「主の道を整えよ」
1999年12月5日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 マルコ1・1‐8
「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。 』」(マルコ1・3)。
アドベントの第二週の礼拝において私たちに与えられているのはこの叫び声で す。クリスマスが間近に迫ったこの時、私たちにこの言葉が与えられています。 「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」。私たちはこの声と共に、このア ドベントの期間を過ごすようにと導かれているのであります。
●主が来られる道
私たちは、この言葉の意味するところをよく味わうために、まず「主の道」と いう言葉について思い巡らしたいと思います。この部分は鍵かっこに入っていま す。旧約聖書の引用です。「預言者イザヤの書にこう書いてある」という言葉で 導入されています。厳密に言いますと、全部がイザヤ書の引用ではありません。 イザヤ書から来ているのは3節だけです。しかも、文字通りの引用ではありませ ん。しかし、この言葉がどこから来ているかを知ることは理解の助けになります ので、まずそちらを開いてみましょう。
イザヤ書40章3節をお開きください。こう書かれています。「呼びかける声 がある。主のために、荒れ野に道を備え、わたしたちの神のために、荒れ地に広 い道を通せ」。言葉がかなり違いますが、先に見た箇所がこの部分に由来するこ とは明らかです。さて、このイザヤ書の預言は、本来どのような意味だったので しょうか。
主のために、荒れ野に道を備えるのは、主なる神が通られるためであるに違い ありません。神はどこに向かわれるのでしょうか。神の向かわれる先はシオンで す。エルサレムです。ですから9節には「高い山に登れ、良い知らせをシオンに 伝える者よ」と語られているのです。神が荒れ野に備えられた道を通ってシオン に向かわれるということは、神の栄光が一度エルサレムを離れ去ったことを意味 します。事実、この預言の背景となっているのは、廃墟となってしまったエルサ レムでありました。バビロニアの軍隊によって破壊された都、焼き払われた神殿 でありました。
なぜ神の都は廃墟となってしまったのでしょうか。なぜ、主の神殿が破壊され たのでしょうか。聖書はその出来事を単なる敗戦とは見ていません。それは神の 裁きに他ならないと語るのです。2節にはこう書かれています。「エルサレムの 心に語りかけ、彼女に呼びかけよ、苦役の時は今や道、彼女の罪は償われた、と。 」荒廃したエルサレムはその苦役の時の姿に他なりませんでした。しかし、そこ に神が帰ってこられると言うのです。そのために荒れ野に道を備えよ、と呼びか ける声が響き渡るのです。
さて、神が来られるのは何のためでしょうか。10節以下にはこう書かれてい ます。「見よ、主なる神。彼は力を帯びて来られ、御腕をもって統治される。」 神はその民を統治されるために来られるのです。神の支配をもたらすために来ら れるのです。旧約聖書において、王はしばしば羊飼いに喩えられます。神は王と して来られ、まことの羊飼いとして羊を養われるのです。「主は羊飼いとして群 れを養い、御腕をもって集め、小羊をふところに抱き、その母を導いて行かれる 」(11節)と書かれているとおりです。
これは神の民の回復の預言です。そして、大切なことは、ここに書かれている ように、神の民の回復と、神の支配の到来とは不可分の関係にあるということで す。歴史的な出来事としては、エルサレムを再建したのはバビロンからエルサレ ムへと帰還した人々でした。彼らの手によって神殿は建て直され、エルサレムの 城壁も修復されました。エルサレムは人々の住める場所となりました。帰還民は、 新しい共同体社会を作り上げていきました。ある人々は、生活が回復すればそれ で十分であると考えたかも知れません。しかし、それは預言者が語ったことの成 就ではありませんでした。都の再建、民族の再建が、すなわち神の民の回復では ないのです。罪によってもたらされた廃墟からの本当の回復は人間の手によって もたらされるのではないのです。ただ元通りになることでもないのです。主の道 を通って主なる神が来られ、神がまことの王として治められるところにこそ、真 の救いがあり、回復があるのです。
それゆえ、数百年後に、同じ声が荒れ野に響きわたります。「主の道を整え、 その道筋をまっすぐにせよ」。神の民とこの世界の歴史において、決定的なこと が起こりつつありました。主の道を通って主なる神が来られるのでしょうか。神 が御自分の支配を人々の中に打ち立てるために来られるのでしょうか。そうです、 あの預言者の語った希望が実現しつつありました。神は一人の方を通して、歴史 の中に入ってこられ、御自分の救いのわざを現そうとしておられたのです。一人 の方、待ち望まれたキリストを通して、御自分の支配を打ち立て、神の国を来た らせようとしておられたのです。
ヨハネは、来るべきその方についてこう語ります。「わたしよりも優れた方が、 後から来られる。わたしは、かがんでその方の履き物のひもを解く値打ちもない。 わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる 」(8節)。マタイによる福音書では、「その方は、聖霊と火であなたたちに洗 礼をお授けになる」(マタイ3・11)となっています。
ヨハネの考えていたのは、恐らく火をもって最終的な裁きを行う審判者ではな かったかと思います。しかし、キリストは罪を裁く方として来られたのではあり ませんでした。神は罪人を滅ぼして神の支配を打ち立てようとされたのではあり ませんでした。この方は、力をもって支配する方としてではなく、僕となって罪 を負い、罪の代価として自分の命を献げるために来られたのです。後に主がこう 言っておられる通りです。「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、ま た、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」(マルコ1 0・45)。
しかし、ヨハネが語った言葉自体は、決して間違いではありませんでした。 「その方は聖霊で洗礼をお授けになる」。この方こそ、人間の罪を負い、神との 和解をもたらし、神の霊を与え給う御方でありました。審判の火としてではなく、 神の創造的な働きとして、命を与える霊として、聖霊を与え給うのです。こうし て、神の支配はもたらされるのです。聖霊によるバプテスマによって。
「聖霊のバプテスマ(洗礼)」――この言葉は、しばしばある特定の体験や特 定の理解と結びつけられます。もちろん、聖霊のお働きとしての様々な経験を否 定する必要はありません。しかし、聖霊は神であります。神の霊は人間の経験や 理解よりも大きな方であるに違いありません。聖書において、聖霊のお働きが実 に多様な表象をもって表現されていることは無意味なことではありません。一つ の単純な表現によって言い表し得ないからであるに違いなのです。同じように、 聖霊のバプテスマもまた、単純に説明できるようなことではないでしょう。
大切なことは、聖霊のバプテスマが何であるかということよりも、聖霊のお働 きを通して、生ける神が私たちをその御支配のもとに生かそうとしていてくださ るということなのです。神は来て私たちを治め給うのです。キリストの十字架も 復活も、聖霊の降臨も、すべてはそこに向かっていたのです。キリストはそのた めにこそ来られたのです。神は来て私たちを治め給うのです。キリストの御業の ゆえに、私たちは神の治め給う神の民とされるのです。そこにこそ、人間にとっ て真の回復と救いがあるのです。
●道筋をまっすぐにせよ
では、主の道はどのようにして整えられるのでしょうか。ヨハネは、主の道を 整える者として、いったい何をしたのでしょうか。4節にはこう書かれています。 「洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を 宣べ伝えた」(4節)。これが主の道を整えることでありました。キリストを迎 える備えでありました。来るべき神の国への備えでありました。ヨハネがそのよ うに悔い改めの洗礼を宣べ伝えた結果として、「ユダヤの全地方とエルサレムの 住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた 」(5節)と書かれています。
洗礼そのものはヨハネが考案したものではありません。一見すると、これに近 いものは、旧約聖書のレビ記にも規定されている沐浴です(レビ15・13)。 実際、沐浴を行う禁欲的な共同体が当時のユダヤ教の中にありまして、洗礼者ヨ ハネはしばしばそのような荒れ野で隠遁生活をしていた共同体と結びつけられま す。しかし、ここを読みますかぎり、彼の宣べ伝えていた洗礼は悔い改めと結び ついた一回限りの決定的な行為ですので、沐浴とは本質的に異なるようです。ヨ ハネの洗礼は、むしろ改宗者の洗礼に近いものと考えてよいでしょう。改宗者の 洗礼とは、ユダヤ人でない者がユダヤ教に改宗したときに受ける洗礼です。
そのように考えますと、そこに洗礼運動の本質が見えてきます。改宗者の洗礼 は、いわば神を知らなかった者が今までの罪の汚れを洗い落として新しく生まれ ることを意味しました。ところが、ヨハネはこれに類似した洗礼をユダヤ人にも 授けているのです。これが、厳格なユダヤ人たちにとって、どれほど受け入れ難 いことであったかは、容易に想像することができるでしょう。「ユダヤの全地方 とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て」と書かれていますが、実際には、 彼のもとに来なかった者も多かったのです。事実、この福音書11章には、ヨハ ネのもとに来なかった祭司長、律法学者、長老たちが出てくるのです。なぜ彼ら はヨハネの宣教を受け入れなかったのでしょうか。自分が本当に赦されなくては ならない罪人、異邦人同様に罪の汚れを洗われなくてはならない罪人であるなど と思わなかったからであります。要するに、自分を正しい者だと考える者はヨハ ネのもとに来なかったのです。自分の罪を認め、自分が罪人であることを告白す るものだけが、そこで悔い改めの洗礼を受けたのです。
悔い改めとは、方向転換をすることです。神に立ち帰ることです。方向転換と は、方向が間違っていることを認めないとできないのです。当時のユダヤ人社会 においては、貴族階級や特権階級以外の民衆は苦しい生活を強いられていたこと と思います。多くの人々が救いを求めていたに違いありません。しかし、自分の 生活の惨めさ、苦しい現実をただ呪って嘆いているだけの人は、悔い改めはしな かったのです。自分以外の人間が皆悪いためにこのような苦しみを負っているの だ、と考える人は、悔い改めようとはしないのです。世の中が悪い、社会が悪い、 時代が悪い、環境が悪い、親が悪い、夫が悪い、妻が悪いなどと言ってすべてを 他者の責任とし、あげくの果てには神さえ悪者とするような人は、決して悔い改 めようとはしないのです。
しかし、そうではなく、ヨハネの宣教によって、自分の生き方そのものがおか しいのではないか、ということに気づいた人々がいたのでした。自分の人生の方 向そのものがおかしいのではないか、自分こそ赦しを必要としている罪深い者な のではないか、ということに気づいた人々がいたのです。そして、そのような人 だけが、ユダヤ人としてのプライドも、周りの人々との間のしがらみもかなぐり 捨てて、ヨハネのもとに来て洗礼を受けたのです。その悔い改めこそ、まさにキ リストを迎え、来るべき神の支配を受け入れる備えでありました。それこそが主 なる神が来られる主の道を整え、道筋をまっすぐにすることに他ならなかったの です。
神の支配のもとに生きること、神の恵みのもとに回復された者として生きるこ とを妨げるのは、人間の悪そのものではありません。キリストを受け入れること を妨げるのは、罪深い現実そのものではありません。そうではなくて、むしろ自 分を正しい者とする傲慢さ、自分の方向を何としても変えまいとする頑なさ、必 死にしがみついて手放そうとしないプライドやつまらないこだわりが、キリスト との関係を妨げるのであります。それは私たちがこの福音書に見る通りです。罪 人はキリストのもとに来たのです。キリストを斥け、神の国から自らを閉め出し たのはいわゆる正しい者たちだったのです。
「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。」荒れ野で叫ぶ者の声を、私た ちはこのアドベントの第2週に耳にしています。私たちは、この期間をただクリ スマスプレゼントを楽しみにしている子供たちと同じような気分で過ごしてはな りません。また、クリスマスの行事の準備に慌ただしく追われるままに過ごして はなりません。私たちは、あのヨルダン川において、自分の罪を告白し、悔い改 め、方向を変えて生き始める無数の人々の姿を思い描くべきであります。そして、 私たちもまた、その中に身を置くべきでありましょう。悔い改めへの呼びかけこ そ、この期間、私たちが第一に聞かなくてはならない言葉なのであります。