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「キリストの宣教」

2000年2月6日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 マルコ1・29‐39

 今日お読みしました箇所には、短い三つのエピソードが記されています。その 第一は、安息日に主イエスがシモンとアンデレの家に行かれ、そこでシモンのし ゅうとめを癒されたという話です。第二は、その日の夕方になって日が沈むと、 町中の人が家の戸口に集まり、その多くの人々を主が癒されたという話です。第 三は、翌朝まだ暗い内に主イエスが祈っておられた時のことです。私たちは、こ の短い箇所に描かれている主イエスの姿に注目し、主の為されたこと、語られた ことが、今日の私たちにいかなる意味を持っているかを考えながら、この物語を 共にお読みしたいと思います。

●シモンのしゅうとめを癒されるイエス

 初めに、29節から31節までをお読みしましょう。「すぐに、一行は会堂を 出て、シモンとアンデレの家に行った。ヤコブとヨハネも一緒であった。シモン のしゅうとめが熱を出して寝ていたので、人々は早速、彼女のことをイエスに話 した。イエスがそばに行き、手を取って起こされると、熱は去り、彼女は一同を もてなした」(29‐31節)。

 場面は会堂から個人の家へ、礼拝の場から日常生活の場へと移行しています。 礼拝の場において、主は律法学者のようにではなく、権威ある者として立ってお られます。神の国の福音が語られただけではなく、キリストの言葉と行いおいて、 神の権威と力とが現されました。主はその権威と力をもって、汚れた霊に支配さ れている一人の人に関わられます。そして、その人は汚れた霊から解放されまし た。汚れた霊の支配に代わって、神の支配がその人の上に訪れたのです。こうし て、「神の国は近づいた」という言葉と共に、神の支配の到来を示すしるしが現 されました。それが礼拝の場において起こった出来事でした。

 しかし、主の働きは、会堂の中に留まっているものではありません。主はシモ ンとアンデレの家に行かれます。主は、彼らが日常の生活をしている場へと向か われるのです。そして、会堂において現された主の御業が、同じように日常の生 活の場においても現されたのだ、というのがここに記されている内容です。

 主イエスが家に着くと、気の毒なことに、シモンのしゅうとめが熱を出して寝 ておりました。人々は早速、彼女のことを主イエスに知らせます。その日は安息 日でありましたから、主に癒していただこうとして告げたのではないでしょう。 安息日に癒しのために働くことは律法に反することであったからです。恐らく、 「あなたをお迎えできるような状態ではありません」という、断りの意味であっ たのだと思います。彼らは、実状をありのまま主に伝えたのです。

 すると、主はどうされたでしょうか。主は彼女のそばに行き、彼女の手を取っ て起こされたのであります。主が自らそこに足を運ばれ、身を低くし、愛をもっ てシモンのしゅうとめに関わられたのです。あの礼拝の場において、主が汚れた 霊に支配された一人の人に関心を向けられたように、この生活の場において、主 は苦しむ一人の人にその手を伸ばされたのでした。しかも、ユダヤ人の社会にお いて決して重んじられることはなかった「女性」の、しかも「熱病」という全く 個人的な問題に関わられたのです。主は、いわばそのことにおいてその人に仕え られたのであります。そして、主の奉仕によって癒されたこの人は、「一同をも てなした」と書かれております。主によって仕えられたこの人は、主と人々に仕 える者とされたのです。礼拝の場において神の権威を現された主イエスは、この ひとつの家庭にもおいでになられ、その生活の場においても主となられたのでし た。

●集まった人々を癒されるイエス

 次に32節から34節までをお読みしましょう。「夕方になって日が沈むと、 人々は、病人や悪霊に取りつかれた者を皆、イエスのもとに連れて来た。町中の 人が、戸口に集まった。イエスは、いろいろな病気にかかっている大勢の人たち をいやし、また、多くの悪霊を追い出して、悪霊にものを言うことをお許しにな らなかった。悪霊はイエスを知っていたからである」(32‐34節)。

 28節には「イエスの評判は、たちまちガリラヤ地方の隅々にまで広まった」 と書かれておりました。まさか、一日でガリラヤの隅々にまで広まることはない と思いますが、その日に会堂で起こったことは、口伝えでかなりの人々が耳にし たのでしょう。多くの人々が、その噂を聞きつけて、病人や悪霊に取りつかれた 者を連れてきたのです。ただ、その日は安息日でしたから、人々は日が沈むまで 待ちました。ユダヤの一日は夕暮れから始まります。日が沈むと安息日が終わる のです。

 「夕方になって日が沈むと」という言葉に、日没をひたすら待っていた人々の 姿を思わされます。「町中の人が、戸口に集まった」というのは誇張でしょうが、 しかし、このような表現に、今も昔も肉体的あるいは精神的な問題を抱えた人が いかに多いかということを思わされます。普段はお互い何も問題のないように振 る舞い、そのような者として互いに関わり合っているものです。ですから、しば しば私たちには、自分以外の周りの人は皆、平和で健やかな幸福な人のように見 えてくるものです。しかし、一歩内側に踏み込むならば、人間の生活はそう変わ るものではありません。貧しい人には貧しい人の苦しみがあり、裕福な人には裕 福な人の思い煩いがあり、病気の人には病気の人の悩みがあると思えば、健康な 人はまたそれとは別の問題を抱えているものです。

 そして、主はそのような人間の苦悩のただ中に身を置いてくださいます。「イ エスは、いろいろな病気にかかっている大勢の人たちをいやし、また、多くの悪 霊を追い出し」(34節)と書かれております。主は礼拝の場においてあの一人 の男に関わられたのと同じように、日常の生活の場で一人の女性に関わられ、今 や家の外に群がる群衆の一人一人に、それぞれ一つひとつの問題について関わっ ておられるのです。人々の関心事は主の関心事でもあるのです。

 しかし、ここに大変興味深いことが続けて書かれております。「悪霊にものを 言うことをお許しにならなかった。悪霊はイエスを知っていたからである」(3 4節)。悪霊がイエスを知っているというのは、このナザレのイエスという方が メシアであり神の子であるということを知っている、という意味です。丁度、会 堂において汚れた霊に取りつかれた男が「正体は分かっている。神の聖者だ」と 叫んだようにです。しかし、そうであるならば、どうして語ることを禁じたので しょう。むしろ、大いに語らせたら良いではないですか。このように奇跡的な癒 しがなされ、悪霊が追い出される時こそ、「この方はメシアだ、神の子だ」と証 しされるべき時ではないかと思うのです。

 ところが、この福音書を読みますと、主イエスは悪霊に語らせないどころか、 人間にさえ語ることを禁じているのです。例えば、今日の聖書箇所の次には、重 い皮膚病を患っている人が主イエスの前に現れます。そして、主はその人を癒さ れます。このような奇跡を経験した者こそ「この方はメシアだ、神の子だ」と証 しすべきではないでしょうか。ところが、主はそのことを禁じられるのです。厳 しく注意して、「だれにも、何も話さないように気をつけなさい」(44節)と 言われるのです。なぜでしょうか。

 それは主が、まだ歩むべき道の途上にあったからであります。人々は、大いな る奇跡を経験しました。しかし、彼らはまだ見るべきことの途中までしか見てい ないし、知るべきことの途中までしか知ってはいないのです。主は確かに関わっ てくださいました。しかし、彼らはまだ、本当に主が関わってくださるとはどう いうことかを知りません。主が確かに仕えてくださいました。しかし、彼らはま だ、本当に主が仕えてくださるとはどういうことかを知りません。主は確かに愛 してくださいました。しかし、彼らはまだ、本当に主が愛してくださるとはどい うことかを知りません。主はどこに向かう途上だったのでしょうか。彼らは知り ませんでしたが、福音を聞いている私たちは知っています。それはゴルゴタの丘 に立つ十字架であります。後に主は10章45節でこのように語っています。 「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金とし て自分の命を献げるために来たのである」(10・45)。

 私たちが自分の悩みや苦しみに主が関わってくださることを知っても、それで 十分ではありません。主が、私たちに関心を向け、関わってくださるということ は、私たちの罪の問題にまで関わってくださるということなのです。私たちの罪 を贖うために自分の命さえ献げてくださるほどに私たちを愛してくださった、と いうことなのです。そこで初めてこのナザレのイエスという方を、私たちはメシ アであり神の子であると告白することができるのです。それゆえ、この福音書に おいては、十字架のもとにおいて初めて、人の口からイエスが神の子であるとい う信仰告白が聞かれるのです。「百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立って いた。そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、『本当に、この 人は神の子だった』と言った」(15・39)。

●他の町へと向かわれるイエス

 最後に、35節以下をお読みしましょう。「朝早くまだ暗いうちに、イエスは 起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた。シモンとその仲間は イエスの後を追い、見つけると、『みんなが捜しています』と言った。イエスは 言われた。『近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。その ためにわたしは出て来たのである。』そして、ガリラヤ中の会堂に行き、宣教し、 悪霊を追い出された」(35‐39節)。

 マルコはさらに次の日の朝早くの出来事を私たちに伝えています。主は人々か ら離れて一人になり、そこで祈っておられます。福音書は、このような主イエス の祈りの姿を繰り返し記すのです。昼間は大勢の人々が主イエスを求めてつめか けます。主は忙しく立ち働かねばなりません。しかし、主は祈りにおける父なる 神との交わりの時を犠牲にして働くことはありませんでした。なぜなら、主の目 的はあくまでも父なる神の御心を行うことだからです。働きながらでも祈ること はできると言う人もいます。確かにそうであるかも知れません。しかし、人を離 れ、一人静まって神の前に祈る定まった時を、あの主イエスでさえ必要とされま した。「わたしと父とは一つである」(ヨハネ10・30)とまで言われた主で さえ、私たちと同じ肉となられたゆえに、父との交わりに生きるためには誰にも 妨げられぬ時を必要としたのです。

 主であってもそうならば、私たちはなおさらです。神から十分に受けることな くして与えようとするならば、必ず枯渇します。人に仕えた主の模倣だけをしよ うとして人に関わろうとする人は、命が涸れてしまうのです。水源から離れて枯 れつつある井戸から無理に水を汲み出そうとするならば、そこから出てくるのは 不平や不満、嘆きや怨念といった泥水だけです。神を源とする真清水ではなく、 自分の枯れ井戸からの泥水を撒き散らすだけの奉仕者となってはなりません。

 さて、主がそのように祈っておりますと、シモンとその仲間が追ってきました。 そして、彼らは言うのです、「みんなが捜しています」(37節)と。既に朝早 くから群衆がつめかけていたのでしょう。このような出来事は、恐らくシモンや アンデレにとっては、今までに全く経験したことのないことであったに違いあり ません。彼らは明らかに主イエスと群衆の間に位置しています。主が注目される ということは、彼らもまたその弟子として注目されることに他なりませんでした。 主イエスが求められるということは、弟子たちの働きもまた求められることを意 味しました。それは彼らにとって、大きな重荷であると同時に、大きな喜びであ ったに違いありません。「みんなが捜しています」という弟子たちの言葉から、 彼らの興奮が伝わってくるようではありませんか。「私たちは人々のために働い ているのだ。私たちは人々から求められているのだ!そうです、主よ、みんなが あなたを捜しているのですよ!」

 彼らは恐らくそこにしばらく腰を落ち着けて、集まって来た人々のために働く べきであると考えたに違いありません。しかし、主はここで言われるのです。 「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわた しは出て来たのである」(38節)。主は人々の苦悩に目を留められました。彼 らの癒しのために働かれました。しかし、主の最終的な目的は、単に人々の目の 前の必要に応えることではありませんでした。それゆえ、主は先に進み行かれま す。神の国を宣べ伝えつつ、進み行かれるのです。

 弟子たちもまた主に従って行くことを求められます。彼らは、主が向かってお られたところ、ゴルゴタの十字架を見るところまで連れて行かれるのです。そし て、彼らはやがて知ることになるのです、主が最終的に与えようとしていたのは、 そして私たちが本当に必要としているのは、十字架における罪の贖いであり、罪 人が贖われた者として神の支配のもとに生きるようになることなのだ、と。それ こそが、病の癒しや悪霊の追放の業によって指し示されていた人間の救いに他な らないのであります。

 
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