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「主が来られるとき」

1999年11月14日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 ゼカリヤ8・1‐6

 初めに2節と3節をご覧下さい。「万軍の主はこう言われる。わたしはシオン に激しい熱情を注ぐ。激しい憤りをもって熱情を注ぐ。主はこう言われる。わた しは再びシオンに来て、エルサレムの真ん中に住まう。エルサレムは信頼に値す る都と呼ばれ、万軍の主の山は聖なる山と呼ばれる」(2‐3節)。このゼカリ ヤ書の預言が語られましたのは、紀元前六世紀、エルサレムにおいて神殿の再建 が完成へと向かっていた時でありました。

●喜びの地は荒れ地に

 神殿の「再建」と申しました。かつてソロモンの時代に建てられた荘厳なる神 殿はバビロニアの軍隊によって一度完全に破壊されてしまったからです。国は破 れ、エルサレムの城壁は打ち壊され、人々は散らされ、あるいは異国の地へと捕 らえ移されてしまいました。この章の直前に、このように書かれている通りです。 「わたしは彼らを、彼らの知らなかったあらゆる国に散らした。その後に、地は 荒れ果て、行き来する者もなくなった。彼らは喜びの地を荒廃に帰させた」(7 ・14)。

 何故そのようなことになってしまったのでしょうか。7章を少し遡って見てお きましょう。かつて主が預言者たちを通して繰り返し語られた言葉が、9節と1 0節に要約されています。「万軍の主はこう言われる。正義と真理に基づいて裁 き、互いにいたわり合い、憐れみ深くあり、やもめ、みなしご、寄留者、貧しい 者らを虐げず、互いに災いを心にたくらんではならない」。さて、この主の言葉 のまったく逆の状況を言葉にしてみるとどうなるでしょうか。「正義と真理に基 づいてではなく、偏見と利害関係に基づいて裁きがなされる。人々は互いに自分 のことしか考えず、他者のことには無関心になり、互いに自分の権利の主張ばか りを繰り返す。やもめ、みなしご、寄留者、貧しい者たちなど、権利を自分で守 り得ない力ない者たちは隅に追いやられ、抑圧され、力ある者の食い物にされる。 皆、互いに災いを心にたくらみながら生きている。」なるほど、こうして言葉に してみると、それは実に恐ろしい社会の姿です。しかし、それは多かれ少なかれ、 イスラエルの民の現実でありました。

 そのような彼らに、神は預言者を送り、語り続けられたのです。しかし、彼ら は耳を傾けようとはしませんでした。「ところが、彼らは耳を傾けることを拒み、 かたくなに背を向け、耳を鈍くして聞こうとせず、心を石のように硬くして、万 軍の主がその霊によって、先の預言者たちを通して与えられた律法と言葉を聞こ うとしなかった」(11‐12節)と語られている通りです。

 ここでは一つ一つの悪い行いが責められているのではありません。正義と真理 に基づいて裁きをなさなかったこと、やもめ、みなしご、寄留者、貧しい者たち を虐げたことそれ自体が、ここで取り上げられているのではありません。問題は それ以前のことなのです。神に対してかたくなである、ということなのです。そ うです、いつでも問題は、人間の為す個々の行いにあるのではありません。神の 言葉に耳を傾けようとしない生き方そのものにあるのです。その頑固さにあるの です。かたくなに背を向けて耳を塞いで生きようとするその石のような心にある のです。

 そのようなかたくなさに対して、神の怒りが臨んだのでした。神は正しく彼ら を裁かれました。ユダの国は滅び、人々は散らされました。地は荒れ果て、行き 来する者もいなくなりました。しかし、ここで聖書は注意深く言葉を選んで語り ます。神の怒りがエルサレムを荒廃させたのだ、とは言いません。「彼らは喜び の地を荒廃に帰させた」(14節)と聖書は語るのです。神が彼らに与えたのは、 本来喜びの地であったはずでした。それが荒廃することは、本来の神の意図では ありません。それをもたらしたのは、本質的には神でもバビロニアの大軍でもな いのです。彼ら自身なのであります。神は喜びの地の上に人を生かそうされます。 しかし、神に逆らってやまない私たち人間の罪が、与えられている喜びの地を荒 廃させてしまうのです。

●わたしはシオンに熱情を注ぐ

 しかし、神は荒廃をもって歴史を終わりにしてしまわれません。神はさらに人 との関わりを先へと進め給います。神は荒廃をもたらした人間の過去と惨めな現 在だけを見ておられるのではありません。神はその未来を見ておられるのです。 神は散らされたイスラエルの民を再び呼び集め、神殿を再建させてこう言われる のです。「わたしはシオンに激しい熱情を注ぐ」。

 シオンの丘は、もはやかつての面影を留めてはいませんでした。そこに建てら れつつある神殿も、かつてソロモンの時代に建てられた壮麗なる建造物に比べる ならば、あまりに見窄らしいものでした。エルサレムの城壁は破られたまま、城 門は焼け落ちたままでありました。まさに廃墟に等しい状態でありました。そこ に帰還した人々も、かつて王国の繁栄していた時代にエルサレムに居住していた 人々と比べるならば、まことに一握りの小さな群れにすぎませんでした。シオン については、何もかもが惨めでした。しかし、主はそのシオンに激しい熱情を注 ぐと言われるのです。神はそのシオンに目を留められるのであります。

 ここは、以前用いていました聖書協会訳では次のようになっていました。「わ たしはシオンのために、大いなるねたみを起こし、またこれがために、大いなる 憤りをもってねたむ」。新共同訳で「熱情」と訳されているのは、他の訳では 「ねたみ」となっているのです。「ねたむ神」という表現は非常に強烈です。し かし、このような表現が聖書の中にはたくさん出てくるのです。

 神はねたむ神であります。「熱情」と訳されようが「ねたみ」と訳されようが、 ここで表現されているのは、神の民を完全に自分のものにしようとされる神の熱 意であります。ねたむ神である主は、神の民が完全に神のものとして生きること を求められます。ねたむ神である主は、神の民が他に向くことを許されません。 神の民が、背を向けることを許されません。神の言葉に耳を塞いでしまうことを 許されません。神の愛に背く人間の罪を憎まれます。罪に対して憤られるのです。

 「激しい憤りをもって熱情を注ぐ」という表現は奇異に聞こえるかもしれませ ん。しかし、それは言い換えるならば、神は人間に対して無関心ではあり得ない ということなのです。それはやがてそのシオンにおいて、ひとりの御方を通して 現される神の熱情に他なりません。イエス・キリストによって、その十字架にお いて、罪に対する神の憤り、そして人を求めてやまない神の熱情は完全に現され ることになるのです。そのような熱情を注ぐと、主はここで語っておられるので す。

●神による回復

 そのように熱情を注ぎ給う主は、さらに「わたしは再びシオンに来て、エルサ レムの真ん中に住まう」と言われます。主は、人々のただ中に住まおうとされる のです。神は自ら人と共にいて、人と共に生きることを望まれます。主はエルサ レムの真ん中に住まうと言われます。しかし、主が住み得るところとなるために、 都は一度破壊されなくてはなりませんでした。ソロモンの神殿は一度破壊されな くてはなりませんでした。神に背を向けたままの繁栄は、一度奪い去られねばな りませんでした。そうして一度荒れ果ててしまった都に対して、主はそこに住ま う、と言われるのです。主が来られる時、荒れた都は回復されるのです。

 主が来られ、共に住まわれる時、回復された都とはどのようなものとなるので しょうか。4節以下には次のように書かれています。「万軍の主はこう言われる。 エルサレムの広場には、再び、老爺、老婆が座するようになる、それぞれ、長寿 のゆえに杖を手にして。都の広場はわらべとおとめに溢れ、彼らは広場で笑いさ ざめく」(4‐5節)。これが、神の回復しようとしておられる都の姿です。こ こに、私たちは、神が人間に与えようとしておらえる世界がどのようなものであ るか、神の支配したもう神の国とはどのようなものであるかということに関する 一つの映像を与えられているのです。それは広場の映像です。

 主が来られて共に住まわれる時――ここではかつてソロモンの時代のような繁 栄が回復されるとは語られていません。主は、ただ物事を元通りにしようとされ るのではありません。主が来られて共に住まわれるその時――政治的にも経済的 にも他の国々を圧倒するような王国となるとは語られておりません。主が与えよ うとしているのは、そのようなものではありません。主が見ておられるのは一つ の広場です。そこには、老爺、老婆が座しています。長寿のゆえに杖を手にして 座っているのです。私たちも、彼らの姿に目を向けなくてはなりません。

 主が来られて共に住まわれる時、そこでは年老いた人々が安心し、かつ幸福に 座っています。もはや何にも脅かされることはありません。先行きの不安、死の 恐れに押しつぶされることもありません。忙しく立ち働けなくなったからといっ て存在の意義を見失ってしまうこともありません。何かが出来なくなったからと 言って誰からも疎んじられることもありません。自分で自分を疎んじて、ひがん で生きる必要もありません。主が来られて共に住んでくださる時、そこでは人が 安心して存在することができるのです。人が自らの生そのものを肯定できる、生 きていることそのものを喜べる、そのような世界の映像を主は私たちに語られる のです。

 そして、その同じ広場には子どもたちが溢れています。広場は彼らが笑いさざ めく声に満ちているのです。主が来られて共に住まわれる時、そこは子どもが子 どもとして生きることができます。子どもたちは安心して笑い戯れることができ るのです。そこには彼らを害する大人たちはいません。親や他の大人たちから虐 待されることもありません。親が見栄を張るための人形、親の夢を実現させるた めの道具にされることもありません。他人との比較と競争の中に押し込まれて、 無理矢理走らされることもありません。受験産業によって食い物にされることも なければ、セックス産業の餌食になることもありません。主が来られ、共に住ま われる時、彼らを待っている未来を、安心して喜びをもって受けとめることがで きます。彼らによって、人生は単なる課題なのではなく、何よりもまず素晴らし い賜物として受けとめられます。それゆえ、また子どもたちが現在を大いに喜び、 大いに楽しむことができるのです。子どもたちは心から笑うことができるのです。

 主の御目はそのような神の都の広場を既に見ています。しかし、これを語った ゼカリヤの目には、そのような広場は見えなかったに違いありません。彼の目の 前に広がるのは、いまだ人間の罪とその結果によって荒れ果ててしまったエルサ レムでしかなかったかもしれません。それは私たちにおいても同じでしょう。私 たちの目の前に広がっているのは、やはり同じように荒れ果てた世界です。神に 耳を傾けることを拒み、かたくなに背を向け、耳を鈍くして聞こうとせず、心を 石のように硬くしてきた、この世代の罪が作り出してきた荒廃しか、私たちの目 には見えてきません。人が幼い時も、年老いた時も、本当に喜びをもって共に生 きることのできる世界は見えてこないのです。この世界は、笑いさざめく声では なくて、生きることよりも死を求める嘆きの声に満ちているではありませんか。

 しかし、預言者はなお言葉をついでこう語るのです。「万軍の主はこう言われ る。そのときになって、この民の残りの者が見て驚くことを、わたしも見て驚く であろうかと、万軍の主は言われる」(6節)。私たちの想像を越える神の計画 が実現したとしても、わたしは驚かない、と神は言われるのです。私たちにとっ ては驚くべきことであっても、神にとっては至極当然の結末なのであります。神 は真実な方であるゆえに、神が約束されたことは実現に至るのです。私たちの希 望は、人間の持っている諸々の可能性にではなく、ただこのように語られる神に こそあるのです。既に御自身の熱情を、シオンにおいて、ひとりの御方を通して 現されたこの神にこそあるのです。私たちの希望は、その熱情をもって私たちの ただ中に来たりて住まわれ、御国を来たらせ給う神にこそあるのです。

 今日、大阪のぞみ教会は、「子ども祝福礼拝」として共に集まり、特に子供た ちのために心を合わせて祈りました。もし、神に目を向けることがないならば、 私たちは子どもたちに語る言葉がありません。語り得るとするならば、「私たち は喜びの地を荒廃させてしまいました。あなたたちはこの荒廃の中を生きていか なくてはなりません。本当に申し訳ない」と言うしかありませんでしょう。しか し、私たちは熱情をもって私たちのただ中に来たりて住まわれる神に目を向けま す。私たちはこの方に信頼し、この主を礼拝し崇めます。この主がおられるから こそ、私たちはこの子どもたちと共に、希望をもって未来に向かうことができる のです。この主がおられるからこそ、私たちは望みを失わず、主が与えようとし ておられる世界を私たちもまた求めて生きることができるのです。子どもたちと 共に、「御国が来ますように。御心が天になるごとく、地にもなりますように」 と祈りながら。

 
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