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「御名を信じ、愛し合う喜び」

1999年10月24日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生, 松原 茂牧師説教
聖書 1ヨハネ3・19‐24

 前回は、「互いに愛し合いなさい」という言葉を学びました。3章16節には、 「イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによっ て、わたしたちは愛を知りました」とあります。ですから、わたしたちもイエス の愛に倣って、兄弟のためには命をすてるべきです、と語られているのであり、 言葉や舌だけで愛するのでなく、キリストの真理と行いによって愛しなさい(1 8)とのすすめを受け入れたのです。

 19節の冒頭「これによって」は、16・18節を受けての、「これによって 」であります。「わたしたちは自分が真理に属していることを知り、神のみ前で 安心できます」(19)。しかし、「神のみ前で安心できます」の次に、なぜ 「心に責められることがあろうとも」のことばが続くのでしょうか。それは、こ の世に生のあるものの絶えずついて回る人間の弱さからくる、自分を責める心を 持っているからであります。ですから16節の前半のみことばの大切さを噛みし めて、信仰の腹の底にしっかりとおさめておきたいと思います。「イエスは、わ たしたちのために、命を捨てて下さいました。そのことによって、わたしたちは 愛を知りました」のみことばを。

 わたしたちは、今日の、この手紙の内容について雑誌記事を読むような軽い読 み方はできません。教会に加えていただいた信仰者として、困っている兄弟姉妹 や、事欠いている人たちに対して本当に同情して、行いをもって誠実に愛してい るだろうかと反省するときに、「心に責められることはありません」といえるで しょうか。ここの「心に責められることがあろうとも」は、「わたしたちの心が わたしたちを責めるなら」と訳したほうがよく理解で来ます。確かに事欠く兄弟 に対する同情から、言葉や口先だけの愛だけではなく、真理と行いにより愛する ことが大切です。ところが、わたしたちの場合は、それに対して「しかし」が付 着するのであります。ですから、そのように愛の行いを実践してこと足れり、こ れで、神のみ前に安心というわけにはまいりません。しかし、20節の後半には、 「神は、わたしたちの心よりも大きく、すべてをご存知だからです」とあります。 この安心の背景にわたしたちのまなこをしっかりと向け、イエスの業、イエスの 愛に焦点をいつもあてていなければならないことが強調されているのであります。 「神は、わたしたちの心よりも大きく、すべてをご存じだからです」という事実 にであります。  

 「愛する者たち、わたしたちは心に責められることがなければ、神のみ前で確 信を持つことができ」(21)。「心に責められることがなければ」このところ をラゲ訳では「我らの心我らを咎めずば」となっています。そして、はじめて自 分たちの愛に根ざして不安になるのでなく、キリストの愛に根拠を置いて神の平 安の中におり続けたいものであります。どのように一生懸命互いに愛し合っても、 いつの間にかイエスの愛を離れて、独立して自分が愛さなければの立場に立って しまいやすいことを示されるのであります。イエスがわたしたちのために、命を 捨ててくださった神の愛にわたしたちの信仰の基礎を与えられている限り、神の 御前で、神に愛されている確信をしっかりと持ち続けることができるのでありま す。

 そうすると「神に願うことは何でもかなえられます」(22)とヨハネが語っ ていることにアーメンとこたえることができます。「わたしたちが神の掟を守り、 御心に適うことを行っているからです」(22)。わたしたちが「隣人を愛する こと」「兄弟を愛すること」は、イエスに倣うことでありまして、わたしたちが 生まれつきの自分自身として、「隣人を愛すること」でも「兄弟を愛すること」 でもなく、「神の御心に適う働き」としての「行い」でありますから、その働き のすべては主の御栄光のためであり、また、主を賛美することであります。です から、悪魔がどのように誘惑してきても、わたしたちの心は責めたてられること はないのであります。たとえそのような心になったとしても、実にイエス・キリ ストの父なる神は、わたしたちの心よりも遙かに偉大な方なのであります。です からイエスの血潮によって神の御前で安心できるのであります。そして、神に願 うことは何でもかなえられるのであります(22)。

 わたしたちの祈りが神に聞かれるのは、わたしたちの求めが神の御心に一致す るからなのであります。「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉 があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすれ ば、かなえられる」(ヨハネ15・7)と。ヨハネが言っているのはこのことな のであります。「神に願うことは何でもかなえられます。わたしたちが神の掟を 守り、御心に適うことを行っているからです」(22)。 

 それでは、「神の掟」とはなんでしょうか。23節に「その掟とは、神の子イ エス・キリストの名を信じ、この方がわたしたちに命じられたように互いに愛し 合うことです」とあります。これは神がわたしたちにお求めになるものを要約す れば、この二つになるということであります。

 神がわたしたちに求めておられる大切なもの、それは、わたしたちが神の子イ エス・キリストの名を信じ、互いに愛し合うことなのであります。

 先ず「神の子イエス・キリストの名を信じる」とは、どういうことでしょうか。 ここには「神の子イエス・キリストの名を信じる」とありますが、「神の子イエ ス・キリストを信じる」とは言っていません。「名を信じる」と言っている意味 はなんでしょうか。わたしたちは各自がイエス・キリストを信じると言っていま す。よく、信仰は人間それぞれ自分自身の個性が違っているように、各自のイエ ス・キリストに対する信仰も、それぞれ違っていて当然であるかのように思って おられるのではないでしょうか。各自がそれぞれの自由な意志でイエス・キリス トを信じているということではないでありましょうか。人間が自分たちの受けて いる教育や環境によって勝手に、自由に想像するイエス・キリストを信じること を神は求めておられないことを、ヨハネは、神の子イエス・キリストの名を信じ るといっているのです。

 それでは、神の子イエス・キリストという御名を伝えている証詞はどこにあり ますか。みなさまがご存じのように、それは、聖書の中にあるのです。

 神の子イエス・キリストの名を信じるとは、ただ聖書に書き記され、示されて いるイエス・キリストを信じるということであります。神がわたしたちを愛して わたしたち罪人を救うために世につかわしたもうたのは、聖書に示されている 「しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々に神の子となる資格 を与えた」(ヨハネ1・12)とあるとおりの、神の子イエスキリストでありま す。

 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる ものが一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3・16)。わ たしたちは、聖書に書きしるされているとおりの、この神の独り子イエス・キリ ストによって救われるのであり、イエスにあって永遠の命を与えられるのです。 ヨハネはこの手紙の5章13節に「神の名を信じているあなたがたに、これらの ことを書き送るのは、永遠の命を得ていることを悟らせたいからです」と言って います。このように、ヨハネは「神の掟とは、神の子イエス・キリストの名を信 じ、この方がわたしたちに命じられたように、互いに愛し合うことです」と、神 の掟について説明をしています。

 「この方(イエス・キリスト)がわたしたちに命じられたように、互いに愛し 合うことです」。互いに愛し合うことについて、主イエスは十字架につけられる 前夜、過越しの食事の席上で、弟子たちに話されました。「あなたがたに新しい 掟を与える。互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあな たがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる」(ヨハネ13・34 ,35)。わたしたちが互いに愛し合うこと、それは、神を愛することであり、 わたしたちが神の子キリストのもの、父なる神のもの、御父と御子イエス・キリ ストとの交わりにあることのあかしであります。すなわち、わたしたちが神の子 イエス・キリストの御名を信じることの真実の実であるのです。

 主イエスは、その食事の席で弟子たちに、また、お話になりました。「わたし があなたがたを愛したように互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である」 (ヨハネ15・12)。また、14節には「わたしの命じることを行うならば、 あなたがたはわたしの友である」と。神の子イエスキリストの名を信じることは、 互いに愛し合うキリスト者の行動力を生み出す源泉なのです。(田中剛二参照)。

 23節に続いて24節 にヨハネは「神の掟を守る人は、神の内にいつもとど まり、神のその人の内にとどまってくださいます」と言っています。わたしたち が神の子イエス・キリストの名を信じる信仰と、互いに愛し合うこと、すなわち、 わたしたちの交わりは、神の永遠の命との交わりであり、御父と御子イエス・キ リストとの交わりのことなのであります。

 「神がわたしたちの内にとどまってくださることは、神が与えてくださった “霊”によって分かります」(24)。

 神は一方的な愛によって、主イエスキリストの恵みによって、聖霊の交わりに よって、わたしたち互いに愛し合う力を与えておられるのであります。わたした ちはこうして、御父と御子との交わりのうちに平安と喜びに満ち溢れる者とせら れるのであります。

 さて、イエスがわたしたちのために、命を捨ててくださったことにより、わた したちは深い神の愛を知りました。そして、わたしたちは神の真理に属している ものとされました。だから、わたしたちは友のために命を捨てるべきです。これ は祝福の言葉として与えられました。わたしたちは、小さい自分を見つめていて、 心に責めを覚えることがありますが、目を天に向け、天の父なる神は、わたした ちの心よりも遙かに大きく、わたしたちのすべてをご存じであることを覚えまし ょう。

 わたしたちは、神の掟、「神の子イエス・キリストの名を信じ、互いに愛し合 いなさい」の命令を守り、御父と御子との交わりにあずかりましょう。

 
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