1999年11月24日祈祷会 清弘剛生牧師 (通常は毎週の礼拝説教を掲載しておりますが、今週は、去る11月24日 に行われた祈祷会において語られました小説教を掲載いたします。)       「災 い と 救 い」                         エレミヤ30:1‐17 <1‐3節>  30章‐31章には、様々な時代に語られた救済預言が集められています。そ の導入に当たるのが1‐3節です。ここには「わたしがあなたに語った言葉をひ とつ残らず巻物に書き記しなさい」(2節)と書かれています。書き記されねば ならないのは、これが繰り返し聞かれねばならないからです。時代を越えて語り かけられるべき言葉であるからです。本来特定の状況のもとで語られた言葉であ るにもかかわらず、それは時代を越えた神の御心を示しているということでしょ う。  そして、主要なメッセージが次のように要約されています。「見よ、わたしの 民、イスラエルとユダの繁栄を回復する日が来る、と主は言われる。主は言われ る。わたしは、彼らを先祖に与えた国土に連れ戻し、これを所有させる」(3節)。 これを、例えば、28章2節以下と比較してみてください。「イスラエルの神、 万軍の主はこう言われる。わたしはバビロンの王の軛を打ち砕く」(28:2)。 これはハナンヤの預言です。このハナンヤは、エレミヤ書において、偽りの預言 者として語られています。ところが、エレミヤを苦しめた偽預言者たちの使信と 類似した言葉が、今日お読みしました30章以下やその他のところに出てくるの です。そうしますと、偽預言者たちの語った救いとここに記されている救いの違 いがどこにあるのか、ということがこの箇所を理解する上で一つの鍵となること が分かります。 <4‐7節>  そこで気づきますことは、この救いと回復の預言が、イスラエルの災いについ ての言葉と共に現れるということです。4節以下には、まず神の民の経験した災 いについて語られております。主は言われるのです。「災いだ、その日は大いな る日、このような日はほかにはない」(7節)これは、裁きとしての主の日の預 言です。このような使信は、アモスやヨエルなど、時代を越えて他の預言者たち の言葉の中に見出し得る使信です。つまり、イスラエルの民に臨んだ苦しみが、 彼らに繰り返し語られた警告と裁きの預言に結びつけているのです。イスラエル の罪に対する神の裁きであるということです。捕囚の苦しみは、単に敗北や不遇 として受けとめられてはならないからです。まず己の罪そのものが認識されねば なりません。そうして初めて、7節の「しかし、ヤコブはここから救い出される」 という言葉が意味を持つのです。 <8‐9節>  「ヤコブはここから救い出される」がそのように理解されるならば、当然のこ とながら、神の救いの行為は民を従順へと導くものとなるでしょう。不信仰と不 従順の罪を認識しなければ、苦難から解放されても、不従順と背信の罪から解放 されることはありません。主は「お前の首から軛を砕き、縄目を解く」(8節) と言われます。しかし、神が軛を砕き、縄目を解き給うのは、自由のもとでの神 への従順、神の支配のもとでの生活を与えるためなのです。それゆえただ解放が 語られるのではなく、「彼らは、神である主と、わたしが立てる王ダビデとに仕 えるようになる」(9節)と語られているのです。  この「軛」という言葉は、既に27章以下に出てきました。そこでエレミヤは 諸国からの使者たちにもゼデキヤ王にも「軛を負いなさい」と語ったのです。そ れは神の与えられた軛だからです。神の与えられた軛であることを認識して、そ れを負った者だけが、神がその軛を砕かれることの意味を理解できるのです。そ れは、28章でハナンヤが安易にエレミヤの首から軛をはずして打ち砕き、安価 な救いを語ったのとは、根本的に意味合いが異なるのです。 <10‐11節>  神は、そのような従順を与える目的のもとに、捕囚からの救いを語ります。 「わたしの僕ヤコブよ、恐れるなと主は言われる。イスラエルよ、おののくな。 見よ、わたしはお前を遠い地から、お前の子孫を捕囚の地から救い出す。ヤコブ は帰って来て、安らかに住む。彼らを脅かす者はいない」(10節)。そのよう にして、神への従順へと導かれて、初めて、神の裁きにおいて臨んだ苦難が、決 して民を滅ぼすことを目的としていたのではないことが分かるようになります。 それは懲らしめに他ならなかったと、主は言われるのです。「しかし、お前を滅 ぼし尽くすことはない。わたしはお前を正しく懲らしめる。罰せずにおくことは 決してない」(11節)。神はまことに愛する者を懲らしめ給うのです。 <12‐15節>  確かに神の懲らしめはしばしば過酷なものとなります。「お前の悪が甚だしく、 罪がおびただしいので、わたしが敵の攻撃をもってお前を撃ち、過酷に懲らしめ たからだ」(14節)と書かれている通りです。神は、この懲らしめがどうして 臨んだのか、その理由を14節と15節において繰り返されます。そこに神の意 図があることを理解させるためです。  一方、そのように懲らしめられ、傷つけられているとき、「愛人たちは皆、お 前を忘れ、相手にもしない」と語られています。「愛人たち」とはイスラエルが 依り頼んできた他の国々のことです。彼らが依り頼んできた神ならぬものは、す べて、いざという時に依り頼み得ないものであることが明らかにされました。そ うして、彼らの不信仰、神への背反も明らかにされたのです。依り頼んできた 「愛人たち」が相手にもしなくなる一方で、本当にイスラエルの打ち傷を心にか けている方がそこにおられるのを、私たちはここに見るのです。それは懲らしめ 給うた主御自身であります。懲らしめによる苦しみを一番心にかけておられるの は、懲らしめ給うた主なる神御自身に他ならないのです。 <16‐17節>  それゆえ、懲らしめ給う主は同時に、癒し給う主でもあることが明らかにされ ます。「さあ、わたしがお前の傷を治し、打ち傷をいやそう、と主は言われる。 人々はお前を、『追い出された者』と呼び、『相手にされないシオン』と言って いるが」(17節)。人の目から見るならば、見捨てられ、うち捨てられたよう な状態であるかも知れません。まったく誰からも「相手にされない」ものである ようにも見えるでしょう。しかし、主は見捨てておられません。主は関わり給う のです。彼らは「相手にされないシオン」ではありません。主は相手にし給うの です。主は御自分の民に無関心でいられないのです。  神が人に無関心であるならば、人を懲らしめることはないでしょう。主は人が 神に立ち帰ることを望んでおられるのです。主は、救われた人が、信仰による従 順な神の民として、神の恵みの内を生きることを望んでおられるのです。