「神のものは神に」
1999年10月17日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 マタイ22・15‐22
21章23節には「イエスが神殿の境内に入って教えておられると」と書かれ ています。そして、24章1節には、「イエスが神殿の境内を出て行かれると」 とあります。これが、今日お読みしました箇所が置かれている大きな枠組みとな っています。場面は神殿です。
ちなみに、24章1節は次のように続きます。「弟子たちが近寄って来て、イ エスに神殿の建物を指さした。」そして、その場における長い説話が始まるので す。これは25章の最後まで続きます。そして26章1節以下にこう書かれてお ります。「イエスはこれらの言葉をすべて語り終えると、弟子たちに言われた。 『あなたがたも知っているとおり、二日後は過越祭である。人の子は、十字架に つけられるために引き渡される。』そのころ、祭司長たちや民の長老たちは、カ イアファという大祭司の屋敷に集まり、計略を用いてイエスを捕らえ、殺そうと 相談した。しかし彼らは、『民衆の中に騒ぎが起こるといけないから、祭りの間 はやめておこう』と言っていた」(26・1‐5)。ユダヤ人の指導者たちの憎 しみと殺意がまさに頂点に達しようとしていました。そして、間もなく主は捕ら えられ、十字架にかけられます。主も、そのことをご存じで、自分が引き渡され ることを弟子たちに予告されるのです。時間的には、これが今日お読みしました 問答の背景であります。
●敬虔な罠
場面は神殿であると申し上げました。神殿は礼拝をする場です。当然、人間が 敬虔であることが求められる場であります。それゆえ、この場面において、私た ちは実に敬虔な言葉を耳にします。ファリサイ派の弟子たちとヘロデ派の人々は、 主にこう語りかけるのです。「先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、真理 に基づいて神の道を教え、だれをもはばからない方であることを知っています。 人々を分け隔てなさらないからです。ところで、どうお思いでしょうか、お教え ください。皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていな いでしょうか」(16‐17節)。
彼らの問いかけは、信仰共同体と国家との関わりに関する非常に重要な真面目 な問いのように見えます。しかし、彼らの意図は、その問いに対する真実な答え を得ることではありませんでした。敬虔な、宗教的な問いを発する人が、必ずし もその答えを真剣に求めているとは限りません。彼らの意図はどこにあったので しょうか。「それから、ファリサイ派の人々は出て行って、どのようにしてイエ スの言葉じりをとらえて、罠にかけようかと相談した」(15節)と書かれてい ます。彼らの目的は、主を罠にかけることでした。
この「それから」という言葉は、物語としては21章の最後に続きます。そこ にはこう書かれていました。「祭司長たちやファリサイ派の人々はこのたとえを 聞いて、イエスが自分たちのことを言っておられると気づき、イエスを捕らえよ うとしたが、群衆を恐れた。群衆はイエスを預言者だと思っていたからである」 (21・45‐46)。このように、イエスを憎んでいる彼らにとって、彼を支 持する群衆の存在は大きな障害となっていました。この状況のもとで、イエスを 亡き者とする方法は二つに一つしかありません。一つは、群衆の支持を失わせて イエスの敵となるようにすること。こうすれば、彼らは群衆の騒ぎを恐れずに、 イエスを捕らえることができます。もう一つは、イエスをローマ帝国に逆らう扇 動者に仕立て上げること。こうすれば、ローマの国家権力によって、合法的にイ エスを抹殺することができます。そこで巧みに考え出されたのが、この納税に関 する問いでありました。
ここで問題になっているのは皇帝に納める税金です。これは、紀元6年にユダ ヤがローマの直轄支配地になると共に導入された人頭税であります。人頭税はそ の構造上、経済的な弱者に大きな打撃となります。これはローマ支配下のユダヤ の人々に重くのしかかっていたに違いありません。そして、そこにはさらに大き な宗教上の問題がありました。納税に用いられるのは、ローマのデナリオン銀貨 です。そこにはこう記されていたと言われます。「神的アウグトゥスの子、皇帝 にして大祭司なるティベリウス」。ここには、政治的権威だけでなく、その神的 権威の主張が刻まれております。それゆえ、そのようなデナリオン銀貨をもって、 神格化されつつある皇帝に税を納めることの是非は、律法に忠実なユダヤ人たち にとっては重大な問題でありました。
この税に対して最も強く反対していたのは、主イエスの故郷であるガリラヤを 中心として活動していた熱心党でありました。彼らは強硬な民族主義者たちであ り、後にローマからの独立を目指してユダヤ戦争を戦うことになります。律法に 忠実であり、ユダヤ教の純粋性を守ろうとしていたファリサイ派の人々は、当然 のことながらこの税には反対でありました。しかし、納税拒否にまでは至らなか ったようです。一方、ローマに隷属するヘロデ王家を支持するヘロデ党の人々は、 この納税にむしろ肯定的でありました。
さて、そのような宗教的な争点に関する問いをもって、彼らは主を陥れようと したのです。主イエスがもし、「皇帝に税金を納めるのは、律法に適っている」 と答えたらどうでしょう。主イエスを取り巻いている群衆の多くはローマからの 解放を願っている人々です。この答えにより、主は民衆の支持を失うことになる でしょう。いや、むしろ彼らは主の敵に回るかもしれません。では、「皇帝に税 金を納めるのは、律法に適わない」と答えたらどうでしょう。多くの群衆のただ 中で、納税拒否を宣言するようなものです。それは人々の反ローマ感情に火をつ け、現実に彼らの熱狂を引き起こすかもしれません。いや、仮にそうならなくて も、ローマに逆らうようにと群衆を扇動したと、当局に訴えることは可能となる でしょう。彼らの目的は、こうして実現するのです。
このような敵意と憎しみに満ちた企てが、神殿において実行されました。敬虔 な言葉の装いのもとに実行されました。宗教に関する問いを発する人が、必ずし も真剣に答えを求めているとは限りません。敬虔な言葉をもって議論をする人が、 必ずしも神御自身に関心があるとは限りません。そこに神への愛、信頼と従順が あるとは限りません。そこにあるのは、悪意、敵意、あるいは自己保身的感情で しかないかも知れないのです。それは神殿で起こりました。罪に満ちたこの世界 の暗黒は、しばしば人の目から見て薄暗いところにあるよりは、むしろ人の目か らみて明るいところ、真面目さがあり、清さがあるように見えるところにあるも のです。私たちはこの場面において、人間の罪深さ、その底知れぬ暗さを見る思 いがいたします。そのような罪の暗黒のただ中に、主イエスは立っておられたの でした。十字架に向かわれる方として、主はそこに立っておられるのです。
●神のものは神に返しなさい
そこで主は彼らに言われます。「偽善者たち、なぜ、わたしを試そうとするの か。税金に納めるお金を見せなさい。」彼らは納税に使うデナリオン銀貨を持っ てきました。そこで主は問われます。「これは、だれの肖像と銘か。」彼らは、 現実の貨幣を前にしては、ただ事実を述べるしかありません。彼らは言います。 「皇帝のものです。」すると主は言われました。「では、皇帝のものは皇帝に、 神のものは神に返しなさい」。
「皇帝のものは皇帝に返しなさい」。皇帝の権威は絶対であるから、それが不 本意であっても、たとえ律法にかなわなくても、税は納めなくてはならない、と 言っているのではりません。皇帝が銀貨に刻まれているような神的権威を持って いるから、税を納めよと言っているのではないのです。主の意図するところはむ しろその逆でありました。皇帝が絶対者であるわけでも、神的存在であるわけで もないから、税を納めよ、と言っているのです。もし銀貨が彼のものであり、彼 が返せと言うならば、彼に返してやればいいではないか、と言っているのです。 こうして、むしろ帝国において絶対と見なされていた権威を主は相対化している のです。むしろ、絶対的な権威に関わる言葉はその後に来ます。主はさらに言わ れるのです。「神のものは神に返しなさい」。そして、この言葉が「皇帝のもの は皇帝に」という前の言葉を飲み込んでしまっているのです。
ですから、ここで主は、一方に皇帝の支配する世俗的領域があり、もう一方に 神の支配する宗教的領域があると言っているのではないのです。国家の問題と宗 教とは別だ、と言っているのではないのです。国家も神のものなのです。皇帝も 神のものなのです。この世界は神のものなのです。神に返されるべきものです。 この世界が本来神のものであるということに対して、デナリオン銀貨が皇帝のも のであるということは、相対的な意味しか持ちません。言い換えるならば、その ような納税の問題で罠にかけようとして主のもとに来た人々に、主が絶対的な意 味を持つ問いを突き返したとも言えるでしょう。皇帝に税金を納めるべきか否か と問う人々に、いわば「あなたは神のものを神のものとして生きているか。神の ものが神に返されることを求めて生きているか」と問い返しておられるのであり ます。
実際、人間の根本的な問題は、神のものを神のものとして生きてはいない、と いうところにこそあるのです。すなわち、この世界が本来的に人間が所有してい る世界であるかのように生きている、ということです。そうして、人間はこの世 界を濫用しているのです。自然を濫用し、国家権力を濫用し、与えられている隣 人との関係を濫用し、親子の絆を濫用し、夫婦の契約を濫用し、自分の人生を濫 用しているのです。濫用の結果は無秩序と混沌に他なりません。「光あれ」から 始まった世界は、神を離れるならば、混沌の闇に戻っていきます。まさに、人の 生み出した混沌の闇に、人間の苦悩のうめきと叫びが響き渡っている。それがこ の世界の現実であります。
神は、そのような世界の中からイスラエルを選び出されました。その民に御自 身を現されました。その民を通して、この世界に御自身を現すためでありました。 しかし、イスラエルもまた、神の民とされている恵みを濫用したのです。その事 実を、私たちは旧約聖書の中に見るのです。主が「神のものは神に返しなさい」 と語られたのは、まずそのようなイスラエルの民、先に選ばれたユダヤ人たちに 対してでありました。そして、今は教会が、この主の言葉を聞いているのです。 この言葉は、今日、他ならぬ私たち自身に対して語られているのであります。
「神のものは神に返しなさい」。まず神に返すべきは、そのように神のものを 濫用している人間自身であるに違いありません。聖書には、「神は御自分にかた どって人を創造された」(創世記1・27)と記されています。ローマのデナリ オン銀貨に皇帝の像が刻まれていたように、本来、人間には神の像が刻まれてい るのです。この神のものが神のもとに回復されねばなりません。主イエスの戦い は、まさにそのための戦いでありました。
最初に申しましたように、この問答が置かれている場面は、十字架の直前です。 主は「あなたがたも知っているとおり、二日後は過越祭である。人の子は、十字 架につけられるために引き渡される」と言われるのです。この問答は、ただ主の 賢さを証明するために置かれているのではありません。主は、ユダヤ人たちを巧 妙に言い負かして喜んでおられるのではないのです。「神のものは神に返しなさ い」と語られた主は、死に向かっておられたのです。「神のものは神に返しなさ い」と言われる主であるからこそ、自らを神の御心にゆだねて、十字架への道を 進もうとしておられたのです。
それは罪に引き渡されてしまっていた私たちが、神の手に返されるためであり ました。本来神の像が刻まれていたはずの私たちが、再びそのような者として回 復されるためでした。神は、本来御自分のものであるにもかかわらず、私たちを 再び手にするために、大きな犠牲を払われました。御自分の御子の死の苦しみと いう大きな犠牲を払われました。聖書は、この事実を、「あなたがたは買い取ら れたのだ」と表現します。このように書かれています。「あなたがたは、代価を 払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい」(1コ リント6・20)。
私たちは、代価を払って買い取られた者として、かつてユダヤ人たちに語られ たこの言葉を再び耳にしているのです。「神のものは神に返しなさい」。それゆ え、私たちの為すべきことは、恵みによって神のものとされた者として自分自身 を神に献げることであるに違い有りません。まず自分の体を「神に喜ばれる聖な る生けるいけにえとして」(ローマ12・1)神に献げるのです。そして、神の ものとして、この世へと再び遣わされていくのです。
もちろん、この世においては「皇帝のものは皇帝に返しなさい」と言われるべ き事柄が起こってまいります。負うべき具体的な義務や責任もあります。しかし、 私たちはこの世に隷属する者としてではなくて、あくまでも神のものとして生き るのです。「神のものは神に返しなさい」。これはキリスト者の生を決定的に方 向付ける言葉です。私たちは、濫用されているこの世界が最終的に神の手に返さ れ、天にも地にも神の支配が成ることを求めつつ生きるようにと導かれているの です。この求めは、私たちの生活において、それぞれ具体的な形を取ることでし ょう。それこそが、「御国が来ますように」と祈る民として生きることに他なら ないのであります。