「安息日の律法」
2000年3月5日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 マルコ2・23‐3・6
今日与えられております聖書箇所には二つの物語が記されています。両方とも、 安息日の律法に関係しています。一つは、弟子たちが、安息日にしてはならない ことをしたという話です。二つ目は、主イエス御自身が、安息日に禁じられてい たことを行ったという話です。この安息日の律法を巡って主がなされたこと、主 が語られた言葉は、ファリサイ派の人々の敵意をさらに深めることとなりました。 この箇所で、初めて、主イエスを殺すための相談がなされた事情が明らかにされ ます。これらの出来事は、主を十字架へと導くものとなるのです。
●人のために定められた律法
それではまず最初の物語をお読みしましょう。「ある安息日に、イエスが麦畑 を通って行かれると、弟子たちは歩きながら麦の穂を摘み始めた。ファリサイ派 の人々がイエスに、『御覧なさい。なぜ、彼らは安息日にしてはならないことを するのか』と言った。イエスは言われた。『ダビデが、自分も供の者たちも、食 べ物がなくて空腹だったときに何をしたか、一度も読んだことがないのか。アビ アタルが大祭司であったとき、ダビデは神の家に入り、祭司のほかにはだれも食 べてはならない供えのパンを食べ、一緒にいた者たちにも与えたではないか。』 そして更に言われた。『安息日は、人のために定められた。人が安息日のために あるのではない。だから、人の子は安息日の主でもある』」(2・23‐28)。
弟子たちは空腹だったようです。そこで歩きながら麦の穂を摘み始めたのでし た。他人の畑のものを勝手に食べる人はどろぼうです。私たちの目には問題ある 行為に映ります。しかし、これは当時においてはさほど珍しいことではありませ んでした。これはモーセの律法においても許されていたことなのです。例えば、 申命記には次のように書かれています。「隣人の麦畑に入るときは、手で穂を摘 んでもよいが、その麦畑で鎌を使ってはならない」(申命記23・25)。貧し い人々への暖かい配慮が良く現れている律法の文言の一つです。ですから、ファ リサイ派の人々が弟子たちを咎めたのは、彼らが他人の麦を食べたからではない のです。問題は、その行為を「安息日」にしたことでありました。
安息日とは、金曜日の日没から土曜日の日没までのことです。この安息日を守 ることについては、モーセの十戒の中の第四戒として記されております。「安息 日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、 七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない 」(出20・8‐10)。律法に厳格な人々は、この安息日の律法を真剣に守ろ うとしたのです。そのためには、何が「仕事」に当たるかを明らかにしなくては なりません。そこで39種類の仕事が安息日に禁じられるようになりました。後 には更にそれぞれが六つに細分化されるに至ります。
弟子たちの行為は、これらの条項に引っかかったのでした。彼らは穂を摘みま した。これは「刈り入れ」という労働に当たります。そして、麦の穂はそのまま では食べられません。彼らは穂を揉みほぐして食べたのです。これは「脱穀」お よび「食事の準備」に当たります。すべて禁止されている仕事です。笑い話では ありません。弟子たちの行為を咎めたファリサイ派の人々は真剣なのです。
そこで主イエスもまた真剣に聖書を引いて答えたのでした。サムエル記上21 章に出てくるダビデの話です。祭司以外の者が供えのパンを食べることは律法で 禁じられていました(レビ24・9)。「けれども、ダビデはそれを食べたでは ないか。聖書は、彼を咎めていないではないか」と主は言われるのです。この話 は安息日とは関係ありません。主は、もっと広く、律法そのものについて語って おられるのです。その上で、主はこう言われたのでした。「安息日は、人のため に定められた。人が安息日のためにあるのではない」(27節)。
「安息日は、人のために定められた」。先に申しましたように、主はここで安 息日のことだけを考えているのではなくて、律法全体という大きな視点のもとで 語っております。ですから、この言葉を、「律法は、人のために定められた」と 言い直して良いかと思います。これは衝撃的な言葉ではないでしょうか。人は通 常、律法について、定められた掟や戒めについて、そのようには考えていないで しょう。「人のために定められた」とは思っていないから、内心はできるだけ守 りたくはないわけです。
ですから、神の戒めについては、二通りの反応が起こってまいります。人は、 一方において、「どこまでだったら許されるか」と考えます。律法違反にならな いぎりぎりのところまでは行おうとするのです。そして、違反になる手前で止め ておこうと思うわけです。ですから、厳密に何が禁止されているかが気になりま す。禁止条項が明確に定められたら、それに引っかからないことならば多少良心 が咎めても行なってしまおう、と考えるのです。「これは律法によって禁止され ていないぞ!」が自己弁護の決まり文句となります。そして他方では、律法を守 ったことを自分の功績にし始めます。「人のために定められた」ということが分 からないと、あたかもそれを守ることが神のために行った賞賛されるべき行為の ように考えてしまうのです。そして、守っていない人々を見下すようになります。 断罪し始めます。また、律法の遵守をもって神と取り引きを始めます。その律法 を守る行為の積み重ねと引き替えに救いを得ようとするのです。ここに見られる のが、律法主義の根本精神です。そして、これが人を律法の奴隷にするのです。 「人が律法のためにある」かのようにしてしまうのです。
主は、その誤りを明らかにされたのでした。そして、主の言われたことは、旧 約聖書が「十戒」について語っていることとも一致します。十戒には前文がある のです。十の戒めの前に次のように書かれています。「わたしは主、あなたの神、 あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である」(出20・2)。つ まり、神の赦しと救い、神の恵みとその恵みに基づく救いの御業が先にあるので す。救われたのは律法を守ったからではありません。恵みによるのです。しかし、 恵みによって救われた者たちが、神の恵みの支配のもとにあって神の民として生 きるために、感謝をもって神に従順に生きるために、律法が与えられたのです。 神の戒めは恵みに基づいて人のために与えられたのです。そして、主はさらに自 らの身をもって、その事実を示されるのであります。
●神の救いを思い起こす日
それでは続きをお読みしましょう。「イエスはまた会堂にお入りになった。そ こに片手の萎えた人がいた。人々はイエスを訴えようと思って、安息日にこの人 の病気をいやされるかどうか、注目していた。イエスは手の萎えた人に、『真ん 中に立ちなさい』と言われた。そして人々にこう言われた。『安息日に律法で許 されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すこと か。』彼らは黙っていた。そこで、イエスは怒って人々を見回し、彼らのかたく なな心を悲しみながら、その人に、『手を伸ばしなさい』と言われた。伸ばすと、 手は元どおりになった。ファリサイ派の人々は出て行き、早速、ヘロデ派の人々 と一緒に、どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めた」(3・1‐6)。
場面は安息日の礼拝です。しかし、皆が皆、純粋に神を礼拝するためにそこに いたのではありません。讃美ではなく敵意に満たされてそこに座っている人々が おりました。彼らは、主イエスを訴える口実を得るために、主の行動を伺ってい たのです。6節を見ますと、彼らは律法に厳格なファリサイ派の人々であったこ とが分かります。他の誰よりも安息日を重んじ、礼拝を重んじていた人々でした。 しかし、彼ら自身は神を礼拝してはいないのです。彼らの関心は、主イエスが安 息日の律法を破るか否かというところにありました。安息日に禁止されている仕 事の内には、治療行為も含まれています。ですので、彼らは、主が片手の萎えた 人を、安息日に癒されるかどうかに注目していたのです。
主は、人々の意図を良く知っておられたに違いありません。であるからこそ、 あえて手の萎えた人を真ん中に立たせたのです。そして、彼らに一つの問いを突 きつけられたのです。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪 を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」
この主の問いかけを理解するために、旧約聖書を一箇所開きたいと思います。 先ほど、出エジプト記から十戒を引用いたしましたが、実は、十戒を記している のは出エジプト記だけではありません。申命記にも出てくるのです。そこに出て くる安息日律法の箇所を開いてみましょう。申命記5章12節以下に書かれてい ます。特に注目したいのは、15節です。「あなたはかつてエジプトの国で奴隷 であったが、あなたの神、主が力ある御手と御腕を伸ばしてあなたを導き出され たことを思い起こさねばならない。そのために、あなたの神、主は安息日を守る よう命じられたのである」(申命記5・15)。
ここにおいても強調されているのは、神の恵みが先にあった、ということです。 まず神が憐れんでくださったのだ、と言うのです。奴隷であったあなたを、苦し み呻いていたあなたを、誰からも顧みられることのなかったあなたを、そんなあ なたを神は心に留められ、愛され、憐れまれ、救ってくださったのだ、と言うの です。ですから、安息日には、そのことを思い出せ、と語られているのです。人 がまず思い出さねばならないのは、自分が神のために何をしたかではないのです。 神が私のために何をしてくださったか、ということなのです。
そして、神の恵みが先にあることが分かった時に、初めてその恵みに応えて生 きることがどういうことかが分かってくるのです。それは受けた神の恵みを携え て、隣人に向かうことに他なりません。そして、その恵みを分かち合うのです。 それは遠くにいる誰かではありません。最も身近な隣人です。聖書にはこう書い てあります。「あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、牛、ろばなどすべての 家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。そうすれば、あなた の男女の奴隷もあなたと同じように休むことができる」(申命記5・14)。皆 を休ませる。牛やろばまで休ませる。それは最終的には、男女の奴隷を休ませる ためです。自分が神の憐れみを受けたことを思い起こして、この場合、男女の奴 隷に至るまで、すべての隣人を休ませるのです。これが申命記の示す安息日の姿 です。
このように、本来、安息日は「何をしてはいけないか」ということだけを考え ているような日ではなかったのです。それゆえに、主は手のなえたこの人を真ん 中に立たせて、「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行う ことか。命を救うことか、殺すことか」と問われたのです。「何をしてはいけな いか」ということしか考えられない人々には、目の前のこの一人の人が見えてい ませんでした。神の憐れみによって今の自分があることを忘れている人々は、こ の一人の人をも神は憐れんでおられ、この一人の人を心にかけておられることを 悟りませんでした。自分に向けられている神の愛を忘れる人は、隣人を神の愛の もとにある一人の人間として見られなくなるのです。
主は怒って彼らを見回されました。そして、彼らのかたくなな心を悲しまれた のです。主は、心底悲しまれたのです。彼らは決していわゆるこの世の悪人では ないのです。ふしだらな人間でもないのです。真面目な人々です。真剣に生きて きた人々です。しかし、主イエスは彼らを見て、そのかたくなな心を悲しまれた のです。そして、彼らの目の前で、真の安息日を見せられたのでした。主は、そ の人に言われます。「手を伸ばしなさい」。そして、その人は癒されたのでした。
しかし、その結果、ファリサイ派の人々は出て行き、ヘロデ派の人々と一緒に、 どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めることとなったのです。主の行為 は、神の憐れみに基づくこの行為は、主イエスをまた一歩十字架へと導くことに なりました。そうです、このようにして、主は十字架へと歩みを進められたので した。罪人を憐れみ救い給う神の愛がその極限の姿において現される十字架へと、 主は一歩また一歩と近づいておられたのであります。