「キリストによる解放」
2000年1月30日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 マルコ1・21‐28
ガリラヤの海辺ではじめの弟子たちを招かれた主イエスは彼らと共にガリラヤ 湖北岸に位置しますカファルナウムという町に入られました。そして安息日が来 ると早速その町の会堂において教え始められたのです。今日与えられています聖 書箇所は、その会堂における出来事を私たちに伝えております。
●律法学者のようにではなく
初めに21節と22節をご覧下さい。「一行はカファルナウムに着いた。イエ スは、安息日に会堂に入って教え始められた。人々はその教えに非常に驚いた。 律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである」(2 1‐22節)。
彼らがそこに見たのは単なる律法の教師ではありませんでした。確かに主イエ スはユダヤ人として、ユダヤ人の習慣に従い、他のユダヤ人の教師のように会堂 において教え始められました。しかし、人々はそこに普通の教師以上の方を見た のです。それは神の権威によって語る御方でありました。
人々が驚いたその「権威ある者のように」語られたことの内容を、マタイはい わゆる「山上の説教」として5章から7章にかけて記しております。ところがマ ルコは、そこで何が語られたのかを全く記しておりません。むしろその教えは1 5節に語られています主の宣教の言葉と結びつけられています。そこにはこう書 かれています。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」 (15節)。そして、主イエスは単に「神の国は近づいた」、すなわち「神の支 配は近づいた」と語っただけでなく、その宣教の言葉をまさに神の権威をもって 語ったのであります。だから人々は驚いたのです。非常に驚いたのです。
その驚きについては、「律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教え になったからである」(22節)と書かれています。「律法学者のようにではな く」とはどのようなことでしょうか。律法学者の主要な職務は、律法を解釈する ことにありました。すなわち、聖書の戒めを解釈しその時代の状況に適用するこ とでありました。その解釈をもって、人々に律法の教育をほどこし、あるいは法 廷における判決に関わったのであります。そして、大切なことは、最終的な権威 は律法そのものが持っているのであって、彼らはあくまでも解釈者以上の者では なかった、ということであります。ところが、主イエスは、そのような律法学者 のようにではなく、権威ある者として語ったというのです。つまり、主の語られ たことは、単に聖書の言葉を時代的状況に適用することではなかったということ です。主イエスがそこにおられるということは、確かにそれ以上のことを意味し ていたのです。
このことを私たちは心に留めなくてはなりません。なぜなら、今日なお多くの 人々が、「キリスト者とは聖書の戒めの言葉を生活に適用して生きている人であ る」という程度にしか考えていないからです。キリスト者の間で、しばしば、 「聖書を生きる」という表現が用いられます。尊敬するキリスト者を、「あの人 は、まさに聖書を生きている人だ」というように表現したりいたします。しかし、 このような表現には注意しなくてはなりません。「聖書を生きる」ということが、 単に「聖書の戒めを実行して生きる」という意味でしかない場合があるからです。 もしそうであるならば、主イエスが来られる以前に、既に律法学者がその専門家 であったのです。まさに律法学者たちが目指していたのは、そのような意味で、 人々が「聖書に生きる」ように教えることでありました。しかし、主は律法学者 のようにではなく、権威ある者として教えられたのです。主がもたらされたのは、 単なる聖書の言葉の適用ではなかったのです。
●権威ある者として
では、主イエスが権威ある者として教えられたということは、いったい私たち に何を意味するのでしょうか。そのことを続く出来事から見ていきましょう。2 3節以下をご覧下さい。「そのとき、この会堂に汚れた霊に取りつかれた男がい て叫んだ。『ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正 体は分かっている。神の聖者だ。』イエスが、『黙れ。この人から出て行け』と お叱りになると、汚れた霊はその人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出て行 った。人々は皆驚いて、論じ合った。『これはいったいどういうことなのだ。権 威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く。』イ エスの評判は、たちまちガリラヤ地方の隅々にまで広まった」(23‐28節)。
いわゆる、キリストの奇跡物語の一つです。しかし、この奇跡的な行為そのも のが注目されているのではありません。それは27節の言葉から分かります。人 々は驚いて言うのです。「権威ある新しい教えだ」と。つまり、ここで注目され ているのは、あくまでも「権威ある新しい教え」なのであり、その「教え」の内 容である「神の国」なのであります。この出来事は、宣べ伝えられている「神の 国」の到来を現すしるしなのであります。
その場面を思い浮かべてみてください。そこは会堂です。彼らは礼拝をしてい ます。会堂における礼拝は、祈りと神の言葉の朗読、そしてその御言葉の解き明 かしから成っていました。その解き明かしのためには特に常任の説教者がいるわ けではありません。会堂司(かいどうづかさ)という人が解き明かしをなしうる 人を指名するのです。その解き明かしのために立ったのが主イエスでした。人々 の思いが御言葉と解き明かしに集中する最も厳粛なその時です。まさにその時、 礼拝の場においてひとりの人が叫び始めたのです。まわりの人が顔をしかめてい る様子が目に見えるようではありませんか。その場にもし私たちがいたとしたら、 どのような反応をしたでしょうか。やはり、同じ様に非難の目をむけたことでし ょう。この人は明らかに礼拝を乱す者であって、人々にとってははなはだ迷惑な 存在に他ならないのです。
しかし、人の目には非難すべき迷惑な存在であっても、キリストの目にはその ように映ってはいませんでした。主イエスにとっては、その人は汚れた霊に支配 されている哀れむべきひとりの人間以外の何者でもないのです。正しく神に向か うことができず、神を礼拝することができず、自分を越えた力に振り回され、自 分自身をコントロール出来ない悲しい一人の人間に他ならないのです。それゆえ、 主イエスは、即座に叱りつけました。その人をではありません。主イエスは汚れ た霊を叱りつけたのです。その人を支配している悪霊を叱りつけたのです。
「黙れ!」と主は叫びました。これは悪しき霊に対する憤りを現わしている言 葉であると同時に、この人に対する深い憐れみからほとばしり出た叫びでもあり ます。主はさらに、「この人から出て行け」と叫びました。主はあくまでも、こ の人の側に身を置いて命じているのです。「この人から出て行け」。この言葉の 中に、何としてでもこの人を汚れた霊から解放し、神に向かう本来の人間の姿を 回復しようと欲する、キリストの燃えるような熱情を、私たちは感じ取るべきで しょう。そして、キリストの憐れみと権威に満ちた御言葉はこの人を解放し、こ の人の本来の姿を回復したのであります。そこに現されたのは、その男に対する 神の憐れみであり、彼を解放する神の力ある御腕でありました。そのことによっ て、汚れた霊の支配に代わって、神の支配がその人の上に訪れたのであります。 つまり、先に申しましたように、この奇跡は、神の国が、まさにキリストと共に そこに到来していることのしるしなのであります。
●キリストによる解放
さて、このような癒しの物語、特に23節から26節にまとまっているこのよ うな形の話は初代教会で繰り返し繰り返し語られたものであろうと思います。つ まり、ここで初めてマルコが書き下ろしたのではなく、初代教会の礼拝の場で、 説教や教えの中で用いられるうちにこのような短い話にまとまったのだろうと考 えられるのです。これが、礼拝の場で語られ聞かれてきたということは、すこぶ る重要なことです。この物語は、「昔、主イエスがこのようなことをなされまし た」と言うことをただ伝えているのではない、ということを意味するからです。 つまりこれは、私たちのために十字架にかかられ、そして復活して、今も生きて おられるキリストと私たちの関わりとして聞かれるべき物語なのであります。
そのように、今日の私たちとの関わりにおいてこの物語を読みます時に、この 場面はある特殊な状況における特別な出来事ではないということが見えてまいり ます。もちろん、この物語に出てくる男に現れているのは、いわゆる憑依現象で あって、一般的には私たちにそれほど馴染みがないかも知れません。そういう意 味では、確かに特殊な事件です。しかし、良く考えてみますなら、あの汚れた霊 に支配された人は、私たちとは無関係な特別な人間であるとは言えないのです。 なぜなら、それを汚れた霊と呼ぶか、悪しき霊と呼ぶか、あるいは他の言葉で呼 ぶかは別としまして、そのような自分を越えた力に振り回され、自分自身を制す ることが出来なくなってしまう悲しみは、少なからず私たち人間の普遍的な経験 であるからです。人間は国と国、民族と民族の間における戦闘と殺戮の歴史の中 に、それを実際に見てきたのです。あるいは身近なコミュニティーの中に、小さ な家庭の中に、そして個人の心の中に、人間がどうすることもできない力が働く のを、私たちもまた経験してきたのではないでしょうか。人間の意志や知性によ ってはどうすることもできない支配力の猛威をいやというほど経験してきたので はないでしょうか。
しかし、そのような汚れた霊の支配の中にキリストが入って来られた、という のがこの場面なのです。そして、福音書はその物語を伝えることによって、主が 今もその権威をもって入って来られることを語っているのであります。
キリストが近づかれる時、汚れた霊は叫びます。「ナザレのイエス、かまわな いでくれ」と。なぜでしょう。汚れた霊はキリストが誰であるかを知っているか らです。だから言うのです。「我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。 神の聖者だ。」もしこれが、律法学者に対してならば、そのような抵抗は起こら ないでしょう。つまり、「ここに宗教的な良い教えがあります。生活に関する戒 めの言葉があります。それを守って生きましょう」という事であるならば、それ に対してはさほど大きな抵抗は起こってはこないのです。しかし、神の愛と恵み の支配をもたらす権威が近づいて来る時、人間の内において激しい抵抗が起こる のです。「ナザレのイエス、かまわないでくれ」という叫びが起こってくるので す。放っておいて欲しいのです。そのままでいたいのです。これもまた、キリス トとの関わりにおいて人がしばしば経験することであります。
しかし、主はそのような私たちに関わってくださるのであります。そのような 私たちであるからこそ、関わってくださるのであります。なぜなら、それは人間 の本来の姿ではないからです。悪しき力に支配され、神に敵対している姿は、そ してキリストを斥けようとしている姿は、人間の本来の姿ではないからでありま す。人間を汚れた霊から解放し、神の支配のもとに回復するのは、律法の権威で はありません。宗教的な戒めの言葉が人を解放するのではないのです。また、従 う私たちの決意や意志の力が、私たち自身を解放するのではないのです。私たち を解放するのは今も生きておられるキリストです。私たちを憐れみ給うキリスト です。「この人は私のものだ。この人は私が血をもって贖った人だ。この人から 出て行け」と私たちの側に立って汚れた霊に命じてくださるキリストなのです。
それゆえに、「ナザレのイエス、かまわないでくれ」という叫びがわき上がる なら、なおさら私たちは自分自身をキリストの権威のもとに身を置かなくてはな りません。キリストの裂かれた肉とキリストの流された血とを囲むその場所に、 キリストが共にい給うことを約束されたその場所に、すなわち私たちが主の御名 によって集まるその場所に、身を置かなくてはならないのです。そして、キリス トの愛と権威に身を委ねるのです。この御方のもとにあってこそ、私たちは神の 支配に生きることができるからです。この御方のもとにあってこそ、神との正し い関係にある本来の人間の姿を回復された者として、私たちは生きていくことが できるからであります。