台湾長老教会宣教師 陳 天賜
(16日の礼拝では台湾長老教会の陳天賜師が説教をしてくださいました)

         「万物の終わりが近づいています」

								ペトロの手紙一 4章7節~11節
 「万物の終わりが近づいた」という題で、皆さんとご一緒に学びたいと思いま

す。新しい年が始まったばかりなのに、なぜこんな題を選んだのだろうかと疑問

に思われる信者さんがいらっしゃるかも知れません。ですけれども、皆さんもご

存じのように、人間がいくら新しい年を迎えて、希望を待ち望んでも、神様が定

めた人間の命、または宇宙の秩序、環境には、人間が何をもってしても替えるこ

とはできないのです。聖書によると、人類の唯一の希望は、神様の中にしかあり

ません。それは、神様だけが永遠で、それ以外すべての造られた万物は有限だと

教えています。生まれた者が必ず死ぬということは当然であります。私たちも分

かっています。新しい物はいつまでも新しいままであることはないのです。この

原則のもとに、万物(宇宙全体)は永遠に新しいままではないのです。言い換え

るならば、いつかは衰える、無くなる、また終わることがあるのです。

 著者ペトロは、どういう背景、動機で、この箇所のような内容を書いているの

でしょうか。その時のクリスチャンは、ものすごい迫害を受けていました。また、

道徳が腐敗していた時代でしたので、著者は彼らに、希望をもって、勇気を出し

て、忍耐しなさい、また苦難の中にあってもあくまでも良い行いをするようにと

の教えを守りなさい、と励ましたのです。4章1節から6節までは消極的な教え

で、7節から11節までは、積極的な教えです。

                 ○

 7節から11節の教えについて、私たちクリスチャンは何を学ぶべきでありま

しょうか。「万物の終わりが近づいた」とは、私たちに二つの事を警告していま

す。第一は、「すべての物」の終わりの時が近づいているということです。すべ

て悪人の行為、クリスチャンの苦難、人の命、そのほか一切万物の秩序にも終わ

りがあるということです。ペトロは最後の裁きについて、神様は忍耐をもって猶

予しておられると5節に書いています。この終わりは世界全体の歴史の末日です。

主は亡くなった人を甦らせ、世界の人々を神の義によって裁かれます。この世に

はマタイによる福音書24章に記されているような現象が現れます。そして、全

く新しい天と地を待ち望みます。その時と場所を決めるのは人間ではなく、万物

の創造主です。キリストが2000年前にこの世に御降誕されたように、再び来

られて地上に神の国を来たらせてくださいます。神を信じる人にとって、これは

むしろグッド・ニュースです。

 第二は、終わりの日が「近く」なっていることです。遠くのことであれば、あ

まり強く感じないかもしれませんが、身近になったからには、何とか急いでしな

ければならないと、強く感じるはずです。この「終わり」は、何かが迫っている、

緊急な事態です。新約聖書のヨハネの黙示録3章11節には、「私はすぐに来る

」と予告されています。この「時間」のことについて、私たちクリスチャンは、

人間と神の時間の見方が違うということを知らなければならないと思います。例

えば人間は、秒、分、時、日、月、年という時間の単位を定めています。しかし、

聖書が教えている神の時間とはどのようなものでしょうか。ペトロの第二の手紙

3章8節に、「愛する者たちよ、この一事を忘れてはならない。主にあっては、

一日は千年であり、千年は一日のようである」と書かれております。ですから、

「終わりの日」というとき、神中心の考えによるならば、キリストの御降誕と同

時に終わりの日も始まっているのであり(1ペトロ1:20、ヘブライ9:26)、

また危険や困難なことも次々と起こると教えられているのです。(1ペトロ1:

20,2テモテ3:1‐5を参照)。

                 ○

 万物の終わりが近づいているのでしたら、私たちクリスチャンのなすべきこと

は何でしょうか。この聖書の箇所から4つの課題をご一緒に学びたいと思います。

 第一は、「心を整えて慎みなさい」ということです。この言葉の意味は、「狂

気」から解放されて、自主時制のできる人になりなさい、という意味です。ルカ

による福音書8:22‐39の、汚れた霊に憑かれた人が救われて、正気に帰っ

た奇跡物語のようにです。ここを中国の聖書では「心が明白になった」と書かれ

ています。言い換えると、クリスチャンの第一になすべきことは、頭がクリアで、

心が冷静で、信仰と行いのバランスがとれていることです。要するに、様々な異

端邪教に対して、純粋な心を持つことです。今日のクリスチャンは、心を整えて

慎んでいるでしょうか。西暦2000年を迎えて、何か神秘的な年、危険な年が

来たように言われています。私たちの今までの信仰について、主イエスの再臨の

時の裁きに備えて十分に整えられていると、自信を持っておられるでしょうか。


 第二は、「努めて祈りなさい」ということです。中国の聖書は、また違う言い

方で表現しています。それは「目覚める」という言い方をしています。万物の終

わりが近づいているからです。そこで二つ目のなすべきことは祈りです。クリス

チャンにとって、祈りは基本的な信仰生活の一つの表現です。ここで祈りについ

て改めて学習する必要はありませんが、この聖書箇所において、祈りということ

が特に強調されています。ここで学ぶべきことは、もっと祈るべきことです。と

言うのは、困難な時になってきたからです。マタイ26:41,マルコ14:3

8などでは、困難な時には祈りが何よりも良い対応の方法だと教えられています。

1テサロニケ5:17でも、「絶えず祈りなさい」とパウロは教えています。特

に予測の出来ない終わりの日には、さらにもっと祈らなければならないのです。

マタイによる福音書25章にある五人の賢い少女の例え話にあるような姿と精神

をもってです。それが「目覚めている」祈りという意味です。「目覚める」とい

う言葉の本来の意味は、酔わずに悟るということです。人は酒で酔うように、す

べて世の中の出来事に、傲慢や自己中心、また貪欲に酔うのです。こういう人た

ちは、心を麻痺させ、知識をも蔽ってしまって、霊的に迷うのです。主が再臨さ

れる日のために、心を慎んで待ち望むべきではないでしょうか。

 以上二つのことは、お互いに関連があり、いずれも努めて祈りなさいというこ

とを強調しています。慎むことや目覚めることは、祈りを助けるものです。兄弟

姉妹の皆さん、世の終わりに当たって、私たちの祈りの生活は大丈夫でしょうか。


 第三は、「互いに愛を保ちなさい」ということです。ペトロが繰り返して(1

:22、2:17、3:8)、当時の教会に向かって、「互いに愛しなさい」と

叫んでいました。ここで再び「互いに愛しなさい」と勧めてはいないと思います。

確かにペトロは皆が実行していることを信じていますが、私たちがどれくらい実

行しているかということは、自分自身と神様しか分からないものです。ただ、こ

こでは「互いに愛し合う」ことは、何よりも大切だということを、ペトロが強調

しているのです。

 兄弟姉妹の皆さん、教会は、この世では、他の団体や機構より、何よりも誇る

べきものがあるのではないでしょうか。それはパウロも教えたこと、「愛」では

ないでしょうか。教会でいう愛は、感情的ではなく、一時的でもなく、条件的で

もありません。それは、すべて地上の異なる環境を越えた、無差別的な、永遠的

な、犠牲的な、変わらない神の愛なのです。

 なぜ「愛し合うべき」なのでしょうか。その理由は、「愛は多くの罪を覆うも

の」であるからです。人は自分の弱さを他人に認めてもらいたいものなのです。

自分の罪を誰かに赦してもらいたいのです。また、愛し合うということは、「不

平を言わず、互いにもてなし合う」ような実際の行いを伴うものです。そのよう

な教会でしたら、誰でもどんな人でも、もっと沢山の人が教会に来ることができ

るのではないでしょうか。神様は、世の人々を愛して地上に下り、すべての人を

救うために教会の設立を命じられました。教会は、自分のことだけで満足し、好

きな人ばかりが集まるというものではありません。神様は御自身が再臨なさるま

でに、すべての罪人を救うために地の果てまで福音を宣べ伝えなさいと命じられ

たのです。もうそろそろ主が来られる時になっても、なかなか多くの教会は伸び

ていない状態です。神様はこのままで「ご苦労さまでした、もう結構です。満足

です」とおっしゃられるでしょうか。今日、ほとんどの教会があまり成長してい

ない理由は何でしょうか。理性が足りないか、カリスマ性が足りないからでしょ

うか。あるいは「愛」が足りないからではないでしょうか。

 第四は、「それぞれいただいた賜物を役に立たせる」ことです。4つめになす

べきことは、良い管理人になるために賜物を十分発揮することです。賜物につい

て、神様は教会のために、一人一人の信者に、違った賜物をただでくださいまし

た。賜物というものは、自分が造ったものではないのですから、自慢することも、

隠すことも、互いに焼きもちを焼く必要もないのです。賜物は大きい小さいを問

わず、平等にただで貰ったものであり、各自は責任をもって、教会に役立てるこ

とで、良い管理人となるべきです。

 ここで、ペトロの言う「管理人」は、パウロの言う「管理人」の概念とはちょ

っと違います。パウロが指している管理人は、いわゆる教会の役員のことです。

エフェソ3:2、1コリント4:1をご参照ください。ペトロがここで指してい

るのは、すべてのクリスチャンのことです。神を信じるすべての信者のことです。

皆が責任を持って教会に奉仕するようになれば、それはすばらしいことです。

                  ○

 兄弟姉妹の皆さん、2000年の初めに「万物の終わり」というような話はふ

さわしくないと思われたかもしれません。しかし、「時」ということのつながり

においては、年末年始にむしろふさわしいテーマではないでしょうか。今は今年

の初めの月ですが、同時に世の終わりになっているのではないでしょうか。

 神から見れば、「時」ということは永続の一つの点にしかすぎません。終わり

の時を迎えている私たちは、人間中心、あるいは神中心のどちらの時間に暮らし

ているでしょうか。もし、人間中心の生活でしたら、今日の聖書の箇所は、私た

ちに全く意味はありません。神中心の生活をしておられたら、この忠告には重大

な意味があります。

 聖書によるならば、教会には神に栄光を帰すべき責任があります。今日の聖書

の箇所の教えを大切に実行しましょう。すべての人が救われるように励みましょ

う。いつか、主イエスが審判のために再び降りて来られても、すでに心を整えて

慎んでいるものとされていることを祈ります。



 天にあるお父様
 貴方のお恵みとお導きで、我々は2000年を迎えることができ、まことに感

謝いたします。
 2000年に入って、我々は過去犯した罪を思い起こし、新年になって前へ向

いて歩むことに不安を覚えたり自信がなかったりいたします。どうか、新たな年

の初めに、犯した罪を貴方の御前に深く反省して悔い改めさせてください。さら

に貴方の聖霊によって強い信仰を持たせてください。貴方の再臨の日がいつ来て

も、平安と喜びに満たされるようにしてください。
 主イエス様よ、貴方が来るまでに、貴方の弟子のペトロの教えをしっかり実行

させてください。もっと沢山の罪人を貴方の御前に連れてきて、すべての栄光を

貴方に帰する、なすべきわざを命じてください。礼拝の初めから終わりまでを導

いてくださいまして、ありがとうございます。主イエスの御名によってお祈りい

たします。アーメン