「最も小さい者の一人」
1999年11月21日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 マタイ25・31‐46
今日の箇所を読んで、皆さんは何を思いましたでしょうか。もしかしたら、ミ ケランジェロの「最後の審判」を思い出した人がいるかも知れません。いずれに せよ、多くの人にとって、特にこの箇所の後半から受ける印象は、「恐怖」であ ろうかと思います。41節の「呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とそ の手下のために用意してある永遠の火に入れ」とは、まことに恐るべき言葉です。 確かに、恐怖は一つの動機とはなります。そうしますと、この箇所は、地獄絵図 のように、恐怖をもって善行を促す動機付けを目的としているものなのでしょう か。私たちは、神の国に入るため、そして地獄の火を逃れるために、愛の行為を 勧められているのでしょうか。
●この箇所を読むに当たって
そこで、まずこの主の言葉を理解する上で幾つかのことを踏まえておきたいと 思います。まず第一は、この箇所は単独で存在するのではない、ということです。 24章から続いています終末についての説話、そして「忠実な僕と悪い僕のたと え」「十人のおとめのたとえ」「タラントンのたとえ」などのたとえ話に続いて 今日の箇所が記されているということです。
少し遡って、24章36節をご覧下さい。終末についての説話において、マタ イは次のような主の言葉を記しました。「その日、その時は、だれも知らない。 天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存じである」。これは、終末に関す る説話において、それが「いつであるか」ということには大きな関心が向けては いないことを意味します。また、終末の描写に関しても、殊更に多くの言葉が費 やされているわけではありません。今日の聖書箇所におきましても、最低限のこ としか語られていません。それは例えばヨハネの黙示録などと比較すれば一目瞭 然です。つまり、そこで「何が起こるか」ということにも、殊更に大きな関心は 向けてはいないということです。
ではこれら一連の説話の関心はどこに向けられているのでしょうか。それは終 末における出来事そのものではなくて、「今」なのです。「今、私たちはいかに 生きるべきか」ということなのです。ですから「だから、目を覚ましていなさい 」(24・42、25・13)という言葉が繰り返されるのです。目覚めている べき時は「今」なのです。そして、24章、25章に見られる一連のたとえ話に おいても、やはり主題は「今」に関係していることが分かります。
要するに、これを読みまして、「最後の審判はいつであるか」、あるいは、 「自分は神の国に入るか、それとも地獄の火の中にいくだろうか」ということし か考えられないとするならば、それはこの箇所を本当の意味で読んだことにはな らない、ということなのです。あるいは、「今」を考えるにしても、地獄の火を 逃れて神の国に入るために、あたかも保険を掛けるように、善行や隣人愛の行為 を積み立てる――もし究極的には審判のことにしか関心がなければ、そのような 意識にさえなりかねません。そのような善行や愛の行為ならば、考えてみれば、 それは自分の救いのために他者を踏み台にしているに過ぎません。この箇所の本 来の意図は、そのような行為を勧めることではないはずです。
そして、第二は、主の言葉にある程度の曖昧さが残されているという事実です。 特に王の答えにある「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人」とはいった い誰を指すのかが、必ずしも明確ではありません。これは助けを必要とするすべ ての人を指すのでしょうか。ユダヤ教においても、貧しい者に対する施しは勧め られていました。この箇所も、それと平行するものと見て、これを身分の低い者、 抑圧されている者、人々から見捨てられた者を指すものと理解することはできる でしょう。
しかし、ではそれですべてが語り尽くされているかと言えば、単純にそうとも 言えません。この福音書の10章42節をご覧下さい。「はっきり言っておく。 わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませ てくれる人は、必ずその報いを受ける」。この場合、「小さな者」とはキリスト 者を指すことになります。しかも、主によって宣教へと遣わされているキリスト 者です。彼らを受け入れる者は、キリストを受け入れるのだ、と言われているの です。そこで、全世界は福音を伝えるためにキリストによって遣わされた人々と どのように関わったかによって裁かれるのだ、という解釈が成り立ちます。事実、 「旅をしていたとき宿を貸し」「牢にいたときに訪ねてくれた」などの言葉は、 困難の中を巡回しながら伝道していた古代の伝道者たちの姿を思い起こさせるも のです。
このように、「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人」が誰を指すのか は明確ではありません。そして、聖書が曖昧にしているところは、あえて曖昧な ままにしておくことも大事なことでしょう。必ずしも、自分と「最も小さい者の 一人」との関係を、厳密に規定する必要もないのです。自分に関わっている様々 な関係をそこに置いてみたらよいのです。さらには自分自身をその「最も小さい 者の一人」の位置に置いてみることも許されるでしょう。さて、以上の二つのこ とを念頭に置いた上で、この箇所を読んでいきましょう。
●羊と山羊との中に身を置いて
まず、私たちは、主の御前にある左右二つの群れ、すなわち裁かれている山羊 と羊の中に身を置いて、この箇所を読んでみましょう。私たちはまずどのような 言葉を聞くでしょうか。34節から40節までをご覧下さい。「そこで、王は右 側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時 からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、わたし が飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたと きに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてく れたからだ。』すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、 飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み 物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸で おられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられ たりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』そこで、王は答える。『はっきり 言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしに してくれたことなのである』」(34‐40節)。
「祝福された人たち」と言われて、右側にいる人々は怪訝そうな顔をします。 神の国を受け継ぐことを、当然受けるべき報いであると考えている人など、そこ には一人もおりません。王は彼らに説明します。王の説明は彼らをさらに混乱さ せます。「いつそのようなことをしたでしょうか」と彼らは問うのです。彼らの 記憶に残っている事柄というのは、彼らにしたらあまりに小さなことなのです。 いや、記憶にさえ残っていなかったかも知れません。神のために誰もが目を見張 るような大事業を成し遂げたわけでもありません。自分の命と引き替えに誰かを 助けるというような大きな犠牲を払ったわけでもありません。彼らは大伝道者で もなければ、その行為が後生に語り伝えられる聖人でもありません。彼らがした ことは、それこそ渇いている人に一杯の水を差し出しただけなのかもしれないの です。
しかし、主はそのことに目を留められます。そして、それは「わたしにしてく れたことなのだ」と言われるのです。人の見るところと主の見るところは異なり ます。人の目に小さなことも主の目には決して小さなことではありません。私た ちは、自分の為しえることの小ささを卑下する必要はないのです。主は、どのよ うな小さな行為であっても、御自分に対する行為として受けとめてくださるから です。これは私たちにとって、大きな励ましであるに違いありません。
さらに、その続きをご覧下さい。「それから、王は左側にいる人たちにも言う。 『呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある 永遠の火に入れ。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせず、のどが渇 いたときに飲ませず、旅をしていたときに宿を貸さず、裸のときに着せず、病気 のとき、牢にいたときに、訪ねてくれなかったからだ。』すると、彼らも答える。 『主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、渇いたり、旅をしたり、裸であ ったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったで しょうか。』そこで、王は答える。『はっきり言っておく。この最も小さい者の 一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである』」(41‐ 45節)。
一方、「呪われた者ども」と言われて、左側にいる人々も怪訝そうな顔をしま す。永遠の火に入れられることを、当然受けるべき報いであると考えている人な ど、そこには一人もおりません。王は彼らに説明します。王の説明は彼らをさら に混乱させます。「いつそのような酷いことをしたでしょうか」と彼らは問うの です。彼らの記憶に残っている事柄というのは、彼らにしたらあまりに小さなこ となのです。いや、記憶にさえ残っていなかったかも知れません。彼らは盗みを 働いたわけではありません。姦淫の罪を犯したわけでもないでしょう。その行為 が後生に語り伝えられるような極悪人ではなかったかもしれません。彼ららがし たことは、それこそ一人の人に対する些細な仕打ちであるかも知れません。ただ 渇いている人に一杯の水を差し出すことを怠っただけなのかも知れないのです。
しかし、主はそのことに目を留められるのです。そして、それは「わたしにし てくれなかったことなのである」とさえ言われるのです。人の見るところと主の 見るところは異なります。主の目から見るならば、それは悪魔とその手下の行為 と同じなのです。しかし、いったい、誰がこのような責めを免れるでしょうか。
この言葉は私たちを打ち砕きます。しばしば、自分は主を愛し、主のために何 かを成し遂げていると考えて思い上がっているような私たちを、この言葉は粉々 に打ち砕くのです。自分こそ地獄に相応しい者であること、「わたしこそ、あな たに冷たい仕打ちをしていた者です」と告白して、主の憐れみを乞わざるを得な い者であることを、思い知らされるのであります。
●主の傍らに身を置いて
しかし、これですべてが語り尽くされたわけではありません。私たちはさらに、 主の傍らに身を置いて、すなわち、「最も小さい者の一人」の位置に身を置いて 読むことができるのです。すると、今までとは全く違った風景がそこに開けてま いります。
主は横に立っておられます。そして、私を指さしてこう言われるのです。「は っきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わ たしにしてくれたことなのである」。何ということでしょう。主は私たちを「わ たしの兄弟」と呼ばれるのです。そして、私たちと主御自身を同一視されるので す。私たちが受けた愛の行為を、それがたとえ水一杯を飲ませてもらうようなこ とであっても、主はそれを御自分のこととして喜んでくださるのです。主と私た ちは喜びにおいて一つなのです。
そして、さらに私たちは次のような言葉を聞きます。「はっきり言っておく。 この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなの である」。そこに立っておられるのは、私のために大喜びしてくださるだけの方 ではありません。私のために、本気で怒ってくださる方であります。私たちは、 この世において生きているかぎり、繰り返し人の世の冷たさを経験します。軽ん じられることがあります。愛されないことがあります。さらには自分より力ある 者によって酷い仕打ちを受けることもあります。しかし、主はそれらの事々を自 分が経験したこととして悲しみ、痛み、そして怒ってくださるのです。その時、 私たちの内にあった悲しみ、痛み、怒りは主の怒りの中に取り込まれてしまいま す。もはや、私たち自身は悲しんだり、怒ったりする必要がなくなってしまうの です。
さて、今日の箇所は、主の受難物語の直前に置かれております。この直後に、 主は弟子たちにこう言われるのです。「あなたがたも知っているとおり、二日後 は過越祭である。人の子は、十字架につけられるために引き渡される」(マタイ 26・2)。主は、「最も小さい者の一人」と御自分を一つとするために、十字 架へと向かわれたのでした。主は、あの十字架において、貧しい者、低い者、抑 圧されている者、人々から見捨てられた者、そして何よりも、自らの罪の中から 「主よ憐れんでください」と叫ばざるを得ない私たちすべての者と一つとなられ たのです。
そのような主の傍らに身を置いて見えてくることと、先に山羊と羊の中に身を 置いて見えたこととは無関係ではありません。主を傍らに見て、主が「わたしの 兄弟であるこの最も小さな者の一人」と呼んでくださることを喜ぶ者は、他者の 傍らにも主を見るようになるはずなのです。その人を、主の傍らにいる「最も小 さい者の一人」として見るようになるはずなのです。そのように他者を主との関 係に見る時に、その人に対する行為が即ち主に対する行為であることを悟るので す。このようにして、神の前に持ち出す功績でもない、神の国に入るための保険 でもない、いかなる形においても自分自身に栄光を帰さない愛の行いが、小さい ながらもそこから始まるのです。そして、それはたとえ小さなことであっても、 決して主の目に軽んじられることはないのです。「はっきり言っておく。わたし の兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなの である」。