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「真実の神、永遠の命」

2000年3月26日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生, 大阪のぞみ教会協力牧師 松原 茂
聖書 1ヨハネ5・13‐21

 ヨハネはこの手紙の初め1章3、4節に、彼がこの手紙を書き送る目的を書 いております。それはわたしたちがキリストの直弟子たちや、ヨハネが持って いる神の御子キリスト・イエスにある生けるまことの神との交わりにあずかり、 わたしたちがその喜びに満ちあふれるためでありました。

 今日学びます5章13節には「神の子の名を信じているあなたがたに、これ らのことを書き送るのは、永遠の命を得ていることを悟らせたいからです」と あり、もう一つの目的を明らかにしています。ヨハネ20章31節には「これ らのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じ るためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである」と、ヨ ハネ福音書の目的が記されています。

 5章13節「神の子の名を信じているあなたがたに」と強調して呼びかけら れている人たちは、みなキリスト者たちであります。ヨハネがこの手紙を書い た目的は「わたしたち(彼ら)の喜びが満ちあふれるようになるため」であり ました。イエスを神の子、キリストと信じ、彼の御人格と御業とに全的に信頼 し、より頼む者、彼を主、救い主として自分をゆだねる者は、永遠の命を持っ ているのである。ヨハネはそのことについてのゆるぎない確信を与えようとし ています。

 1章2節には、ヨハネは「永遠の命」を見たと言い、「御父と共にあった永 遠の命」が「わたしたちに現れました」と言っています。この「永遠の命」は 人となって世に来りたもうた神の子イエス・キリストのことです。先月学びま した5・11にヨハネは「永遠の命は神の子イエス・キリストの内にある」と 書いております。

 「永遠の命」とは神のいのちのことであります。信仰によってわたしたちは、 主イエス・キリストに接がれ、神のいのちにあずかっているのであります。こ のようにわたしたちは、主イエス・キリストに接がれ、悪が支配し滅びゆくこ の世にあっては、たえず世に打ち勝つ勝利の信仰者にふさわしく、御言葉によ ってますますキリストを知ることに熱心で、うむことなく、主に仕えていくこ とが大切であります。そして、「わたしたちは御子が現れるとき、御子に似た 者となる」(3・2)と、約束されているのです。

 今わたしたちはキリストを知ることの知識が不十分でありましても、小さな キリスト信仰でありましても、けっして失望しないようにしてください。祈り は聞かれているのです。既にイエス・キリストのみ名によって永遠の命を得て いることを感謝しましょう。信じる者に、このゆるぎない確信、御子に結ばれ ている確信を与えてくださっていることをヨハネは次のように言っています。 「何事でも神の御心に適うことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れて下さ る。これがわたしたちの確信です」と語っています。

 「神に対するわたしたちの確信」(5・14)、このみことばは、「我らの 心我らを咎めずば神の御前で確信を持つことができ、神に願うことは何でもか なえられます」(3・21)と同じ意味のみことばであります。何度も、わた したちは小さなわたしの日常のわたしたちを見て、そして、この世におけるわ たしたちの足もとに広がる荒れ狂っている波風を見たとき、思わずおぼれそう になることを体験いたします。そのとき、目の前に来てくださっている主イエ スに「主よ、助けてください」と叫んで、さし出されるイエスのみ手に捕まえ られましょう。神の御心に適うことを何事でも祈り求めるなら、願い事を何で も適えてくださる確信を持って大胆に願い求めてまいりましょう。

 さて、次に「死に至る罪」「死に至らない罪」について書かれています。1 6、17節には、兄弟の執り成しの祈りについてしるされています。「死に至 らない罪を犯している兄弟を見たら、その人のために神に願いなさい。……不 義はすべて罪です」とあります。わたしたちは常に主の祈りを唱えています。 「我らに罪を犯す者を、我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ」と。

わたしたちは、自らを含めて、罪を犯している兄弟のために執り成しの祈りを するようにとヨハネはすすめています。

 神は神の愛を信じ、愛にたいする従順をもって願い求めるわたしたちの願い をおききくださるのであります。死に至らない罪を犯している兄弟姉妹の救い のために、わたしたちは教会において祈っています。わたしたちはキリストの 体として、キリストにある兄弟の交わりの中で、全体の救いのために、みんな が互いに心を合わせて教会での執り成しの祈りを継続していくことの大切さを ヨハネは教えているのです。

 わたしたちは、キリストの御血潮によってあがなわれているわたしたちの兄 弟姉妹がわたしたちの目の前で滅んでいくのを見すごしにせず、神のみ前に大 胆に出て、その兄弟姉妹の救いのために祈りましょう。何事でも神の御旨、主 の御心に従って願い求めるなら、その願いを聞き入れてくださる神は、死に至 らない罪を犯している兄弟姉妹のためにわたしたちの願いをおききくださり、 その兄弟姉妹に「命をお与えになり」兄弟姉妹を滅びから救って、命へと導い てくださるのであります。

 わたしたちは2章9節を学びました。そこには「『光の中にいる』と言いな がら、兄弟を憎む者は、今もなお闇の中にいます」と言っています。兄弟が罪 を犯すのを見ていながら、その兄弟が主に立ちかえるようにと祈らないとすれ ば、それは、その兄弟を捨てたことになります。その兄弟のための執り成しの 祈りこそ、イエス・キリストにある者のあるべき姿であると教えています。

 5章14、15節「何事も神の御心に適うことを願うなら、神は願った事は 何でも聞き入れてくださる。そして、既に適えられていることも分かります」 とヨハネは語っています。わたしたちの願い求めることは何でも聞き入れてく ださる神は、罪を犯している兄弟のための執り成しの祈りをも聞き入れてくだ さるのであります。

 なお、ここで言われている「死に至らない罪」「死に至る罪」とは人間の量 りで計れるものではありません。「罪の支払う価は死である」(ローマ6・2 3)とあります。それでは「死に至る罪」として考えられる御言葉としてはヘ ブル6章4‐6節の聖句をごらんになってください。「一度光に照らされ、天 からの賜物を味わい、聖霊にあずかるようになり、神のすばらしい言葉と来る べき世の力とを体験しながら、その後に堕落した者の場合には、再び悔い改め に立ち帰らせることはできません。神の子を自分の手で改めて十字架につけ、 侮辱するものだからです」。

 「すべて神から生まれた者は罪を犯しません」(5・18)。悪魔はわたし たちに対していつもあらゆる機会をねらって激しく攻撃してきます。「身を慎 んで目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子の ように、だれかを食い尽くそうと探し回っています」(1ペトロ5・8)。わ たしたちを罪にひきずりこみ、わたしたちを滅ぼすためにサタンは、わたした ちに迫っているのであります。しかし、「神から生まれたかた」が「神から生 まれた者」を守っていてくださるのです。わたしたちがもし自分で自分に与え られた救いを守ろうとするなら、わたしたちはみじめな、貧弱な守りしかもっ ていないので悪の霊を防ぐことは困難であります。わたしたちは神から生まれ たかたに守られている中で、自分を罪から守るために、悪しきものと戦うので あります。

 少年ダビデは拾った五つの小石をもって、ゴリアテを倒しました(サムエル 上7章)。ダビデは小さな武器で敵に立ち向かったとき、神がその大能をもっ て戦われたのでありました。まことにゴリアテを倒したのは神でありました。 わたしたちは「神から生まれた方」の守りの中で、自分を罪から守るために、 罪と戦うのであります。「神から生まれた方」がわたしたちを守ってくださる から悪魔はわたしたちにけっして死をきたらせるような害を加えることはない のです。「すべて神から生まれた者は罪を犯しません」(5・18)というの は「神から生まれた方」がわたしたちを守ってくださるからであります。

 わたしたちは悪魔との戦いで無傷であることはできません。毎日のように手 傷を負います。悪魔よりも絶対的な力をお持ちの神の御子イエス・キリストの 守りがありますから、悪魔による手傷を受けましても致命的な罪に陥ることは ないのであります。キリスト者の勝利は御子キリストにあって守られているの であります。

 「わたしたちは神に属する者ですが、この世全体が悪い者の支配下にあるの です」(5・19)。イエスは「わたしはまことのぶどうの木」とおっしゃい ました。わたしたちは、このまことのぶどうの木(永遠の命)につながれてい ます。したがって、この世全体が悪い者の支配下にありましても、ぶどうの木 である命につながっていることを知っています。

 「わたしの国籍は天にあります」(フィリピ3・20)。真の救いの福音伝 道の召命は、世と教会の区別を明確にすることなくしては、伝道はできないの であります。世はサタンの支配下にあるものとして、わたしたちは神から生ま れた者、キリストにつく者として、その境界を19節は、はっきりさせていま す。ここにわたしたちが隣人に救いの福音を語らなければならない理由が示さ れているのです。この世全体が悪魔の支配下にあること。わたしたちはこの世 からイエス・キリストを通して神に召し出されたものであることを聖書は明確 に語っています。

 今日のキリスト者の問題は、世と神との区別がぼやけていることの中にあり ます。「神に属する者は、神の言葉を聞く。あなたがたが聞かないのは神に属 していないからである」(ヨハネ8・47)。地上にある教会は、この世との 区別が神によって鮮明にせられているのであります。

 「わたしたちは知っています。神の子が来て、真実な方を知る力を与えてく ださいました。わたしたちは真実な方の内に、その御子キリストの内にいるの です。この方こそ、真実の神、永遠の命です」(5・20)。「言は神であっ た」方、神の御子が受肉して、イエス・キリストとして、子なる神として、わ たしたちの間に来られた(ヨハネ1・1-18)。そして、わたしたちがイエ スキリストにおいて神を見、イエス・キリストにおいて神を知ることができる ように、わたしたちの知性に霊的知力を与えてくださいました。

 イエス・キリストが神であることを否定する者がいます。それは、この世ば かりではありません。キリスト者といわれる者の中にもいます。この手紙の中 でヨハネは、このようなものを反キリストであり、偽り者であると呼んでいま す。わたしたちはイエス・キリストにおいて父なる神を見、創造主なる神を知 り、主なる神との交わりに入れられ、そして、永遠の命を得ているのでありま す。まことに、わたしたちはイエス・キリストを他にして神を知ることはでき ません。また知ろうといたしません。この世の中にどのように「神」と呼ばれ るものが沢山ありましょうとも、イエス・キリストによって啓示された隠れた るにいたもう神の他に神はありません。今わたしたちはヨハネを通してこのこ とを知る者とされているのであります。主イエス・キリストこそ「真実の神、 永遠の命です」(5・20)と、大胆にヨハネは・ヨハネの手紙のメッセージ を終えるにあたって、わたし共に告げているのであります。

 さて、この手紙の終わりのことばとして「子たちよ、偶像を避けなさい」 (5・21)とあります。聖書では偶像礼拝が姦淫であるといわれています。 エレミヤ、ホセア、エゼキエルは激しく偶像礼拝を告発しました。「(偶像礼 拝の罪を犯し続けているこの世)全世界に行って、すべての造られたものに福 音を宣べ伝えなさい」(マルコ16・15)。

 「神を礼拝せよ」(黙示録19・10,22・9)。

 
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