他人を踏みつけ、傷つ け、神の心を痛めて得た欲望の充足とは異なるのです。ここに描かれているのは、 神から与えられる真の豊かさです。ですから、加えて、その魂は潤う園のように なると記されているのです。神によらぬ間違った欲望の充足は、その魂を衰え果 てたミイラのようなものとしてしまいます。神によってのみ、人は命の泉を持つ 者となるのです。再び衰えることない新しい命に生きる者となるのです。

 第三は、神の慰めによる喜びです。「そのとき、おとめは喜び祝って踊り、若 者も老人も共に踊る。わたしは彼らの嘆きを喜びに変え、彼らを慰め、悲しみに 代えて喜び祝わせる」(13節)。

 この世には様々な嘆きがあります。身に降りかかった不幸を悲しみ嘆いて一生 を過ごす人もあるでしょう。失ったものを数えながら、嘆き悲しみつつ歳を重ね る人もいるでしょう。エルサレムが陥落し、祖国を失った時、これをただ為政者 による政策の誤りの結果であるとしか見なかった人は、そのような国の民であっ た悲運を嘆いたことでしょう。しかし、このような災いを悲しみ、他人を呪い、 過去を厭うだけの嘆きには希望がありません。

 ここで語られている嘆きはそのようなものではありません。ここに「わたしは 」という言葉が出てきます。「わたし」とは主なる神です。この嘆きは、主なる 神のもとにある嘆きです。神に立ち帰る者の嘆きです。それは神の裁きのもとに 明らかにされた、自らの罪を悲しむ嘆きに他なりません。そして、そのような嘆 きは嘆きのままに終わらないのです。なぜなら、自らの罪を悔いて立ち帰る者を 慰め給う方、「わたしは彼らの嘆きを喜びに変える」と言われる方がおられるか らです。主イエスも言われました。「悲しむ人々は、幸いである、その人たちは 慰められる」(マタイ5・4)。神の慰めは、悲しみを喜びに変える力です。嘆 きの時は終わります。人は粗布を捨てて晴れ着をまといます。悲しみに沈んでい たおとめも若者も老人も、共に喜び祝い、踊るようになるのです。

 そして、最後に書かれているのはまことの礼拝の回復です。「祭司の命を髄を もって潤し、わたしの民を良い物で飽かせると主は言われる」(14節)。

 「髄」と訳されているのは、犠牲の動物の油です。祭司の命が髄をもって潤さ れるというのは、神殿において再び主が礼拝され、多くの犠牲が捧げられるよう になる、ということです。感謝の捧物です。神殿は一度、主の裁きのもとに破壊 されました。しかし、主の赦しにおいて再び建て上げられるとき、そこで捧げら れる礼拝は、もはやかつてのようなものではあり得ません。一方で他者を踏みつ けながら、その手をもってただ自分の利益と安寧を求めて犠牲を捧げる、悔い改 めを知らない民の捧げる礼拝ではあり得ません。そこでは、ただ神の赦しによっ て新しく生き始めた人々による、感謝と献身の犠牲が捧げられるようになるので す。

 「イスラエルを散らした方は彼を集め、羊飼いが群れを守るように彼を守られ る。」これがイスラエルとの関わりにおいて現された主なる神の姿であり、神の 御心です。この神こそ、主イエス・キリストの十字架と復活において、最終的に 人間の罪に対する裁きと赦しを現し給うた神に他なりません。この神こそ、諸国 民の神であり、私たちの神でもあるのです。この神の言葉が、遠くかなたの私た ちにまで伝えられました。私たちも、告げ知らさねばなりません。「イスラエル を散らした方は彼を集め、羊飼いが群れを守るように彼を守られる」と。

 
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