「神をたたえるために」                           エフェソ1・3‐14  「わたしたちの主イエス・キリストの父である神は、ほめたたえられますよう に」(3節)。これが、西暦2000年最初の聖日に、私たちに与えられている 御言葉です。私たちは神を礼拝するために集まりました。私たちは、神を誉め讃 えるために集まりました。私たちは讃美の歌声をもって主を誉め讃えます。しか し、それは始まりに過ぎません。私たちはここから始まる一週間の生活をもって 主を誉め讃えるのです。また、私たちは、こうして始まった一年の生活をもって 主を誉め讃えるのです。この一年間を生かされるということは、私たちの人生に 神への讃美としての一年間が加えられることに他なりません。それは、そのよう な一年一年が加えられ、私たちの人生全体が神への讃美となるためです。  私たちが、神に讃美を捧げるためには、当然のことながら、私たちは讃美を受 けるべき御方を知らなくてはなりません。私たちは知らない方を讃美することは できません。そのような意味において、私たちの讃美は、神から始まり、神に帰 って行くのです。神がキリストを通して私たちに御自身を示してくださり、その 神への応答として、私たちは神に祈り、神を礼拝し、神を誉め讃えるのです。そ れゆえ、パウロは、「わたしたちの主イエス・キリストの父である神は、ほめた たえられますように」と言うだけでなく、ほめたたえられるべき方がいかなる方 であるかを語るのです。それゆえ、私たちもまた、神への讃美として私たちの人 生に加えられるこの一年の冒頭において、まず讃美をお受けくださる神がどのよ うな御方であるかに思いを馳せたいと思うのであります。 ●父なる神の選び  初めに3節から6節までをお読みいたしましょう。「わたしたちの主イエス・ キリストの父である神は、ほめたたえられますように。神は、わたしたちをキリ ストにおいて、天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださいました。天地創造の 前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしよう と、キリストにおいてお選びになりました。イエス・キリストによって神の子に しようと、御心のままに前もってお定めになったのです。神がその愛する御子に よって与えてくださった輝かしい恵みを、わたしたちがたたえるためです」(3 ‐6節)。  私たちが誉め讃える神は、一言で言うならば、私たちを、キリストにおいて、 祝福してくださった神であります。天のあらゆる霊的な祝福をもって、祝福して くださった神であります。「天のあらゆる霊的な祝福」という言葉は、これが全 く神に属するものであることを示しています。神は、天に属するもの、霊的なも の、すなわち神のみが与えることのできるものをもって私たちを祝福してくださ る御方です。「霊的な」と書かれていますが、これと「精神的な」という言葉を 混同してはなりません。単に精神的なものならば、人であっても与えることがで きるからです。私たちに本当に必要なのは、人が与えることのできるものではあ りません。天に属するもの、霊的なもの、神のみが与えることのできるものであ ります。  神がそのように祝福してくださったのは、神が私たちを選ばれたからです。4 節に「天地創造の前に、…キリストにおいてお選びになりました」と書かれてい るとおりです。この「選び」という言葉は、ともするとエリート意識の現れと受 け取られやすい言葉です。しかし、パウロが「選び」について語る時、それは 「神の祝福にあずかったとしても、その根拠はこちらにはない」ということ以外 の何ものでもありません。ですから「天地創造の前に」などという奇妙な言葉が 付け加えられているのです。「神は私が生まれる前から私を選んでくださいまし た」と言えば、それは「私の行いや功績にはよらない」ということになるでしょ う。「生まれる前」なのですから。それを究極まで押し進めると「天地創造の前 から」となるのです。どのような表現にせよ、要するに、「私たちの功績じゃな い」ということです。むしろ、聖なる者でも、汚れのない者でもない者を、「御 自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになり ました」と言うのです。既に完全な者であるから選ばれたのではないのです。  それは5節において、神の子でない者を神の子とすることとして、言い換えら れています。ここで用いられているのは養子縁組を表す言葉です。神の養子にさ れるということです。神は「主イエス・キリストの父である神」であります。し かし、そのキリストと父なる神との関係の中に、キリストを信じる私たちも入れ ていただいたのです。主イエスが「アッバ、父よ」と祈られたように、私たちも 天と地の造り主なる方を、「アッバ、父よ」と呼ぶことが許されているのです。 そして、御子を長子とする家族へと加えられたのであります。その理由と根拠は 人間の側にはありません。パウロは、ただ神が「御心のままに前もってお定めに なった」からだ、と言うのです。  実は、この「御心のままに」と訳されている言葉は、「神の喜びとするところ に従って」とも訳される言葉です。これは驚くべきことです。つまり、これは、 私たちが神の子とされるのは、それが「神御自身の喜びであるから」という単純 な理由によるのだ、ということを意味するからです。何ということでしょう。私 たちが自分自身を正直に評価するならば、まことに神の子とされるに相応しから ぬ私たちではありませんか。自分で自分のことを持て余しているような私たちで はありませんか。しかし、そのような私たちを神の子とすることが、神にとって は喜びなのだと聖書は教えているのです。私たちが神を「アッバ、父よ」と呼ぶ ようになることが、神の喜びであるというのです。 ●御子の血による贖い  次に、7節以下をお読みしましょう。「わたしたちはこの御子において、その 血によって贖われ、罪を赦されました。これは、神の豊かな恵みによるものです。 神はこの恵みをわたしたちの上にあふれさせ、すべての知恵と理解とを与えて、 秘められた計画をわたしたちに知らせてくださいました。これは、前もってキリ ストにおいてお決めになった神の御心によるものです。こうして、時が満ちるに 及んで、救いの業が完成され、あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つ にまとめられます。天にあるものも地にあるものもキリストのもとに一つにまと められるのです」(7‐10節)。  神は御自身の喜びとするところに従って、相応しからぬ私たちを神の子にする ために、御子をこの世に送られたのでした。5節の「イエス・キリストによって 」という言葉は、その事実を指し示しています。そのことを、6節では「神がそ の愛する御子によって与えてくださった輝かしい恵み」と呼んでおりました。そ の恵みとはいったい何であったかが、7節において明らかにされます。神は、こ の御子において、その血による贖い、すなわち罪の赦しを与えてくださったので す。  「贖い」とは奴隷が買い戻され、解放される時に使われる言葉です。私たちは 贖われたのだ、と言う時、それは私たちがかつて奴隷であったことを示していま す。それは丁度、多額の負債のゆえに奴隷となっていた者のようにです。罪とい う負債のゆえに奴隷となっていたのです。日本人はしばしば「罪を水に流す」と 言います。過去の罪は忘れてしまえば、それで解決するかのように語ります。し かし、実際には、罪は水では流れないこと、忘れても解決はしないことを、本当 は皆、良く知っているのです。罪は赦していただかなければ、解決しないのです。 そして、罪を赦すことができるのは、最終的に神だけなのです。そこで、神は御 子の血をもって、その命をもって、私たちの罪の代価とされたのでした。私たち の負債は、御子の血によって完済されたのであります。私たちは御子の血によっ て買い取られました。そして、解放されました。これが「贖い」です。罪の負債 を抱えたままでは、私たちは神の子となり得ない者でした。私たちは、罪を完済 された者として、まさにキリストの贖いの業を通して、神の子としていただいた のです。  そして、神はさらにこの恵みを私たちの上に溢れさせ、神の秘められた計画を 知る者としてくださいました。私たちが罪を赦され、神の子とされ、こうして御 子のもとに集められているのは、ただ私たち自身に関わることではありません。 神は、御子を通して、この世界に対する計画を明らかにされたのであります。そ れは、私たちがこうしてキリストのもとに集められているように、やがて頭であ るキリストのもとに世界が一つとされるということです。いや、天にあるものも 地にあるものもキリストのもとに一つにまとめられるのだ、と聖書は教えている のです。  目を転じて見るならば、この世界はまさにずたずたに引き裂かれた世界です。 互いに対立し、反目し、争い、殺し合っている世界です。私たちの身近なところ にも、人と人とが共に生きられない現実があります。しかし、私たちは決して絶 望する必要はないのです。神は、一つの計画を持っておられるからです。キリス トにおいて明らかにされた、計画を持っておられるからです。そして、神は、こ の世界の歴史の中に、私たちの具体的な現実の中に、生きて働かれ、救いの完成 に向かって導いておられるのです。神の為されることは私たちの目に余りにもゆ っくりに映るかも知れません。むしろ、逆行するように見える時もあるかも知れ ません。しかし、それは決定的に重要なことではありません。10節には、確か にこう書かれているからです。「こうして、時が満ちるに及んで、救いの業が完 成され、あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられます」。 そうです、やがて時が満ちるのです。神の約束は実現するのです。 ●手付け金としての聖霊  最後に、11節以下をご覧下さい。「キリストにおいてわたしたちは、御心の ままにすべてのことを行われる方の御計画によって前もって定められ、約束され たものの相続者とされました。それは、以前からキリストに希望を置いていたわ たしたちが、神の栄光をたたえるためです。あなたがたもまた、キリストにおい て、真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、そして信じて、約束された聖霊で 証印を押されたのです。この聖霊は、わたしたちが御国を受け継ぐための保証で あり、こうして、わたしたちは贖われて神のものとなり、神の栄光をたたえるこ とになるのです」(11‐14節)。  やがて天にあるものも地にあるものもキリストのもとに一つにまとめられます。 キリストの支配する世界が来るのです。それは、ただ神の恵みのみが支配する世 界に他なりません。そこにこそ救いの完成があります。であるなら、既にそのキ リストに結び合わされているということは、その救いの完成に必ず与る者とされ ているということを意味します。約束されたものの相続者とされた、とはそうい うことです。その希望は、何ものによっても奪われることはありません。死によ っても奪われません。私たちは生きても死んでも、神の約束のうちにあるのです。 相続者なのです。私たちは救いの完成へと向かっているのであります。  そして、受け継ぐべき救いの完成は、ただ現実にこうして生きている私たちと 離れた遠いところにあるのではありません。今、こうしている時に、既に私たち はその救いの豊かさの一部を味わい知ることが許されているのです。  13節でパウロは「あなたがたもまた」と語りかけます。これはエフェソの異 邦人キリスト者たちです。彼らは、福音を聞き、そして信じて、約束された聖霊 で証印を押された者たちです。聖霊の証印ということで、パウロは具体的には洗 礼を考えていたのかも知れません。いずれにせよ、彼らがイエスを主と告白し、 共に礼拝をし、教会を形成していることそのものが、聖霊の働きに他なりません。 そして、その聖霊こそ、「わたしたちが御国を受け継ぐための保証である」(1 4節)と言うのです。この「保証」というのは、言い換えれば「手付け金」のこ とです。やがて全体を受けとることの保証として、その一部を受け取るのです。 それが聖霊である、と言うのです。これが聖霊によって私たちに与えられる信仰 生活であります。私たちは、救いの完成へと向かう者として希望に生きるだけで なく、その一部を手付け金として受け取り、救いの恵みを今この時に味わいつつ 生きることが許されているのです。そして、その手付け金によって、さらに確か な希望に生きる者とされるのであります。  さて、このように神は、私たちを天のあらゆる霊的な祝福をもって祝福してく ださいました。私たちの讃美をお受け下さるのは、このような御方です。私たち は、この御方を、私たちの歌声をもって、そして私たちの生活を通して、誉め讃 えたいと思うのです。こうして始まった一年間を、新たに神への讃美としてお捧 げいたしましょう。