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「苦しむ者の祈り」

2000年3月19日 灰の水曜日礼拝説教(2000年3月8日)
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 詩編6編

 詩編第6編は、一読して分かりますように、病に苦しむ人の祈りです。ある意 味において、病とは、死を免れぬ私たち人間の背負っている苦しみの代表と言え るでしょう。それゆえ、この詩は遠い昔に作られた、非常に個人的な詩でありな がら、実に私たちに身近なものとして迫ってまいります。ここに描かれている人 の姿は、私の姿ともなり、あなたの姿ともなるのです。

●怒ってわたしを責めないでください

2 主よ、怒ってわたしを責めないでください
憤って懲らしめないでください。
3 主よ、憐れんでください
わたしは嘆き悲しんでいます。
主よ、癒してください、わたしの骨は恐れ
4 わたしの魂は恐れおののいています。
主よ、いつまでなのでしょう。

 この歌は「主よ」という呼びかけで始まります。これは詩編の中に数ある 「嘆きの歌」の特徴です。この言葉は、苦難の中において、深い淵の底にお いて、なお人間には呼ぶことのできる方がおられるのだ、ということを示し ています。すべての人に見捨てられたような状態にあっても、誰からも分か ってもらえない苦しみであっても、私たちはそこから「主よ」と呼ぶことが できるのです。

 そして、この詩人は「怒ってわたしを責めないでください」と訴えます。 この「怒り」はただの怒りではありません。「激怒」を意味する言葉です。 神の怒りについては、例えば詩編90などにも語られています。人間は、そ の怒りの御前では、消え去るしかないのです。

 このように、苦難の中で人はへりくだる者とされます。「へりくだる者と される」ということは、自分が神の怒りにのみ相応しい者であることを知る ことです。実際、そうでなければ、人は自分が裁かれるべき罪人であるとは なかなか考えないものです。自分が本来行くべきところは地獄以外のどこで もない、とは考えないのです。心のどこかに、自分は少しは正しいと思って いるからです。本当に悪いのは他者であって自分ではないと思っているので す。

 この人は、苦難の中で、自らが裁かれるべき罪人に他ならないことを知り ました。それゆえ、もはやただ神に憐れみを訴え求めることしかできません。 「嘆き悲しんでいます」は、むしろ「弱りきっています」とも訳せます。こ こに語られているのは、もはや力が残っていない状態です。自分のもとには 頼れる何ものも残っていないことを認めているのです。「私がやりますから 助けてください」と言っているのではないのです。己の罪を知るということ は、もはや自分のうちに解決がないことを知るということに他なりません。 それゆえ「憐れんでください」と祈ります。これが神に向かう人間の本来の 姿です。

 これは主イエスも語られたことでした。「二人の人が祈るために神殿に上 った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。ファリサイ派 の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たち のように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人 のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の 十分の一を献げています。』ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上 げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんで ください。』言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、 あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる 者は高められる」(ルカ18:10‐14)。

 彼は、「主よ、憐れんでください」と訴えます。そして、「癒してくださ い」と祈るのです。彼は、まず自らの罪を認め、憐れみを求めます。神の愛 へ思いを向けます。そして、初めてその神の御手に自らの病をゆだねるので す。ただ「癒してください」としか祈らない人は、自分の病気にしか思いを 向けていないものです。

●主よ、立ち帰ってください

5 主よ、立ち帰り
わたしの魂を助け出してください。
あなたの慈しみにふさわしく
わたしを救ってください。
6 死の国へ行けば、だれもあなたの名を唱えず
陰府に入れば
だれもあなたに感謝をささげません。

 この国に信心を重んじる人は少なくありません。しかし、多くの人にとっ て大切なのは「信じる心」なのであって、信じる対象ではありません。相手 が誰であるか、相手が何を思っておられるか、を考えようとしないのです。 しかし、聖書の教える信仰はそうではありません。こちらがあって、あちら がある。この両者があって関係が成立するのです。たとえこちらが神を信じ ても、神様がこちらを向いてくださらなかったら関係は成立しないのです。

 神に背いたのは人間の方です。人間が勝手に背中を向けておいて、自分が 神を信じさえすれば、あるいは自分が悔い改めさえすれば、それだけで神と の関係が成り立つと考えるのは、まさに人間の自分勝手な思い上がりに過ぎ ません。そこで相手である神の心は少しも重んじられていないのです。

 この詩人は、そのような人ではありませんでした。彼は、神に向かって 「立ち帰ってください」と求めるのです。この人は、自分が悔い改めて、そ れで良しとしないのです。それですべてが解決したとは考えないのです。悔 い改めたのは、こちらのことです。しかし、それだけではどうにもなりませ ん。だから、神様に「帰ってきてください」と訴えるのです。見捨てないで くださいと嘆願するのです。こちらが悔い改めるから救われるのではありま せん。信じる心が人を救うのではないのです。救って下さるのは神様です。 だから神様に「帰ってください、顧みてください」と願うのです。

 そして明らかなことは、神様に帰っていただけるとするならば、神様に顧 みていただけるとするならば、それはもはや自分の功績や立派さによるので はないということです。苦難の中で自分の罪を認め、砕かれ、へりくだらさ れたこの人にはそれが分かるのです。神様が帰ってくださるとするならば、 それは神様の慈しみによるしかないのです。ですから彼は神様の慈しみに訴 えるのです。「慈しみに相応しく」とは「神様の慈しみのゆえに」という意 味です。「私の為してきた行いのゆえに、私の功績のゆえに、救ってくださ い」とは言わないのです。

 さらに6節において、彼の本当の恐れが何であるかが明らかにされます。 詩人はここで死を恐れています。しかし、彼にとって死を恐れることは、神 様と永遠に離れてしまうことへの恐れ以外の何ものでもありませんでした。 彼は、ただ死の苦しみを恐れているのではないのです。私たちは、一番恐る べきものが何であるかを知らなければ、生と死の問題に正面から向かうこと ができません。確かに人には多くの恐れがあります。災いを恐れます。病気 を恐れます。そして、死を恐れます。しかし、ただ「死そのもの」を恐れて いるだけの人には希望がありません。死だけを恐れている人は、必ず敗北す るからです。なぜなら、絶対死ぬからです。死を恐れているだけの人は、何 とか病気から直ろうとだけ努力します。しかし、直らないときが必ず来るの です。それは敗北でしかありません。しかし、この人は違います。この人の 恐れの中心は、神との関係の問題であるゆえに、なお希望があるのです。嘆 きの中にも希望があるのです。

●主はわたしの泣く声を聞かれた

7 わたしは嘆き疲れました。
夜ごと涙は床に溢れ、寝床は漂うほどです。
8 苦悩にわたしの目は衰えて行き
わたしを苦しめる者のゆえに
老いてしまいました。
9 悪を行う者よ、皆わたしを離れよ。
主はわたしの泣く声を聞き
10 主はわたしの嘆きを聞き
主はわたしの祈りを受け入れてくださる。
11 敵は皆、恥に落とされて恐れおののき
たちまち退いて、恥に落とされる。

 ここには再び嘆きの言葉が現れます。彼の病は確かに苦しみであるに違い ありません。しかし、彼の意識の中心にあるのは病そのものではなく、神と の関係であるから、彼は苦しみを神に訴えます。最初に「主よ」という訴え から始まったとおりです。自分の苦悩を神に言い表すことのできる人は幸い です。まさに、嘆きというのは、そのような人間の行為です。それはまた、 神の慈しみに身を委ねている人間の姿でもあります。彼は自分を怒りに相応 しい者として見ていました。しかし、彼は神の慈しみに身をゆだねるのです。 これまでに見てきたとおりです。そうするしかない自分であることを知って いるから、そうするのです。自分の努力によって神の好意を勝ち得ると思っ ている人は、慈しみに身をゆだねません。だから平安もないのです。苦しみ の中で、本当に神に訴えることができないのです。罪人が苦しみを神に訴え ることができる。そこに、既に救いがあるのです。

 それにしましても、7節の言葉はあまりにもオーバーな表現ではありませ んか。「涙は床に溢れ、床を溶かすほど。」しかし、これが真実な思いです。 だけれども人はこんなこと聞いてはくれません。しかし、神は聞き入れてく ださるのです。人が心を注ぎ出す時、神はそれを受けとめてくださるのです。

 そして、人はそのような祈りの中で変えられていくのです。神の慈しみに 委ね、神に向かって嘆くことを知るものは、そこで神との交わりを得、神が 祈りを受け入れてくださったことを知るに至るのです。そこで嘆きは賛美へ と変えられるのです。この世の嘆きはいつまで経っても嘆きのままかも知れ ません。しかし、神の御前にある嘆きは、嘆きのままで終わらないのです。 それは讃美と信仰の言葉へと変えられるのです。

 彼がここで語っているのは、すでに病が癒されたということでも、やがて 必ず癒されるということでもありません。彼が言い表しているのは、神が彼 の泣く声を聞いてくださる、嘆きを聞いてくださる、祈りを受け入れてくだ さる、ということです。すなわち、彼が言い表しているのは、神の慈しみそ のものへの揺るぎ無い信頼なのです。もしかしたら、彼の病は癒されなかっ たかも知れません。そのまま死んでいったかも知れません。しかし、「主は わたしの嘆きを聞き、主はわたしの祈りを聞き入れてくださる」と語り得る 人は、既に病にも死にも打ち勝っているのです。なぜなら、自らの罪を認め てへりくだる彼に、神との揺るぎ無い平和が与えられていることこそ、彼の 救いだからです。

 この神との平和が人間の功績によってではなく、神の慈しみによるという 事実は、後にキリストの十字架において明らかにされたのでした。私たちは 今、そのキリストの御受難を覚える受難節を過ごしております。この季節は、 私たちにとって特に悔い改めへと導かれる時でありますが、それはまた私た ちが本当に身を委ねるべき、神の慈しみを知る時でもあるのです。

 
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