「起き上がりなさい」
2000年1月23日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 ヨハネ5・1‐9
イエス様は再びエルサレムに上られました。ユダヤ人の祭りがあったのです。 祭り時、エルサレムは方々から集まってきたユダヤ人たちでごったがえします。 祭りの中心は、もちろんエルサレムの神殿でありました。大変な賑わいです。し かし、その神殿から北に数百メートル、まさに目と鼻の先に、祭りの華やかさと はまさに正反対の様相を呈しているひとつの場所があったのです。そこはヘブラ イ語で「ベトザタ」と呼ばれている池でした。四辺形の池の周りを四つの回廊が 囲み、池の真ん中にもう一つの回廊があったのですが、そこには「病気の人、目 の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人」などが大勢横たわっていたの です。都の賑わい、祭りの最中に、誰からも顧みられることなく寂しく日々を過 ごしている人々、悩みのどん底で自らの人生を呪っているような人々がそこにい たのであります。
なぜ、彼らはそこにいたのでしょうか。実は、理由が書いていないのです。4 節が抜けていますでしょう。その節は、この福音書の一番最後に付記されていま す。そこを見ますと、このように書かれています。「彼らは、水が動くのを待っ ていた。それは、主の使いがときどき池に降りて来て、水が動くことがあり、水 が動いたとき、真っ先に水に入る者は、どんな病気にかかっていても、いやされ たからである」(3節後半‐4節)。
これはヨハネによる福音書に後の時代につけ加えられた説明書きです。良く分 かります。当時の迷信です。だから、みんな自分が一番最初に飛び込もうと、そ こにいたのです。しかし、それはまたとても不幸なことでもありました。同病相 哀れむと言われます。しかし、現実はそうはいきません。同病なお相哀れむこと のできない世界があります。そこに人間の罪があります。重荷を負うもの同士の 競争があります。争いがあります。皆、自分のことで精一杯なのです。だから、 大勢の人々がいるのになお孤独です。大勢の人がいるからこそ、なお孤独なので す。そこでは同じ重荷を負っているのに共感できないのです。そのような世界が あの池の周りにありました。そして、今日の私たちの周りにもあるのです。
しかし、イエス様はそこに向かってくださいました。主の足が向かわれたのは、 華やかなユダヤ人たちの祭りの賑わいではありませんでした。そうではなく、ベ トザタの池、悲しみと悩みの場所であり、そこで重荷を負った孤独な人々のとこ ろに向かわれたのであります。
●見て、知って、言われた
そして、聖書は次のように記しております。「さて、そこに38年も病気で苦 しんでいる人がいた。イエスは、その人が横たわっているのを見、また、もう長 い間病気であるのを知って、『良くなりたいか』と言われた」(5‐6節)。 私は何気なく書かれているこの短い言葉の中に並べられている三つの言葉に深 い感動を覚えます。「見」、「知り」、「言われた」。イエス様は声をかけられ る前に、彼を「見て」、そして見るだけでなく「知って」、その上で語られたの であります。
私たちの姿とはなんと違うことでしょう。私たちは大体において相手を良く見 ていません。知ろうともしていないように思います。良く見もしないで、また深 く知ろうともしないで、理解しようともしないで、安易に励ましたり、罪を責め たりしてしまうのです。「どうしてそんなことをしていますか。」「もう少しが んばりなさいよ。」「なんとかなるはずでしょう。」そんな風にまず言葉が出て しまうのです。しかし、それが善意からにせよ、無理解な者の励ましほど有害な ものはありません。
イエス様はそのような私たちとは違いました。主はその様子をご覧になられ、 まずその彼の負っている現実を深く知られたのであります。理解されたのであり ます。「もう長い間病気であるのを知って…」と書かれています。どうして知り 得たのかは分かりません。しかし主の愛は彼の長い苦しみを理解したのです。そ うです。「愛」は相手を理解するのです。いや、それだけではありません。主は 彼の今の惨めさがどこから来たのかさえも知っていたのです。
後にイエス様はこの男の人にこう言われます。14節をご覧ください。「あな たは良くなったのだ。もう、罪を犯してはいけない。さもないと、もっと悪いこ とが起こるかもしれない。」つまり、主は、この病がなにか特定の罪から来てい るのだということを知っておられたのです。もちろん、私たちはこのような言葉 には注意しなくてはなりません。すべての病気が罪から来るのではありません。 病気の人すべてについて、何かの罪があるのだ、と考えてはなりません。しかし、 このような場合もあるのです。いや、特に病に限らず、私たちが自分の罪の故に、 その結果として苦しむということはよくあることではないでしょうか。
しかし、イエス様は、彼の罪をも一言も責めていません。たぶん彼は自分でも 何が問題であるのか分かっていたのだと思います。後に、「もう、罪を犯しては いけない」と言われた時に、「どのような罪ですか?」とこの人が問い返してい ないところを見ると、恐らく彼自身はどのような罪が問題なのかを知っていたの だと思います。しかし、イエス様はその罪を責めません。イエス様はしばしばフ ァリサイ派の人々を厳しく責められました。自分を正しい者とみなして他者を見 下すような人々を激しく叱責されました。しかし、その病が罪から来たものであ ったとしても、イエス様が病める者を厳しく責められたことが一度だってあった でしょうか。主は、「見て」「知って」くださり、その上で見捨てられるのでは なくて、深く関わってくださるのです。
イエス様は彼に言われました。「良くなりたいか。」もちろん、これが無理解 な人々の言葉であるならば、なんと冷たい響きを持つことでしょう。恐らくこの 人は「なんてむごいことを聞くんだ。良くなりたいにきまっているじゃないか」 と腹を立てたに違いありません。しかし、これはイエス様の言葉だから意味を持 つのです。その人の長い苦悩も、悲しみも、寂しさも、すべて知り尽くした上で 聞いてくださる方の言葉なのです。「良くなりたいか。」ここでイエス様の与え ようとしているのは希望です。これは「希望を与える言葉」なのです。
人間には希望が必要です。というのも、私たちはいつの間にか諦めの中に生き ているからです。希望を失っているのです。確かに自分ではどうすることもでき ないと思えるような現実があります。そして、それが罪の結果であるならば、な おさら諦めざるを得ないと思ってしまいます。この男もそうであったに違いあり ません。彼は38年間苦しんできたのです。38年です。それは決して短くはあ りません。そして、その長い間、恐らく自分を責め続けてきたのではないでしょ うか。自分の人生を呪ってきたのではないかと思うのです。しかし、そこに一人 の方が現れた。初めて、恐らく初めて、その長い苦悩を知り尽くしてくださる方 が彼の前に現れたのです。そして、その方が「良くなりたいか」と言ってくださ ったのです。希望を与えてくださったのです。イエス様は同じように、私たちの 現実をも「見て」「知って」くださいます。そして、分かってくださった上で、 「良くなりたいか」と言ってくださるのです。イエス様がそう言ってくださるな らば、私たちは希望を持つことができます。私たちには希望が必要なのです。イ エス様こそ私たちの希望であります。
●起き上がりなさい
彼は、そのようなイエス様に言いました。「主よ、水が動くとき、わたしを池 の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降 りて行くのです」(7節)。
要するに、私は競争に負け続けてきた、と彼は言っているのです。そのような 競争の社会において、みんな自分のことに精一杯で、この自分に真実に関わって くれる人はいなかった、と言っているのです。もちろん、そこで彼が生きていた ということは、誰かの助けがあったということでしょう。しかし、それでも彼は 惨めで孤独だった。彼の言葉からそんな思いが伝わってきます。本当なら、こん なことは誰にも言えないでしょう。言いたくないでしょう。しかし、その今まで 心の中にため込んできた惨めさを、この人は初めてイエス様の前に注ぎ出したの です。すべてを知った上で赦し、受け入れ、関わってくださるその方の「良くな りたいか」という言葉に触れて、彼は初めて心を開いたのであります。そして、 そこにこそイエス様との真実な出会いと交わりがあったのです。
強い者が尊ばれ、弱い者は軽んじられる。人を押しのけてでも前に出るものは 賞賛され、押しのけられた者は惨めさを味わう。そのような競争の世界であるこ とは、イエス様の時代も今の時代も少しも変わりありません。各々自分のことで 精一杯なのです。そのような中で、誰もこのような自分に本気で関わってくれる 人はいない、という思いを私たちもまた持つときがあるかも知れません。しかし、 たとえ現実にそうであっても少しも心配する必要はありません。そこで人はキリ ストに出会うのです。見て、知って、語りかけてくださり、私たちの思いを受け とめてくださる方に出会うのであります。
さらに8節をご覧ください。「イエスは言われた。『起き上がりなさい。床を 担いで歩きなさい』」(8節)。
彼は起き上がれないから寝ていたのです。床を担いで歩けるぐらいならここに いないのです。もし、これが他の人の言葉であるならば、これほど意味のない励 ましはありません。普通ならば反発を覚えるだけでしょう。しかし、この言葉も また、イエス様が言われるから意味を持つのです。イエス様は、彼が横たわって いるのを見られました。そして、長い間病気であることを知られました。イエス 様は何らかの罪のために病になり横たわっている彼を知り、そのままの彼を受け 入れられました。しかし、イエス様の願いはこの人がここにずっと留まっている ことではなかったのです。イエス様は、彼がもう一度立ち上がることを望まれた のです。
この男にそのような主の思いが伝わったのでしょう。ですから、この男はイエ ス様を信じ、イエス様の御言葉を受けとめたのです。彼は立ってみようと思いま した。「すると、その人はすぐに良くなって、床を担いで歩きだした」と記され ています。起き上がったのは彼自身です。しかし、起き上がらせてくださったの はキリストです。床を担いで歩いたのは彼です。しかし、歩けるようにしてくだ さったのはキリストです。キリストを通して神の力が働いたのです。神の力はこ の人の最も弱いところに働きました。彼がベトザタの池のほとりで一人でもがい ているときには立てなかったのです。彼は一人では立ち上がれなかったのです。 しかし、キリストによって起きあがり、キリストによって歩いたのです。キリス トを信じた彼の内に、キリストを通して神の命が流れ込み、彼を立ち上がらせ歩 かせたのであります。
ベトザタの池においての、彼の長い孤独な苦悩の日々は終わりました。人は、 自分の背負っている罪とも、罪の結果としての苦悩とも、もはやひとり孤独の内 に格闘を続ける必要はないのです。私たちの現実をそのまま知り、受けとめてく ださる方が、「良くなりたいか」と言ってくださるからです。まず、その方と出 会うことです。大切なことは、キリストに心を開き、その方に自らの罪も弱さも 恥も惨めさもさらけ出し、その御前に注ぎ出してしまうことです。そのようにし て、キリストと深い交わりを経験し、その愛と赦しとを経験するのです。そして、 キリストを信じて生き始める時、神の命が私たちの内に豊かに注がれ、私たちは 再び立ち上がり、歩み出すことが出来るのであります。