「洗礼を受けるキリスト」                           マルコ1・1‐11  マルコによる福音書は「神の子イエス・キリストの福音の初め」(1節)とい う言葉で始まります。この表題から、この書物がイエス・キリストの物語である ことが分かります。その方は「神の子」と呼ばれています。神の子であるイエス ・キリストの物語をマルコは語り始めるのです。それはまた「福音」と呼ばれて います。良きおとずれです。この物語は、私たちを幸いにする良きおとずれとし て与えられているのです。 ●神の子はどこに  さて、そのような神の子イエス・キリストの福音がここから始まるわけですが、 初めからキリストが登場するわけではありません。最初に現れるのは、洗礼者ヨ ハネです。彼は、荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を 宣べ伝えていたのでした(4節)。彼のもとに大勢の人々がやってきます。そこ で彼らは自分の罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けたのでした。その時、 ヨハネはこのように語るのです。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。 わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。わたしは水であな たたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる」(7‐8節)。  こうして初めて、9節において、キリストが物語の表舞台に現れるのです。さ て、どのように記しているでしょうか。「そのころ、イエスはガリラヤのナザレ から来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた」(9節)。さらりと読み 飛ばしてしまいそうな、短い描写です。際だった生い立ちを書くわけでもありま せん。不思議な少年時代から書き始めるのでもありません。ヨハネについては、 何を着ていたか、何を食べていたかを語っていたのに、このイエスという御方に ついては、その風貌さえも描写しようとはいたしません。ただ一つのことだけを 単純に記すのです。洗礼を受けた、ということです。彼にとっては、その方がど こにいるか、ということだけが重要なのです。キリストは、どこにおられるので しょうか。悔い改める罪人たちと同じ、その水の中におられるのです。そこから 主イエスの物語を語り始めるのです。  しばしその情景を想像してみましょう。ヨハネは荒れ野で叫んでいます。ヨハ ネの洗礼運動は、まさにユダヤの全地方を揺り動かしているのです。「ユダヤの 全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来た」と書かれています。しか し、「エルサレムの住人は皆」というのは、幾分誇張された表現であるに違いあ りません。実際には、多くの人々がヨハネのもとに赴く一方で、ヨハネのもとに 来なかった人々、彼に批判的な人々ももいたようなのです。そのような人たちが、 11章の終わりに出てきます。祭司長、律法学者、長老たちです。彼らにとって は、悔い改めて洗礼を受けるなどということは、神を知らぬ異邦人のすべきこと でありました。自分が異邦人同様に扱われることなど、我慢がならなかったに違 いありません。  「罪の赦しを得させる洗礼」と言われているように、ヨハネのもとに来て洗礼 を受けた人々は、罪の赦しを求めて来た人たちでした。しかし、そのような人々 がいる一方で、「なぜ私が罪を赦してもらわねばならないのだ」、「なぜ私が洗 礼など受けねばならないのだ」と考える人々も他方にはいたのです。善良な市民 の中に、そのような人々がいたのです。当然のことながら、彼らはヨハネのもと には来ませんでした。罪の赦しを求めることは、罪を裁かれる側に身を置くこと に他なりません。ですから、正しい人たち、自分を正しいと思っている人たちは 罪の赦しを求めません。他者を裁く側に身を置く人は、決して自らの罪の赦しを 求めることはないのです。ヨハネによる悔い改めへの呼びかけを軽んじ、あるい は無視し、あるいは反発し騒ぎ立てたのは、そのように自らの正しさを誇り、自 らの正しさを主張する人々でありました。それは、単にあの律法学者たちだけの 姿ではありません。しばしば、それは私たちの姿でもあります。  しかし、そのような彼らの傍らを、そのような私たちの傍らを、ご覧下さい、 罪なきキリストは静かに通り過ぎて行かれます。その方は、多くの人々と共に、 罪人が受ける洗礼を受けに、ヨルダン川へと向かわれるのです。罪人の一人とし て、罪人たちのただ中で、その方はヨルダン川の水に身を沈めておられます。そ れが、この場面であります。  そのような姿は、この福音書に一貫しています。そのように罪人の一人として ヨルダン川に身を沈められた方を、私たちは後にどこに見出すのでしょうか。驚 いたことに、私たちは、その方を罪人たちのテーブルに見出すのです。周りで正 しい人たちが騒いでいるではありませんか。「どうして彼は徴税人や罪人と一緒 に食事をするのか」(2・16)と言って。しかし、それはまだ事の始まりに過 ぎません。最終的に、私たちはどこでキリストを目にするのでしょうか。その方 は、十字架の上におられます。「イエスと一緒に二人の強盗を、一人は右にもう 一人は左に、十字架につけた」(マルコ15・27)と書かれております。そこ でも、キリストは最後まで罪人の一人として数えられているのです。こうしてあ のイザヤの預言が実現したのでした。「彼が自らをなげうち、死んで、罪人のひ とりに数えられたからだ」(イザヤ53・12)。  「神の子イエス・キリストの福音の初め」。そのようにこの福音書は書き始め られました。いったい、その神の子はどこにおられるのでしょう。その方は、罪 人たちのただ中におられます。罪人たちの一人として、罪人たちのただ中におら れます。その驚くべき主張が、既にこの最初の登場の場面に示されているのであ ります。 ●天が裂けて  では、キリストが罪人の一人として洗礼を受けられ、最終的に罪人の一人とし て死なれたことは、いかなる意味において私たちにとって福音なのでしょうか。 さらに、私たちはそのことを考えながら、先を読みたいと思います。キリストが 洗礼を受けられ、水から上がられた直後のことを、マルコは次のように記してい ます。「水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降っ て来るのを、御覧になった。すると、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心 に適う者』という声が、天から聞こえた」(10‐11節)。  天が裂けて、神の霊が降って来るのを見ました。誰が?ルカによる福音書です と、「聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た」(ルカ3・2 2)と書かれています。実際、皆がこれを見たのかは明らかではありません。マ ルコによる福音書は、これを見たのはイエス御自身であると語っています。つま り、この出来事は、まずキリスト一人の経験として起こったこととして書かれて いるのです。それは、声についても同じです。その後に、声が天から聞こえます。 誰が聞いたのでしょうか?「あなたは」と語られているのですから、語りかけら れているのはキリストです。これを聞いたのは、キリストであります。つまり、 これもまずキリスト一人によって聞かれた言葉であるということです。  それにしても、「天が裂けた」というのは面白い表現です。「天が開かれる」 という表現の方がもう少し馴染みがあるかも知れません。実際、ここで使われて いる「天が裂ける」という表現は、他に出てこないのです。ならば、これは意図 的に用いられているに違いありません。  すると、天の次に裂けるのはいったい何でしょうか。聖書に親しんでおられる 方ならば、もう一つ裂けたものを思い浮かべることでしょう。そうです、「神殿 の垂れ幕」です。マルコによる福音書15章37節以下をご覧下さい。「しかし、 イエスは大声を出して息を引き取られた。すると、神殿の垂れ幕が上から下まで 真っ二つに裂けた」(15・37‐38)。ここで「裂けた」と訳されています けれど、実際には「裂かれた」と書かれています。裂いたのは人間ではありませ ん。神御自身です。先の「天が裂けた」についても同じです。本当は「天が裂か れて」と書かれているのです。裂いたのは神様です。この福音書で、「裂かれる 」のはこの二つだけです。(ちなみに、日本語ですと、他に「衣を引き裂き」 (14・63)などが出てきますが、原文では異なる表現です。)ですので、明 らかに、この両者は関係していると思われます。  では、この垂れ幕が神によって裂かれたことには、いったい何の意味があるの でしょうか。この「神殿の垂れ幕」は、神殿の聖所と至聖所を隔てているもので す。その垂れ幕を通って、至聖所に入ることができるのは、大祭司だけでした。 一年に一回しか通ることは許されていないのです。しかも、ただ何も持たずに至 聖所に入ることは許されません。何を持って入るかというと、「血」を携えてい くのです。贖罪の犠牲の血であります。それなしには、入れないのです。要する に、その垂れ幕は、神が聖なる御方であり、罪ある人間は近づくことができない ことを象徴的に表しているのです。しかし、その垂れ幕が神によって裂かれたの でした。すなわち、これは、神自らが罪人に対して道を開かれたことを意味いた します。それはいわば、すべての人に対して、天が裂かれたことを象徴している とも言えるでしょう。  最初に、神は、キリスト一人に対して、天を裂き、聖霊を降し給いました。そ れは決定的な神の御業の始まりでした。そこからキリストは神の使命を帯びて歩 み出されたのです。キリストは、罪人と共に生きられ、そして罪人の一人として 死なれました。そしてキリストの生涯は、神殿の垂れ幕が裂かれるあの一点へと 向かっていたのです。それゆえに、「イエスは大声を出して息を引き取られた。 すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた」と記されているのです。  それは罪のないキリストが、罪人の一人として死なれることによって起こりま した。罪なき神の子が、すべての人の罪を負い、罪人の一人として死なれること によって、罪人と神との隔ては取り除かれたのであります。ここにおいて、この 物語が福音であることが明らかにされます。私たちを幸いにする良き知らせなの であります。  神の子はどこにおられるのでしょう。その方は、罪人たちのただ中におられま す。罪人の一人として、罪人たちのただ中におられます。しかし、ただ共におら れるだけではありません。その方は、罪人と神との隔てを取り除くために、罪を 取り除くために、そうして罪人たちもまた裂かれた天を見るようになるために、 罪人の一人として生き、そして死なれたのであります。  すべての業が成し遂げられ、キリストが息を引き取られた時、そばに立ってい た百人隊長はこうつぶやきました。「本当に、この人は神の子だった」(15・ 39)。この福音書は「神の子イエス・キリストの福音の初め」という言葉で始 まりました。そして、主が洗礼を受けた時、「あなたはわたしの愛する子、わた しの心に適う者」と語られたのは神御自身でした。しかし、物語は先へと進みま す。その物語において、最終的に、あの神の証言と同じ言葉が、人の口から聞か れるに至ります。神の子が罪人と共にあり、罪人の一人となられ、罪人の一人と して生き、そして死なれたことを言い表す人がそこにいるのです。「神の子イエ ス・キリストの福音の初め」――この方の受洗に始まるこの方の御生涯は、私た ち一人一人をあの百人隊長の信仰告白へと導くのです。私たちもまた、イエスが 神の子であることを言い表し、神の子が罪人と共に生き、そして死なれたことを 言い表し、その神の子によって天の開かれた者として生きるようにと導かれてい るのです。こうして、私たちは福音を聞いた者として、福音によって生きるので あります。