「飼い葉桶の中のキリスト」
1999年12月19日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 ルカ2・1‐7
「ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての 子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなか ったからである」(ルカ2・6‐7)。およそ聖書の中において、この場面ほど 美化されてしまっている箇所はないでしょう。礼拝後の愛餐会では、子どもたち がページェントを上演します。御子の誕生のあの場面は、実に可愛らしく微笑ま しい場面として演じられることでしょう。また、私たちはこの季節になりますと、 様々な場所で、あるいはクリスマスカードなどで、御子の産まれた馬小屋の絵を 目にいたします。どれも皆、美しく描き出されております。愛らしいページェン トも、美しい絵画も、それなりに意味があることでしょう。しかし、私たちは、 それが決して美しい場所ではなかったことを忘れてはなりません。むしろ、聖書 は淡々と、その悲惨な状況を伝えているのです。「マリアは月が満ちて、初めて の子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた」と。
●悲惨な出産
そこには非常に不幸な仕方で誕生した一人の男の子がいます。産まれた時から、 命の危険にさらされている可哀想な男の子がそこにいるのです。それはこの子自 身の責任でしょうか。いいえ、そうではありません。人は、自分の親と誕生の場 所、誕生の仕方を選べません。では、親が悪いのでしょうか。確かに親は、安全 な出産の場を確保することはできませんでした。しかし、それは仕方がなかった のです。彼らは、産まれて来る子どものためにも、自分たちのためにも、精一杯 努力したことでしょう。いったい誰が、産まれてきた子どもを飼い葉桶に寝かせ たいなどと思うでしょうか。けれども、人がどんなに努力してもできないことが あるのです。親が子のためにどんなにしてやりたいと思っても、できないことだ ってあるのです。
では、彼らを宿屋に泊まらせてあげなかった人々が悪いのでしょうか。確かに 彼らには身重の娘に対する思いやりが、余りにも欠けていたかも知れません。場 所を少しずつでも分かち合えば、小さな一家族が一夜を過ごせる余地を作ること は不可能ではなかったはずでしょう。しかし、それは仕方のないことだったので す。人々もまた自分たちのことで精一杯だったからです。その頃、皇帝アウグス トゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出ました。この住民登録につ いての詳細は不明ですが、恐らく課税のための登録であったろうと思われます。 新たな重荷がずっしりと彼らの生活にのしかかっていたに違いありません。その ような登録のために、強制的に、人々は自分の故郷へと旅立たねばなりませんで した。こうした状況において、人々がこの家族に思いやりを示せなかったと言っ て、いったい誰が彼らを責めることができるでしょう。「宿屋には彼らの泊まる 場所がなかった」とは、誰を責める言葉でもなく、まさにこの世に生きるかぎり 「仕方ないのだ」としか言い得ないような、諸々の悲しい状況を象徴しているよ うに思うのです。
そのような世界のただ中で、世にも悲惨な出産がなされたのでした。聖書には、 これが家畜小屋であったとは書かれておりません。しかし、飼い葉桶があるので すから、いずれにせよ、それに類する場所であったと思われます。一応、それを 家畜小屋と呼んでおきます。それがどのようなものであれ、それは出産に相応し い場所ではありません。必要なものが何一つ揃っていないところで、マリアは子 を産まなくてはなりませんでした。常識的に考えるならば、そこに美しい顔をし て、慈愛に満ちたまなざしでイエスを見つめるマリアを思い描くことはできない だろうと思うのです。頭の上に金の輪が輝いているマリアが跪いて手を合わせて いる姿は、あまりにも非現実的です。むしろそこに想像できるのは、辛うじて赤 ん坊を飼い葉桶に寝かせて安全を確保し、極度の緊張と疲労でぐったりとした、 ドロドロに疲れ果てた男と女の姿以外の何ものでもないと思うのです。
これが聖書の伝えるイエスの誕生です。しかし、この場面を描いた絵画には、 しばしば天使が飛びかけっている姿や、周りで天使が歌っていたりする姿が描か れていたりするものです。この幼子イエス自身も光輝いていたり、あるいはイエ スの周りが輝いていたりするのです。あたかも、そこに神的な特別な出来事が起 こっているかのように描かれます。もはや、それが神の不思議な力によって、家 畜小屋ではなくなってしまったかのようです。しかし、気持ちは分かりますが、 私はこの場面をそのように描いて良いものだろうか、と疑問に思います。という のも、聖書はここにあえて天使などを登場させてはいないからです。
ルカによる福音書の降誕にまつわる物語を読んでみてください。とにかくまず 天使が現れます。不思議なことが起こります。そして、その場面に賛美が響き渡 るのです。ちょっと過剰演出ぎみではないか、とさえ思えるくらいです。今日の 箇所の後にも天使が現れます。しかも、天の大軍が加わって、「いと高きところ には栄光、神にあれ、地には平和、御心にかなう人にあれ」(14節)と歌うの です。見事ではないですか。ところが、御子の誕生という、一番天使に現れて欲 しい場面に、彼らは現れないのです。賛美が響いて欲しいところに響いていない のです。ただ淡々と聖書は記すのです。「マリアは月が満ちて、初めての子を産 み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた」と。
●メシアのしるし
そして、さらに10節以下をご覧下さい。天使たちが羊飼いたちにこう語って います。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日 ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メ シアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を 見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである」(10‐12節)。つ まり、メシアであるしるしは何であるかと言うと、それは何か特別なことが起こ っていることではないのです。神秘的な不思議なことが起こっていることではな いのです。むしろ、「起こっていない」ことなのです。何ら特別なことが起こら ず、不潔な場所で悲惨な仕方で産まれた赤ん坊が、世にも惨めな姿でそこに寝て いることが「しるし」だと言うのです。
メシアであるならば、たとえそれが赤ん坊であっても、この世の人間とは違う、 この世には属さない、特別な存在であって欲しいと思うものでしょう。であるか らこそ、人々はこの場面を特別なものに仕立てたいと願うのです。それだからこ そ、後光が差しているような乳飲み子を描きたくなるのではないですか。そのメ シアがいるだけで、もはや家畜小屋が家畜小屋ではなくなっているような絵を描 きたくなるのではないですか。
しかし、聖書は天使たちの口を通して、ただ「あなたがたは、布にくるまって 飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのし るしである」とだけ告げるのです。もちろん、聖書は、後にキリストのなされた 数々の奇跡を伝えます。その神的な力を伝えます。また、十字架の後の復活を伝 えます。栄光の姿を伝えます。しかし、それにもかかわらず、いや、それだから こそ、聖書はその前に、まず、布にくるまれ飼い葉桶に寝かされているこの幼子 こそ、メシアに他ならないのだ、と語るのです。そこにおいて、何もできない、 何ら特別なところのない赤ん坊こそ、メシアなのだ、と告げるのです。
それは、メシアが、完全にこの暗い場面の一要素となっているということを意 味します。その場面が描き出す暗い世界の中の一人になっているということです。 そうです、ここにこそクリスマスのメッセージがあるのです。メシアは、この世 界とは別の特別な存在なのではなくて、この世界の中の一人となられたのであり ます。その世界とは、貧しい夫婦が家畜にいるところで子どもを産まなくてはな らないような世界です。そのような小さな家族に思いやりが示せないほどに、人 人の心が圧迫されている世界です。そして、それはまた、全く罪のない方が、不 当な裁判によって十字架にかけられてしまうような世界です。聖書が語る世界像 は極端でしょうか。いいえ、決して極端ではないと思います。今も、世界のどこ かで、同様のことが起こっています。また、多かれ少なかれ、私たちはそのよう な世界を身近なところで経験いたします。「なぜこんなことが起こるのか!」と 叫ばざるを得ないようなことを経験するのです。この世界がまさに全人類の罪が 淀んだどぶ川のような世界であることを、私たちはどうしたって認めざるを得な いのです。しかし、メシアはそのような世界の中の一人となられたのであります。 そのことを、聖書は私たちに告げているのです。それは、言い換えるならば、そ のような世界のただ中に、神が来られたのだ、ということを意味します。神はこ の世界から手を引いてしまわれなかったことを意味します。神はこの世界を放り 出してしまわれなかったのです。
このメッセージは、私たちにとって大きな意味を持っています。なぜなら、私 たちはしばしば、この世界を放り出してしまいたくなるからです。私たちの日常 の現実を、時として不条理極まりない現実を、投げ出してしまいたくなるからで す。そこから逃避したくなるのです。そして、事実、多くの仕方において、そこ から逃避しようと試みるのです。ある人は、日常の重荷を忘れさせてくれる享楽 に走ります。それがどれほど不道徳なことであっても、危険なことであってもか まいません。それが自分を傷つけることであっても、他者を傷つけ、苦しめるこ とであってもかまわないと考えます。苦しい現実からしばし逃れることさえでき れば良いのです。ある人は、アルコールに、あるいは危険な薬に手を伸ばします。 酔っている時には、ハイになっている時には、少なくともこの世に責任的に関わ る人間ではありません。少なくとも自分の意識の上では、この世界の中に生きる 一人の人間ではなくなることができるのです。
それと同じように、しばしば逃避の道として求められるのが宗教的陶酔や熱狂 です。日常の世界とは別の世界を宗教に求めるのです。そこで人はカルトに走り ます。それがいかに危険なことであっても良いのです。要は現実生活から逃れら れればよいのです。この世界での様々な困難な人間関係から逃れて、浮き世離れ した者同志の心の交流があればよいのです。この世とは違う心と心の交わりがあ ればそれでよいのです。いや、それは私たちの教会生活においても、同じことが 言えるかも知れません。キリスト教が、教会が、単にこの世界からの逃れ場とし か考えられていないということが起こり得ます。ですから、そこで困難に出会う と、人はまた他の逃避場所を求めるのです。これは私たちにとって他人事ではあ りません。
それゆえ、私たちは今日、メシアがどこにいるのかに目を向けなくてはなりま せん。「マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝か せた」。その子は、この世界のただ中に生きる一人の人としてそこにいます。理 不尽なこの世の力のもと、この世のしがらみの中にあって疲れ果てている男と女 の傍らに、御子は確かに寝かされているのです。神はこの世界を捨ててしまわれ ませんでした。神はこの世界から逃避されませんでした。クリスマスは、神がこ の世を価値無きものとして捨て去って別な世界を作られた日ではありません。神 が、この世界を価値あるものとして肯定し、受け入れておられることを示された 日なのです。それゆえに、この世を罪から贖うために御子を送られたのでありま す。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」(ヨハネ3・ 16)のであります。
神が、この世界から逃避されなかったのですから、私たちはこの世界から逃避 してはなりません。それがどんなに苦しみと嘆きに満ちたものであろうとも、与 えられているこの地上の生活から逃げ出してはなりません。今、私たちはもう一 度、あの場面に目を向けたいと思うのです。あの家畜小屋です。疲れた男と女の いる、あの家畜小屋です。天使たちを登場させる必要はありません。明るい場面 であるかのように脚色する必要もありません。ありのままのその場面に、勇気を もって目を向けたいと思うのです。私たちはそこに、布にくるまれて飼い葉桶の 中に寝かされている赤ん坊を見出すでしょう。そうです、メシアは確かにそこに おられます。神の御業は、確かにそこに始まっているのです。そして、その目を もって、私たちはこの世界を見るのです。私たちの生活を見るのです。これは神 が愛して御子を送られた世界です。神がそのために御子を十字架にかけられた世 界です。神が、この世にキリストを送られたのは、私たちがこの世から離れて、 神と共に生きるようになるためではありません。私たちが、勇気をもって、この 世において、この世のただ中で、神と共に生きるようになるためなのです。