「本国は天にあり」
1999年11月7日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 フィリピ3・17‐21
今日は聖徒の日です。この日、私たちは特に、既にこの世を去った方々を記念 して礼拝をいたします。礼拝堂には、それらの方々のお写真が並べられておりま す。私たちにとって、身近な、懐かしい人々です。私たちは、彼らの在りし日を 偲びながら、共に礼拝いたします。しかし、この日、私たちは、ただ懐かしんで ばかりいてもなりません。これらの方々のお写真と共に礼拝を捧げるということ は、ある意味で私たちにとって厳しいことでもあります。なぜなら、彼らがこの 地上の生を既に終えられたという厳粛な事実は、私たちの人生と決して無関係で はないからです。同じようにやがて死を迎える人間として、私たちは共に礼拝を 捧げているのです。その事実認識を抜きにして、この日の礼拝を正しく主に捧げ ることはできないだろうと思うのです。
そのような礼拝において、私たちに与えられているのは、先ほどお読みしまし たフィリピの信徒への手紙3章17節以下の御言葉です。特に、「わたしたちの 本国は天にあります」という言葉が、重い言葉として迫ってまいります。私たち が死を免れない人間であるという事実と向かい合う時、「わたしたちの本国は天 にあります」と言い表しながら生きられるかどうかは、決して小さなことではな いことが分かります。
いや、死という最終的な人間の生の限界ではなくても、私たちの人生は様々な 形で限界づけられております。この手紙を書いた時、パウロは牢獄におりました。 明日の命さえどのようになるか分かりません。しかも、今までの彼の働きが無に 帰するかも知れないという状況が、獄の外では展開しておりました。そのことに ついて、彼は何をすることもできません。しかし、そのようなパウロの状況は、 私たちとまったく無縁な、かけ離れたものであるとは思いません。明日の命さえ どうなるか分からないのは同じです。しばしば、積み上げてきたことが無に帰す るような経験をすることも同じです。私たちの手に負えない多くの事ごとに囲ま れていることも同じです。人はまことに弱い、脆い存在です。その弱い存在は、 人生の限界という壁に閉ざされた牢獄の中に生きているのです。私たちは皆、そ うなのです。そして、牢獄の中には、しばしば、「不安」「焦り」「恐れ」とい う名前の諸々の亡霊が現れます。閉ざされた牢獄が、そのような亡霊でいっぱい になるのです。人生の牢獄でもう長いこと亡霊と同居している人もたくさんいる ことでしょう。
しかし、パウロはここで、喜びに満ちて、誇りに満ちて語るのです。「わたし たちの本国は天にあります」と。物理的には閉ざされているその牢獄も、パウロ にとってはもはや閉ざされたものではありません。亡霊に満ちた閉塞空間ではな いのです。彼の人生は閉ざされていないのです。彼は天と結びついているからで す。言い換えるならば、彼には天が開かれているのです。今日、私たちにはこの 言葉が与えられているのです。私たちもまた、パウロと共に、「わたしたちの本 国は天にあります」と言い表して生きていきることができるのです。また、その ように生きたいものです。そのためにも、この礼拝において、そこで、今日は、 与えられているこの御言葉が意味することを、共によく考えたいと思うのです。
●恵みとして与えられた市民権
パウロは、獄中からフィリピの教会に宛てて、この手紙を書きました。そのフ ィリピの町はローマ帝国の植民都市であります。それゆえ、フィリピはマケドニ ア地方にある一都市でありながら、そこにはギリシア流ではない、ローマ流の生 活がありました。つまり、フィリピの人々は、マケドニアに住んでいながら、本 国はローマなのです。ですから、「わたしたちの本国は天にあります」という言 葉を聞いた時、フィリピの信徒たちはすぐにその言葉のイメージをつかむことが できただろうと思います。そこに住んでいる人々の大部分はローマの市民権をも っていました。その市民権を持っているがゆえに様々な特権を享受していました。 それがまた彼らの誇りでもあったのです。パウロが、フィリピにおけるこのロー マ市民権のイメージをもって、この言葉を書いていることはほぼ間違いないでし ょう。
しかし、その一方で、「本国がローマである」と言うことと、「本国は天にあ ります」と言うことの間には、決定的に異なる要素があることも見落としてはな りません。フィリピにおいてローマの市民権を持っている人には、自分がローマ の市民に相応しいか否か、という問題意識は起こり得ません。ローマ帝国の支配 者は皇帝です。ローマ市民であるならば、ローマ皇帝との関係は自明のことであ って、あえてその関係を問い直す必要はないわけです。ところが、「本国は天に ある」と言う時、それと同じように考えることはできません。なぜなら、そこで は、ローマ皇帝との関係ではなくて、神との関係が問われるからであります。
考えてみてください。そもそも天とはどこでしょうか。今日、天がこの大空の 彼方にあると思っている人はいないでしょう。天に関することはまことに私たち の理解を越えています。容易に語ることはできません。しかし、一つの答えは可 能でしょう。天とは神がおられるところです。天とは神がおられ神が支配してい る世界なのです。であるならば、「本国は天にあります」と言う時、そこでは神 との関係が問われるのです。しかし、神との関係が問われる時、いったい私たち は、自分を指して「天を本国とする市民である」と言えるでしょうか。天の市民 として自分は相応しい人間であると言えるでしょうか。言えないだろうと思うの です。なぜなら、私たちには罪があるからです。聖なる神の前に立ち得ない者だ からです。人との関係であるならば、いくらでも誤魔化しがきくでしょう。しか し、神との間では誤魔化しがきかないのです。私たちは神の聖なる光のもとに裸 で立たねばならないのです。そこでは罪が問題となるのです。
そうしますと、「わたしたちの本国は天にあります」という言葉は、本来だれ も口にすることのできない言葉であるはずです。天の市民権は、私たちが獲得で きる資格のようなものではあり得ないのです。私たちの何らかの行為や功績に対 する報酬などでもあり得ないのです。神の前では、私たちの罪が問題となるから です。その口に出来ない言葉がなお語られ得るとするならば、それは特別な神の 恵みによるしかありません。神との関係においては罪が問題なのですから、罪を 赦していただくしかありません。すなわち、キリストの十字架において現された 贖いの恵みによるしかありません。そのキリストを信じる信仰に基づいて神から 与えられる義(3・9)によるしかありません。キリストの十字架のもとにあっ て、初めて私たちは「本国は天にあります」と言い得るのです。
●十字架に敵対する人々
パウロはそのことを知るゆえに、その前において、このように記しています。 「何度も言ってきたし、今また涙ながらに言いますが、キリストの十字架に敵対 して歩んでいる者が多いのです」(18節)。この言葉と「わたしたちの本国は 天にあります」という言葉は明らかに対比されています。十字架に敵対する歩み と「本国は天にあります」という言葉は両立しないのです。「彼らの行き着くと ころは滅び」だと言うのです。その理由は、既に述べてきたことから明らかでし ょう。
キリストの十字架は、まったく神の愛に基づく出来事です。キリストの贖いに よる罪の赦しも、キリストの十字架を通して与えられる義も、まったく神の愛に 基づくのです。神はキリストの十字架において、罪人をなお愛し給う御自身の愛 を完全に現されました。しかし、愛は本質的に自由の上に成り立ちます。愛は強 制することができません。強制的に受け取らせることができません。その事実は 私たちの日常の経験からも、不完全ながら知ることができるでしょう。私たちが どれほど親を、あるいは子どもを愛していたとしても、その愛を強制することは できません。相手が背を向けることもあり得ます。その時には、どれほど愛して いたとしても、互いの正しい関係と交わりは成り立ちません。
神と人との関係も似ています。キリストの十字架に敵対するということは、神 の赦しをもはや必要とはしない、ということです。神によって、恵みによって与 えられる義を必要とはしない、ということです。人が、神の赦しを必要としない なら、その恵みに背を向けているならば、そこに神との正しい関係は成り立ちよ うがありません。そこに愛の交わり、神との命の交わりはあり得ないのです。神 が、神の愛から人を切り離すのではありません。十字架に背を向けるその人自身 が、自らを神の愛から切り離すのです。光を斥ければ、そこには闇しかありませ ん。神の愛と命を斥け続けるならば、そこには滅びしかありません。人が自らを 滅びへと追いやることになるのです。
そのような人について、「彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、この 世のことしか考えていません」(19節)とパウロは涙ながらに語ります。十字 架において現された神の愛に目を向け、その神の愛に身をゆだねるのでなければ、 私たちは必ず他の何かを神として、その神に身をゆだねることになるのです。そ の時に、まず神となるのは自分の「腹」だとパウロは言うのです。これを聞いて、 それこそ腹を立てる人がいるかもしれません。しかし、私たちは冷静になって、 この言葉のもとに自らを振り返りたいと思うのです。
「腹」が意味するのは欲望のことです。聖書は欲望そのものを悪だとは言って いません。「腹」は生きていくために必要です。しかし、欲望は人に仕えるべき ものであって、人が欲望に仕えるために存在するのではないのです。「腹」自体 が問題なのではなくて、「腹」を神としていることが問題なのです。そして、こ のようなことはいくらでも起こり得ます。欲を満たすことが生活の方向付けとな る時、その人は「腹」を神としているのです。欲を満たすことが人生の目的とな る時、その人は「腹」を神としているのです。そして、その「腹」なる神は暴君 と化し、いつしかその人を引きずり回すようになります。人は、ボロボロくたく たになりながら、その「腹」なる神に仕えるようになるのです。「腹」は天の神 ではなくこの世の神ですから、その神に仕えている限り、その人はこの世のこと しか考えられません。恥ずべきものを誇りとしながら、ひたすらこの世のことだ けを考えて、この世の「腹」なる神に仕えて、身をすり減らしながら尊い人生の 日々を費やしていくことになるのです。
●わたしに倣う者となりなさい
このような生き方と、「本国は天にあり」という言葉が両立しないのは明らか です。それゆえ、パウロは17節で「わたしに倣う者となりなさい」と語ってい るのです。この言葉は、一見傲慢な言葉に見えなくもありません。しかし、既に 見てきましたように、パウロは自分が立派な人間であるから、完全な信仰者であ るから、わたしに倣いなさいと言っているのではないのです。そうではなくて、 彼は十字架に依り頼まねば生きていけない、救われ得ない人間として語っている のです。そのような自分自身を示して語っているのです。その彼のように、ただ キリストの十字架に依り頼んで生きよ、と言っているのです。十字架に敵対して はならない、ということなのです。
先週の日曜日、白血病で入院しておられるひとりの兄弟が、病院の無菌室で洗 礼を受けられました。その前にお会いした時、彼はこのように受洗の希望を語っ てくださいました。「わたしは長い間、入信のことは考えてきたけれど、洗礼を 受ける資格がないと思って今日まで来た。しかし、ただ信じるだけでよいのだ、 ということが分かって、洗礼を受ける決心がついた。」彼は人間の満たすことの できる資格などではなく、積み上げてきた功績などでもなく、ただ十字架に依り 頼んで、十字架に現された神の愛に身をゆだねて、洗礼を受けられました。そし て、ただ十字架に依り頼んで、神との交わりの中に生き始められたのです。天を 本国として生き始められたのです。わたしはこの兄弟の内に、「わたしに倣う者 となりなさい」というパウロの言葉の意味を見せていただいたように思います。
私たちは、今一度、この聖書の言葉を受けとめたいと思うのです。パウロに倣 う者として生きたいと思うのです。また、パウロたちを模範として歩んでいる人 人に目を向け、彼らと同じ方向を向いて生きたいと思うのです。また、そのよう に歩んで生涯を終えられた方々、私たちがこうして共に記念している方々と、同 じ方向を向いて生きていきたいと思うのです。感謝をもってキリストの十字架を 見上げながら!その時、私たちもまた、パウロや代々の人々と共に、声を合わせ て語ることができるでしょう。「わたしたちの本国は天にあり!」と。その時、 私たちはもはや人間の限界性の壁に囲まれた牢獄の中に閉ざされてはいないので あります。