「 仕 え る 者 に 」                           マタイ23・1‐12  今日、私たちは特に11節と12節の言葉に注目したいと思います。「あなた がたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。だれでも高ぶる者は低 くされ、へりくだる者は高められる」(11‐12節)。さて、単純に見えるこ の言葉ですが、実のところ、そう単純ではありません。例えば、誰かが身を低く して他者に仕えているとします。しかし、その心の中で、「こうしている自分が 実は一番偉いのだ!」とつぶやいていたとしたらどうでしょう。あるいは、もし 誰かがこの言葉を読んで、「そうだ。高慢な者は尊敬されはしない。本当に賞賛 されるのは、へりくだっている人間だ。私はそのような人になりたいものだ」と 考えたとしたらどうでしょう。ここで主が言われていることは、そのようなこと ではなさそうです。そこで、この言葉を正しく受けとめるために、まずその前に 書かれている主の言葉を、丁寧に読んでいきたいと思うのです。 ●律法主義の落とし穴  はじめに1節から7節までをお読みいたします。「それから、イエスは群衆と 弟子たちにお話しになった。『律法学者たちやファリサイ派の人々は、モーセの 座に着いている。だから、彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。し かし、彼らの行いは、見倣ってはならない。言うだけで、実行しないからである。 彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かす ために、指一本貸そうともしない。そのすることは、すべて人に見せるためであ る。聖句の入った小箱を大きくしたり、衣服の房を長くしたりする。宴会では上 座、会堂では上席に座ることを好み、また、広場で挨拶されたり、「先生」と呼 ばれたりすることを好む』」(1‐7節)。  主は、律法学者たちの言うことに関して、「彼らが言うことは、すべて行い、 また守りなさい」と言われました。そして、続けて「彼らの行いは、見倣っては ならない。言うだけで、実行しないからである」と言われます。これを聞いてい た人々は、非常に驚いたに違いありません。なぜなら、律法学者たち、ファリサ イ派の人々の一番の関心は「実行すること」であったからです。  彼らにとっては実行こそ、すべてでした。実行の伴わない神学などナンセンス なのです。実行の伴わない聖書の議論など、まさに糞土に等しいのです。彼らは、 「実行すること」にかけては、きっとここに集まっている私たちの誰よりも真剣 であり真面目であったに違いありません。ですから、例えば、「安息日を心に留 め、これを聖別せよ。…七日目はあなたの神、主の安息日であるから、いかなる 仕事もしてはならない」(出20・8‐10)という律法があれば、それはどの ようにして実行され得るかを考え、解釈を繰り返したのです。実行することを重 んじたからこそ、彼らは、安息日に種を撒くことの禁止、耕すことの禁止、収穫 の禁止、パンを焼くことの禁止、火をともすことの禁止、消火することの禁止、 物を運ぶことの禁止、など39の禁止条項を生み出したのです。  むしろ、律法破りをしていたのは主イエスの方ではなかったでしょうか。例え ばこの福音書の12章を開いてみてください。主は安息日律法を破っておられる ではないですか。空腹になった弟子たちが安息日に麦の穂を摘んで食べることを 良しとされたのは、主イエスではなかったでしょうか。あえて安息日に片手の萎 えた人を癒されたのは主イエスではなかったでしょうか。律法の実行を問題にす るファリサイ派の人々であるからこそ、主が安息日を破った時に烈火のごとく怒 ったのです。「ファリサイ派の人々は出て行き、どのようにしてイエスを殺そう かと相談した」(14節)とさえ書かれているのです。「言うだけで、実行しな いからである」という言葉は、ファリサイ派の人々にとっては、まさに安息日破 りのイエスだけには言われたくない言葉であったに違いありません。  しかし、この驚異的な真面目さの中に、実は恐るべき落とし穴が隠されていた のでした。主はその問題性を見逃しません。主はホセア書を引用して言われるの です。「もし、『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とい う言葉の意味を知っていれば、あなたたちは罪もない人たちをとがめなかったで あろう」(12・7)。この言葉は、主が9章13節にも用いた言葉です。この 「わたし」というのは、律法を与えられた神です。ここで主は、神御自身に目を 向けさせようとしておられるのです。  つまり彼らの問題は、神御自身に正しく目が向けられていないことにあったの です。「何が律法に適った行為であるか」ということにしか関心がなかったから です。それゆえ、キリストが目の前におられるのに、キリストを通して神が御自 身を現しておられるのに、神が何を求めておられるのかを示しておられるのに、 彼らはそのことに気づきません。神がキリストを通して彼らにも呼び掛けておら れるのに、彼らは気づかないのです。実に、そこに大きな落とし穴がありました。 彼らは、それほど実行を問題にしていながらも、結局は律法が指し示している神 の御心を本当の意味で行ってはいなかったのです。  どんなに敬虔に見えても、どれほど宗教的な生活を営んでいるように見えても、 本質的に神御自身に思いが向いていないなら、それに反比例するようにただ人間 の思惑に対する関心だけが増大するものです。神との関わりで自分自身を見られ ないならば、人との関わりでしか自分を見られなくなるのは当然です。どうして も、自分がどのように見られているか、どのように評価されているかが気になり ます。その結果、必然的に「そのすることは、すべて人に見せるためである」 (5節)ということが起こってまいります。  彼らはどのようなことをしていたのでしょう。主は具体例をここに挙げていま す。「聖句の入った小箱を大きくしたり、衣服の房を長くしたりする」。この 「聖句の入った小箱」は、祈りの時に左腕と額につけるものです。出エジプト記 13章16節などに「あなたはこの言葉を腕に付けてしるしとし、額に付けて覚 えとしなさい」と書かれているのをそのまま実行しているわけです。私は写真な どでしか見たことはありませんが、現代でも用いられております。衣服の房につ いては、民数記15章38節以下に、「イスラエルの人々に告げてこう言いなさ い。代々にわたって、衣服の四隅に房を縫い付け、その房に青いひもを付けさせ なさい。それはあなたたちの房となり、あなたたちがそれを見るとき、主のすべ ての命令を思い起こして守り、あなたたちが自分の心と目の欲に従って、みだら な行いをしないためである」と書かれております。これらを大きくしても、それ 自体には意味がないでしょう。彼らがそのようにするのは、明らかに自分が祈り を重んじていること、律法を守って実行していることを人々に示すために他なり ませんでした。  「そのすることは、すべて人に見せるためである」ならば、その人は当然のこ とながら、行為を見せることの結果を求めます。それは人々の賞賛です。人々の 目に重んじられることです。敬われることです。「宴会では上座、会堂では上席 に座ることを好み、また、広場で挨拶されたり、『先生』と呼ばれたりすること を好む」(6‐7節)と書かれているとおりです。こうして、宗教的な行為、敬 虔な行為そのものが、人に認められるため、人から重んじられるための道具へと 変質していきます。  ここで「先生」と訳されているのは「ラビ」という言葉です。これは「我が偉 大な人」という意味です。そのように人から「偉大な人」という尊称を求める時、 そこにはもはや神から偉大な人と見なされることへの求めはありません。もっと も、それは律法学者たちだけでは成り立ちませんでしょう。そのようなことが起 こるのは、彼らを上座に座らせ、上席に座らせる人々がいるからです。彼らを偉 大な者にしてしまう人々がいるからなのです。こうして一見非常に敬虔な人々で ありながら、しかし現実には皆共に、人間とその行為にしか目を向けていない者 となっていることが分かります。 ●父は一人、師は一人  さて、このような人々の姿は、主イエスの弟子たちとは無関係でしょうか。い いえ、主イエスは、これが主の弟子たちの間にも起こり得ることをよくご存じで した。それゆえ、主はさらに言葉を続けます。8節以下は弟子たちに向かって語 られた言葉と見てよいでしょう。もちろん、ここに書かれている事は、私たちへ の語りかけでもあるのです。  「だが、あなたがたは『先生』と呼ばれてはならない。あなたがたの師は一人 だけで、あとは皆兄弟なのだ。また、地上の者を『父』と呼んではならない。あ なたがたの父は天の父おひとりだけだ。『教師』と呼ばれてもいけない。あなた がたの教師はキリスト一人だけである。あなたがたのうちでいちばん偉い人は、 仕える者になりなさい。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められ る」(8‐12節)。  「先生」すなわち「ラビ」と呼ばれてはならない、と主は言われました。事実、 その後の教会において「ラビ」という尊称が用いられることはありませんでした。 今日でも、この日本語訳をそのまま受け取って、牧師に対しても誰に対しても絶 対に「先生」という呼び名を使わない教会もあります。しかし、主が言っておら れるのは、ただ呼び名だけの問題なのでしょうか。すると、その後の言葉はどう でしょう。肉親の父親をもはや「父」と呼んではいけないのでしょうか。ローマ 教皇を'Pope'と呼ぶことについてはどうでしょう。そもそも古代教会において 「父」という言葉が尊称として使われ続けたことが間違いなのでしょうか。10 節の「教師」という言葉は新約聖書にはここにしか使われていません。これは指 導者とも訳せる言葉です。この呼び名も使うべきではないのでしょうか。  いや、ここに書かれている主の言葉の中心は、ただ呼び名についての是非では ありません。ここで大切なことは、やはり先にファリサイ派の人々について語ら れたことと同じです。すなわち、どこに私たちの目が向けられるべきか、という ことなのです。それは、父なる神であり、真の導き手なるキリストだということ です。そのために、「あなたがたの師は一人だけ」、「あなたがたの父は天の父 おひとり」、「あなたがたの教師はキリスト一人」と畳み掛けるように語られて いるのであります。  実際、もしここに書かれているような呼び名が用いられないとしても、制度と しての位階制がなかったとしても、関心が人にしか向けられていなければ、あの ファリサイ派の人々と少しも変わることはありません。例えば、そこで人間の行 為の是非しか話題にならない教会であるならば、同じことなのです。あるいは、 人間の偉大さ、立派さ、働きの大きさ、信仰の篤さ、清さや敬虔さしか話題に上 らないような教会であるならば、同じことなのです。彼らと同じ落とし穴に落ち 込んでいることになるのです。あなたがたの師は一人だけ、あなたがたの父は一 人だけ、あなたがたの教師は一人だけ――この父に、この師に心を向けて生きる 時に、初めて私たちは互いの間にあるべき関係を見出すことができるのです。そ こで初めて、「皆、兄弟なのだ」という関係を見出すようになるのです。すなわ ち、牧師であれ、教会の役員であれ、様々な奉仕者であれ、それぞれの仕方で互 いに仕え合う関係に生きられるようになるのです。  さて、「あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。だれ でも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」(11‐12節)という 言葉は、その直後に来るのです。それは既に述べられてきたことの延長として聞 かれなくてはなりません。もし、この2節だけをその前の言葉から独立させて、 ただ「偉い人」「仕える者」「高ぶる者」「へりくだる者」という言葉だけに重 点を置いて聞くならば、冒頭において申しましたように、いつの間にか仕えるこ と自体が偉い者と見なされる手段となり、へりくだること自体が高められるため の手段となってしまうのです。知らず知らずのうちに、人に見せるために仕える 者となり、人に見せるためにへりくだる者となってしまうのです。それでは、5 節に語られているファリサイ派のあり方と少しも変わりません。  私たちは父である神との正しい関わりにおいて、真に仕える者とされるのです。 十字架の死にまで下られたキリストの御業があがめられ、この方が真に私たちの 師である時に、私たちは本当の意味でへりくだる者とされるのです。ですから、 「あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。だれでも高ぶ る者は低くされ、へりくだる者は高められる」という言葉を受けとめて生きるた めの基礎となるのは、私たちの業ではなくキリストにおいて現された神の御業、 救いの御業を想起する礼拝の時以外にありません。私たちが人の偉大さではなく 神の愛と慈しみの偉大を共にほめ讃える時にこそ、私たちは知らず知らずの内に 落ち込んでしまっている律法主義の落とし穴から解放されるのであります。