大阪のぞみ教会協力牧師 松原 茂       「御子についての神の証」                           1ヨハネ5・6‐12  6節には「この方は、水と血を通って来られた方、イエス・キリストです。水 だけではなく、水と血とによって来られたのです。そして"霊"はこのことを証し する方です。"霊"は真理だからです」と記されています。これは反キリスト者が 「イエスは、ただの人であってキリストではない」と述べていることに対して、 真向うから、「イエスがキリストとして来られたのは、歴史的事実であることを、 真理である"霊"が証ししておられる」と述べているのであります。  ヨハネはイエスについての歴史的事実を、水と血という二つの出来事によって 来られたキリストであることを、真理の霊が証言していると語っています。  「水を通って来られた方」について。イエスがバプテスマのヨハネのもとに来 られて、洗礼を求められたとき(マタイ3・14、15)、ヨハネはイエスにそ れを思いとどまらせようとして「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべき者で す」と言いました。イエスは「今は止めないでほしい。正しいことをすべて行う のは、我々にふさわしいことです」とおっしゃり、ヨハネはイエスの言われると おりにしました。このようにして、「世の罪を負う」神の子羊(ヨハネ1・29) として十字架の道への第一歩を踏み出されたのであります。  「イエスは洗礼を受けると、すぐに水の中から上がられた。そのとき、天がイ エスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自身の上に降って来る のを御覧になった。そのとき『これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』 と言う声が、天から聞こえた」のであります。  さて、「血を通って来られた方」とは、明らかに、主イエスが十字架につけら れ血を流されて死なれたことを言い表しています。主イエスは十字架に釘づけら れ、死なれたことによって、聖書に約束されていた罪人のあがないの御業を成就 なさいました。このことはまさに神の子イエスが歴史的事実として、肉をとって 来られた神の子羊・キリストであることを言い表しているのであります。  イエスは「十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってください ました。わたしたちが罪に対して死に、義によって生きるようになるためです。 そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました」(1ペトロ2・ 24)、とあります。また「罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのた めに罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができた のです」(2コリント5・21)とあります。  「聖書は明らかにわたしたちが義とされ、命を与えられるために、わたしたち の罪がキリストに転嫁されたこと、キリストがわたしたちの代りに罪とせられた ことを教えています。これは、神がキリストを救い主として世に遣わしたもうた、 神のみこころでした。ここに告白すべき罪のないイエス・キリストが、罪を告白 する洗礼を受けたもうた意義があります。それは救い主として父なる神に遣わさ れたもうたイエスにとって、成し遂げたまわねばならない"正しいこと"であった のです」(田中剛二)。  はじめに申し上げましたように、ヨハネの時代にはイエスを神の子キリストで はないとする異端が教会の中に入り込んでいました。異端の教えを述べていた人 たちは、マリアから生まれたイエスと、神の子キリストとを分離した考え方を述 べていました。ですから彼らはイエスがバプテスマのヨハネから洗礼を受けられ たときに、天から「神の子、キリストの霊」が人間イエスの上に降ったのである と語り、神の子イエスの受肉(ヨハネ1・14)されたことを全面的に否定しま した。  「この方は、水と血を通って来られた方、イエス・キリストです。水だけでは なく、水と血とによって来られたのです」。水だけではなく、水と血とによって 来られたのですと強調して語っている理由は、異端の教師たちが、「イエスが十 字架につけられる直前に『神の子、キリストの霊』はイエスを離れて天に帰って いった。したがって十字架の上で苦しみつつ死んでいったのは、ただの人間イエ スにすぎない」と言っていたからです。この教えは、イエスが罪人のあがないを 成し遂げたという福音に対する全面的否定でありました。聖霊によって身ごもり、 母マリアより生まれられたイエス、歴史の真只中に来られたイエス、バプテスマ のヨハネから洗礼を受け、十字架につけられて死にたもうた方、すなわち、「水 と血とによって来られた」イエスこそ、父なる神から遣わされた救い主としての 働きを成就したもうた神の子、イエス・キリストであるとヨハネは証ししていま す。  異端の教えは、ヨハネの時代だけではありません。世々の教会にも同じような 誤った教えがありました。それは、イエスとキリストとを切り離した教えです。 それは、わたしたちの主イエスの神性を否定します。また、主イエスの罪のあが ないの御業を否定します。彼らはイエスの良き働きをほめたたえますが、決して 神の子、キリストであると告白しません。ただの人間イエスにすぎないのであり ます。この教えは、今日の教会の中にもあります。  ヨハネは6節の前半に、イエスが神の子、キリストであられることを「水と血 を通って来られた」方として、歴史的事実を証ししましたが、第二の根拠として、 6節の後半に、聖霊の証しをあげています。「そして、"霊"はこのことを証しす る方です。"霊"は真理だからです」とあります。  バプテスマのヨハネのことばを聞いてみましょう。ヨハネ1・32‐34を御 覧ください。バプテスマのヨハネが語った証しが記されています。「わたしは、 "霊"が鳩のように天から降って、イエスの上にとどまるのを見た。わたしはこの 方を知らなかった。しかし、水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった 方が、『"霊"が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が聖霊によって洗 礼を授ける人である』とわたしに言われた。わたしはそれを見た。だから、この 方(イエス)こそ神の子であると証ししたのである」。  バプテスマのヨハネが、証しされた神の子を見たと、はっきりここに証言して いるのです。イエスが洗礼を受けて水の中から上がられたそのとき、天がイエス に向かって開かれました。イエスは、神の霊が鳩のように御自身の上に降って来 るのを御覧になられたのです。そして天から次のような声が聞こえました。「こ れはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と(マタイ3・16、17)。  まさに神の霊がイエスの受洗という出来事を通してイエスが神の御子にいまし たもうことを証しなさったのであります。バプテスマのヨハネもこの光景を目撃 したと証言しています。「神が御子についてなさった証し、これが神の証しだか らです」(9)。「そして"霊"はこのことを証しする方です。"霊"は真理だから です」(6b)。このように御霊は永遠の真理にいましたまい。世々にわたって 神の子イエスがキリストにていましたもうことを、神から生まれた子供たちに証 しし、知らしめ、信じさせたもう働きをなしてくださる方なのであります。  ヨハネが「水と血によってこられた」方を、私たち罪人の罪のあがないを成就 してくださった神の子キリストとして、わたしたちの霊に証ししてくださったの は御霊です。わたしたちの霊への御霊の証しがなければ、わたしたちはだれひと りイエスを神の子、キリストと信じることはできないのです。「聖霊によらなけ れば、だれも『イエスは主である』ということができない」のです(・コリント 12・3)。  「証しするのは三者で、霊と水と血です」(7,8)。 神は歴史の中で水と 血において御子について証しをし、今日も御霊によってわたしたちの霊に証しを してくださるのです。今もつねに、教会の内に証し続けておられる聖霊と、水と 血を通られたイエスの御生涯の出来事とは全く一致して、御子イエスをキリスト と証しし続けているのであります。  「その証しとは、神が永遠の命をわたしたちに与えられたこと、そして、この 命が御子の内にあるということです。御子と結ばれている人にはこの命があり、 神の子と結ばれていない人にはこの命がありません」(11,12)。 わたし たちが歴史的事実と御霊とによる神の証によってイエスを神の子キリストと信じ るということは、わたしたちの全生活、全存在をイエス・キリストに全くおゆだ ねし、より頼むことであります。わたしたちの生き死にのすべて、この世の時間 においても、永遠にわたる事柄においても、キリストの御手にわたしたちの全身 をおゆだねすることであります。神がなしてくださいました証し は、イエス・ キリスト以外に完全にどのような救いもないということをわたしたちに自覚させ てくださいます。  「この方は」で始まる神の証し(6-12)とは、イエス・キリストは水を通 って地上の生涯(ご自身が遣わされた目的)を生き抜き、血(十字架の死)を通 って聖書に約束しておられた人間の罪を完全に贖われた方、救いの御業を成し遂 げられた復活の主イエス・キリストであることです。そして、ヨハネはさらに語 ります。「神の子の名を信じているあなたがたに、これらのことを書き送るのは、 永遠のいのちを得ていることを悟らせたいからです」(13)。ヨハネは「神が 御子についてなさった証ししとは、神が永遠の命をわたしたちに与えられたこと、 そして、この命が御子の内にあるということです」(11)。  永遠の命をわたしたちの内にお与えくださいました主の聖名を賛美いたします。 ハレルヤ。