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「主の道を求める祈り」

2000年3月12日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 詩篇25編

 受難節に入りました。その第一主日である今日、私たちに与えられていますの は、詩篇25編です。新共同訳には「アルファベットによる詩」と注が付いてい ます。その通り、いくつかの例外を除いて、基本的には日本の「いろは歌」のよ うになっています。そうなっているのは、覚え易くするためであり、また共に歌 い易くするためであるに違いありません。また、この詩篇の一番最後は「神よ、 イスラエルを、すべての苦難から贖ってください」という言葉で終わっています。 この部分は、後に加えられたものと思われます。このように、全体として見ると、 これは非常に個人的な色彩の強い祈りの言葉なのですが、最終的には、その個人 の祈りがイスラエルの民に共有され、記憶され、そして礼拝において共に捧げら れる祈りとされていることが分かります。言い換えるならば、「わたしの祈り」 が「わたしたちの祈り」とされているのです。そして、そのいにしえの祈りの言 葉が、ここにいる私たちにも「私たちの祈り」として与えられているのです。

 今日は、特にこの詩篇の中から4節と5節の言葉、「主よ、あなたの道をわた しに示し、あなたに従う道を教えてください。あなたのまことにわたしを導いて ください」という短い祈りの言葉に注目しましょう。これが何を意味するのかを 共に考え、この言葉をもって共に祈りたいと思うのです。

●あなたの道をわたしに示してください

 そもそも、この人はどのような状況において、このように祈っているのでしょ うか。明らかに、この祈りは苦しんでいる人の祈りですが、直接的にはその苦し みが彼の「敵」(2節)によって与えられていることが分かります。もっとも、 この「敵」が、どのような人々であるかは定かではありません。3節では「いた ずらに人を欺く者」と呼ばれております。「欺く者」は「裏切る者」とも訳せま す。そうしますと、これは元々は彼の友だったのかも知れません。いずれにせよ、 彼を苦しめているのは身近な人々のようであります。19節を見ますと、そのよ うな敵が益々増えていることを彼は訴えています。彼らは、この詩人を憎み、不 法を仕掛け、陥れようと企んでいるのです。

 私たちはどうでしょうか。周りの人々の不真実によって苦しんだことがありま すでしょうか。友の裏切りによって涙を流したことがありますでしょうか。謂わ れのない敵意に取り囲まれて眠れぬほどに苛まれたことがありますでしょうか。 多かれ少なかれ、そのようなことは誰もが経験することではないかと思います。 詩篇には、敵によって苦しめられている人の祈りがたくさん出てきます。そして、 時代も場所も遠く離れた人々の祈りでありながら、そこに語られていることは、 とても身近なことのように思われます。「敵を愛しなさい」と言われたのはイエ ス様でした。しかし、考えてみれば、その言葉は敵の存在を前提としている言葉 です。そこにまた人間の現実もあるのです。私たちは常に友に囲まれて生きてい るわけではありません。たとえこの詩人のように明確に「敵」と認識するのでは ないにしても、私たちの経験する苦しみや悲惨な状況は、多くの場合、身近な人 たちとの関わりにおいて生じることは間違いないだろうと思うのです。

 しかし、そのような苦しみの中にあるこの人の声に耳を傾けてみてください。 彼はどうしているでしょうか。彼は敵を呪い、自分の運命を呪っているのでしょ うか。いいえ、違います。彼は天を仰いで叫ぶのです。「主よ、わたしの魂はあ なたを仰ぎ望み、わたしの神よ、あなたに依り頼みます」(1‐2節)と。「魂 はあなたを仰ぎ望む」とは、もともと「魂を上に挙げる」という言葉です。イス ラエルの人たちは、両手を天に向かって挙げて祈ります。そして、彼は、手だけ でなく、魂までも天に向かって挙げるのです。「八方塞がり」という言葉があり ます。しかし、天まで塞がってしまうことはありません。彼は開いている天に向 かって叫ぶのです。「わたしの神よ」と呼び掛けて、その方に依り頼むのです。

 そのようにして、彼が祈っている言葉が、先にお読みしました4節の祈りなの です。彼はそこで、「主よ、あなたの道をわたしに示してください」と祈るので す。多くの人は、ただ苦しみが過ぎ去ることを求めます。しかし、彼はただ苦し みが過ぎ去るようにと祈り求めているのではありません。単に敵から救われるこ とを祈り求めているのではありません。彼は人間の不真実のゆえに苦しんでいる 時に、「主よ、あなたの道をわたしに示してください。あなたのまことにわたし を導いてください」と祈るのです。

 神のまこと、神の真実へと導かれることを求めるのは、その神の真実の中を生 きていくためであります。決して裏切ることのない真実なる神に依り頼んで神と 共に生きることを彼は求めているのです。「あなたはわたしを救ってくださる神 」と、この詩人は信仰を言い表しました。しかし、ただ単に苦境から逃れること が救いなのではありません。何かから逃れることにではなく、神のまことへと導 き入れられることにこそ、本当の救いはあるのです。

 彼の祈りは私たちに一つの方向を示しています。私たちもまた、この世におい てどれほど多くの不真実に出会おうとも、人間の裏切りによって苦しむことがあ ろうとも、決して絶望してはならないのです。この世の生に失望し、投げやりに なってはならないのです。裏切りに対して裏切りをもって報い、敵意に対して憎 しみをもって報いて生きるような泥沼の中に留まってもならないのです。その時 こそ、決して裏切ることのない真実な方は誰であるのかを知るべき時だからです。 私たちが本当に真実なる方を求めるべき時だからです。その時こそ、「あなたの まことにわたしを導いてください」と祈るべき時なのです。

●罪深いわたしをお赦しください

 しかし、私たちは「主よ、あなたの道をわたしに示してください。あなたのま ことにわたしを導いてください」と祈るということがいかなることかを、さらに 深く考えねばなりません。私たちがそのように祈り始めるということは、もはや 敵だけを問題にできなくなることを意味するからです。それまでは、周りの人間 を裁いて、神に訴えていたかも知れません。しかし、「あなたの道を示してくだ さい」と祈るならば、そこでは他の誰かではなく、私自身と神との関係が問われ ることになります。なぜなら、当然のことながら、その道を歩むのは他の誰かで はなく、私たち自身だからです。

 そこで何が起こってくるでしょう。人はそこで他人の罪ではなく、自分の罪に 目を向けざるを得なくなります。人が光を求めるならば、光に曝さねばなりませ ん。光に曝された自分自身を見なくてはなりません。そして、神の光に曝される ならば、そこで明らかになるのは、他の誰かの不真実ではないのです。敵の罪で はないのです。他ならぬ私たち自身の罪と汚れなのです。

 それゆえに、彼は続いてこう祈ります。「主よ、思い起こしてください、あな たのとこしえの憐れみと慈しみを」(6節)。私たちは、自らの罪を神の光のも とで認める時、ただ神の憐れみと慈しみに依り頼むことしかできない自分自身で あることを知るのです。ですから、主の憐れみを求めつつ、彼はさらにこう祈る のです。「わたしの若いときの罪と背きは思い起こさず、慈しみ深く、御恵みの ために、主よ、わたしを御心に留めてください」(6‐7節)。なんとも虫のい い身勝手な願いだと思われるでしょうか。しかし、人が本当に神の御心に留めら れることを求めるならば、こう祈るしかないのです。なぜなら、本来なら、神の 心に留められるということは、自分の過去も、そのすべての罪も、心に留められ ることに他ならないからです。それは滅びを意味するのであって、決して救いを 意味しないからです。

 この人の言葉を、私たちは注意深く聞かなくてはなりません。彼は自分の過去 を「若いときの罪と背き」として言い表しております。過去の罪をただ「若気の 至りであった」と言っているのではないのです。単なる愚かさや弱さと言ってい るのではないのです。私たちは、自分の罪を、往々にして愚かさや弱さとして片 づけてしまうものです。だからなかなか「わたしの若いときの罪と背きは思い起 こさないでください」というこの詩人の祈りの深刻さが分かりません。彼は、明 確に自分の過去を「背き」と表現するのです。それは神に対する反逆であるとい うことです。神への敵対です。彼は、自分の過去に、神に背き、敵対していた自 分を見出しているのです。それは、福音書の描写を用いて言うならば、主イエス によって癒された病んでいる人々の中に自分を見出しているのではない、という ことです。そうではなく、主を十字架にかけて嘲っている人々、罵っている人々 の中に、自分を見い出すということに等しいのです。そのような自分であること に気づくとき、私たちはもはや神の前にはいかなる己の正しさも持ち出すことは できないことを悟らざるを得なくなるのです。

 このように、「主よ、あなたの道をわたしに示してください。あなたのまこと にわたしを導いてください」と祈るということは、自ら一人の罪人として、主の 導きを求めることに他ならないのであります。世の罪と不真実の中にあって、敵 によって苦しめられている、いわば被害者として、自分だけが唯一の正しい人間 であるかのように主の導きを求めることではないのです。

 ですから、主が恵み深くあられるという聖書の使信が、決定的に重要な意味を 持つことになります。それは、主の道を求める罪人に、主がなお恵み深く関わっ てくださることを意味するからです。「主は恵み深く正しくいまし、罪人に道を 示してくださいます。裁きをして貧しい人を導き、主の道を貧しい人に教えてく ださいます」(8‐9節)。そのように聖書は教えます。主はただ「正しくいま す」御方ではありません。主はまた恵み深い方でありますので、罪人を見捨て給 わないのです。罪人に道を示して導いてくださるのです。細かいことを申します と、4節の「道」は複数で書かれています。8節と9節の「道」は単数です。一 本の道です。主は、罪人を見捨て給わず、歩むべき一本の確かな道、主の道をを 示してくださるのです。そこにこそ、私たちの希望があるのです。

 その「罪人」が「貧しい人」と言い換えられています。「貧しい人」とは、単 に経済的に困窮している人のことではありません。ある人はこれを「へりくだる 人」と訳しました。自分自身の罪深いことを認め、自分を救い得る手だての全く ない者であることを認め、身を低くしてただ主にのみ依り頼む人のことです。そ れはイエス様のたとえ話に出てくる、あの徴税人のような人であります。目を天 に上げようともせず、胸を打ちながら、「神様、罪人のわたしを憐れんでくださ い」(ルカ18・13)と祈ったあの徴税人のような人です。イエス様は、義と されて家に帰ったのはこの人である、と言われました。そうです、神はへりくだ って憐れみを求める人を憐れみ給うのです。神は憐れみをもって道を教えてくだ さるのです。それゆえ、この詩人の祈りは、11節において頂点に達します。

「主よ、あなたの御名のために、罪深いわたしをお赦しください」(11節)。

この詩篇の中心にあるのが、この祈りの言葉です。彼はただ神の御名に依り頼ん で赦しを祈り求めるのです。

 「主よ、あなたの道をわたしに示し、あなたに従う道を教えてください。あな たのまことにわたしを導いてください」という祈りの言葉が何を意味するのかを 共に考えてまいりました。そして、この祈りが罪の赦しを求める祈りと切り離す ことはできないことを、この詩篇の中に見てまいりました。であるならば、この 祈りの言葉が私たちを連れていくのは、十字架に釘づけられたキリストのもと以 外のところではあり得ません。十字架のキリストのもとにこそ、罪深い私たちの 罪の赦しがあるからです。そして、十字架のキリストのもとにおいてこそ、私た ちは確かな一本の道、主の道を示されるのです。十字架を仰ぐ私たちは、こうし て主のまことへと導かれ、決して裏切ることなく、見捨てることのない真実なる 神に依り頼んで生きていくのです。

 「主よ、あなたの道をわたしに示し、あなたに従う道を教えてください。あな たのまことにわたしを導いてください」。アーメン。

 
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