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「神は愛です」

1999年12月26日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生, 大阪のぞみ教会協力牧師 松原 茂
聖書 1ヨハネ4・7‐21

 クリスマスについて聖書は、わたしたちに次のように語っています。「神は、 独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるよう になるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました」(4・9)。 このみ言葉に、わたしたちは注意を向けたいと思います。

 神はみ子を世にお遣わしになり、それによって、わたしたちに対する神の愛が 明らかにされました(目に見えるものとなりました)。また、それはわたしたち の闇(暗黒の世界)の中に明るく輝く、慰めに満ちた神の愛の目じるしでありま す。此の世の中には、真の希望はないなどと絶望する必要はありません。神はわ たしたちに絶望されていらっしゃらないのですから!わたしたちは自らを含めて 人間を裁いて絶望する必要はありません。「神はわたしたちの心より大きいお方 だからです」(1ヨハネ3・20)。

 ですから、クリスマスの使信は、神はわたしたちを永遠に愛しておられるとい うことです。神は一度もわたしたちから目を離されたことはありません。しかし、 わたしたちは神から離れ神を見ることをやめてしまいました。ここに、わたした ちの悲惨と不幸の原因があります。クリスマスは神の愛が不変のものであること をあらわしてくださいました。クリスマスは「お前たち人間よ、思い違いをして はいけない。自分を見失って、意気阻喪をしたり、疑い迷ってはならない。神は 永遠にあなたがたを愛しておられます」とのメッセージであります。

 イエス・キリストとはいったいどなたでしょうか。それはわたしたちと全く同 じ一人の人間でありました。一人の人間として生まれ、生活と労働の中で喜びと 悲しみを味わわれ、一人の人間として死んでいかれた方でありました。まさに彼 はわたしたちと同じ肉体と血をもった方でいらっしゃいました。そして、彼はわ たしたちの中に入って来られたのであります。わたしたちは彼を見、彼を触れ、 話をし、そして彼を信頼し、彼を好きになったのであります。

 しかし、わたしたちと同じようになられたと言ったとき、わたしたちとはすべ ての点で違った人格の方であったことを知らなければなりません。わたしたちが 持っているところの濁った性質も持っておられないこと、また、神と疎遠でない 魂、悲惨な人間の心に関与しておられない魂の持主であります。全く神と一つで あるとしか言いようのない魂であります。彼は自らについて「わたしと父とは一 つである」(ヨハネ10・30)と言えるお方でした。それは思い上がりでなく、 真理でした。彼は人間の思いでなく、神の思いを持っておられました。混じり気 のない純粋な霊の風がそこに豊かに吹いていました。彼の意志は、わたしたちの 意志のように病んでおられず、神に背いていませんでした。彼はご自身の意志を 神の意志に喜んで服従させられ、それを貫かれました。神は彼の中に生きて働か れました。彼自身の思いと行動とは、いつも、ただ永遠の神が欲したもうたこと を受け取ることでありました。彼は神の子でありたまいました。ただ子だけが父 に対して持ち得るような忠実な従順を父に示され、ただ子だけがそうで有り得る ような父と等しくあられました。まことに神と一つであり給うた人間、それがイ エスでありました。

 彼の人生の歩みには、暗い汚点は何も存在しませんでした。彼の人生は、良い 羊飼いとして羊のことを心にかける人生でありました(ヨハネ10・11)。

 さて、みなさん、彼はわたしたちにとって何であり給うたのでありましょうか。 キリストは生まれ給うた!というクリスマスの使信によってわたしたちに対する 神の愛の事実をわたしたちが示された時、そこから何が生じてきたのでしょうか。 神はその独り子を世にお遣わしになったということから、何がつくり出されてき たのでありましょうか。クリスマスのメッセージにおける本質的なものとは、多 くの宗教の中に一つのすぐれた宗教が加えられたことでしょうか。いいえ、そう ではありません。宗教と呼ばれるものによって、わたしたちが人間的本質の不幸 から解放されることはないのであります。

 9節のみ言葉は何と言っているのでありましょうか。その方によってわたした ちが生きるようになるためです!それは宗教と呼ばれるものより大きくはるかに 魅力に満ちているものであります。それは道であり、真理であり、命であります。 生きる!生きるとは何でしょうか。今までこのみ言葉を、そのみ言葉の持つ力と 充実において現にあるままに理解してきませんでした。神はわたしたちに、神の 独り子としてのキリストを遣わし贈りたもうたことによって、わたしたちにご自 身の愛を証ししてくださいましたと語ってきたことで満足していました。ある人 たちは尚それに付け加えて、キリストが本当にこの世の救い主で在したもうこと をわたしたちは心から喜び、本当に感謝し、信じ続けましょうと語ってきました。 ところが最も重要なこと、すなわち「その方によって、わたしたちが『永遠に』 生きるようになるため」という追加の言葉が忘れられていました。あるいはこう 言い直してもよいのです。人々はそのみ言葉のただ半分しか理解していませんで した、と。すなわち、その言葉で、わたしたちの状況について、たんなるある種 の慰め、たんなる一種の安心感しか理解して来なかった。いえ、それでは少なす ぎます。生きることは慰めや安心よりも、もっと、大きいのであります。生きる とは、わたしたちの不満足な痛ましい精神的状態からの救済なのであります。生 きるとは、わたしたちがそれによって苦しんでいる桎梏からの解放なのでありま す。たんなる見かけだけのでない現実的な解放であります。その方によって「わ たしたちが生きるようになるためです」。その意味は、神の愛についてのクリス マスの使信は、もしわたしたちがそれを受け入れるなら、わたしたちの中に、直 ちに変化と転換をダイナミックに引き起こすということであります。わたしたち の最も内なる生の中への神の力強い介入であります。もしわたしたちがこのよう な介入について何も感じることがないのでしたら、わたしたちはクリスマスの使 信を聞かれなかったのであります。神の介入とは、神の霊によって、運動と秩序 がわたしたちの内的生のうっとおしい不満足な混沌の中に入り込んでくることで あります。神の愛はわたしたちにたんに示されるだけでなく、それはわたしたち の内で働かれるのです。生とは、すべてができあがった完全な状態ではありませ ん。わたしたちの知っている生は、この世にある限り闘いであり、労働であり、 苦しみであります。

 イエスにおいても全くそうであることをわたしたちは見ます。神が独り子イエ スのゆえに「生」を贈り与えられる時、わたしたちに起こるのは、神の憐れみと 恵により、病むもの・望みのないもの・永遠に満たされないものが消え去るとい うことであります。「私の罪は赦されました。私の罪はもう私の重荷であること はありませんし、自分自身に絶望する理由も許されないということ。むろん私は 私の罪を真剣に受け取らなければなりません。しかし確かなことは、神の力が私 の中の悪より強いということです」という確信が、わたしたちに与えられます。 そのようにわたしたちは神に対する感謝の気持ちが満ちるのであります。はじめ わたしたちは遠くから神を知ります。しかしわたしたちは気落ちしません。わた したちには内面的・精神的な安定があります。わたしたちの罪過はもはやわたし たちを神から分離しません。わたしたちは神の中にわたしたちの罪の重荷をおろ しました。わたしたちは彼の大いなる慈しみと約束に満ちた「そうであるにもか かわらず!」のみ声を聞いたのであります。

 人間との交際に伴う一切の困難がなくなることをわたしたちが期待することも、 わたしたちには許されません。事実イエスも多くの困難を持っておられました。 しかし、そのようなときにもわたしたちは内面的な平静を保つべきであります。 それが「生きる」ということであります。もはやわたしたちが無数の者たちを、 大多数の他人を理解しないということがあってはならないのです。むしろ、無数 の者たちと一つであることがわたしたちに開かれ許されています。少なくとも心 の奥底ではそうであります。表面上の一切の相違にもかかわらず、善への信仰に おいて一つであります。善への勝利への希望において一つであります。そのため に働きたいという良き意志において一つであります。そのような感謝の応答がわ たしたちに与えられています。このような一致の絆が認識されるところでは、わ たしたちを分け隔てしている困難は、たとえ多くの分裂や、それどころか断絶さ え、わたしたちの間に生涯にわたりなくならないとしましても、もはや架橋は不 可能ではありません。少なくとも、わたしたちの心の中で、わたしたちをいつも 事実他人から分離してしまうものであります。自分のもの、ちっぽけなもの、個 人的なものを後回しにするということがはじまります。少なくとも他の人の益を 求める(1コリント10・24)という、また自由に広く考える人間、すなわち 力を尽くし自らを犠牲にすることのできる人間となる願いと喜びを、わたしたち の魂に与えられます。このような願い、このようなよろこびのあるところに、生 きる! ということがあります。人間のあらゆる反抗・嫌悪・冷酷を越えて再び 神の大いなる「そうであるにもかかわらず」をわたしたちが聞いたところに、生 きる、ということがあります。

 若き日のスイスの牧師は語ります。生の空虚、憂慮、疑惑、謎も一度に消え去 るのではありません。しかし、どうしてよいかわからず、とり乱しうろたえるこ とはなくなります。わたしたちは生につきまとう障害を真剣に直視することを学 ぶようになります。わたしたちは状況が不利な時でも、強くあることを学ぶよう になります。多くのことがわたしたちの行く手を阻み、悲しませ、不平不満をい だかせようとしても、喜んでいることを学ぶようになります。生がわたしたちに もたらす困難・重荷・悪は神がわたしたちに語り得る最後のものでないというこ とを、また神はわたしたちを苦しめるのでなく一切のものを貫いてわたしたちを ご自身に引き上げようとし給うこと(ヨハネ12・32)を、わたしたちは見る ことができるようになります。わたしたちが歩まなければならない暗い谷間が実 はわたしたちにとって祝福であると、わたしたちは理解することを学びます。一 挙にそうなるのではありません。学ぶことは学んだことを意味しません。把握す ることは把握したことを意味しません。わたしたちはわたしたちの生の中にある 悪に対し新しい態度をとり、新しい理解を持つ途上にあります。またそれに対す る勝利の途上にあります。このように途上があること、それが生きるということ であります。

 「その方によって、わたしたちは生きるべきである!」 そのようにクリスマ スは語ります。その方によってとは、神の愛がその方において現れたキリストに よってということであります。神は彼においてわたしたちにいと高き世界の一端 を示し給います。いえそれ以上であります。神は、それを、わたしたちに、彼に おいて、彼を通して贈り与え給うのです。神はわたしたちの生の中にキリストを 通して生を創り給うのです。永遠の生を再創造されたのであります。

    見よ、彼は馬ぶねに横たわり、
    あなたと私を、ご自身のもとに呼びよせ、
    甘き唇をもって語り給う、 
    愛する兄弟、あなたたちを悩ましているもの、
    あなたたちが苦しんでいるものを捨てなさい。
    わたしがすべてを取り戻してあげよう。

 クリスマスの鐘がわたしたちに語っているのはこのことであります。神の愛の できごとなのであります。神は愛です。独り子を賜いし神は愛です。

 
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