「死から命へ」
2000年4月2日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 エフェソ2・1‐10
新年度に入りました。この四月に入学した人、あるいは進級した人がおられ ることでしょう。あるいは職場の変わった人や転居された方もおられることで しょう。多くの人が生活の変化を経験するこの時期です。このような一つの区 切は、自分自身とその生活を見つめ直す良い機会でもあろうかと思います。そ のような時期にある私たちに、今日与えられている御言葉は、エフェソの信徒 への手紙2章です。特に、10節の言葉を共に受け止めたいと思うのです。そ こにはこう書かれております。
「なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって 準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたから です。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです」(エフェソ2・10)。
なんと素晴らしい言葉ではありませんか。私たちは、偶然的に発生し無意味 に消えていくような存在ではないのです。私たちは神によって造られたものだ と聖書は教えているのです。「造られた」ということは、そこに神の意思が介 在していることを意味します。神が私という存在を望まれました。神が望まれ たゆえに、そこには神の目的があります。神が前もって準備してくださった善 い業のために、私たちは造られたのです。この新しく始まった年度においても そうです。神が前もって準備してくださっている善い業があるのです。私たち が男であろうが女であろうが、若かろうが年老いていようが、能力があろうが なかろうが、元気であろうが病気であろうが、神は私たちに目的をもっておら れ、私たちの前に行うべき善き業を用意してくださっているのです。それは、 いわゆるこの世で言う「善行」ではありません。人の評価とも無関係です。神 がその人に望んでおられること、それがその人に準備されている善い業です。
「わたしたちは、その善い業を行って歩むのです」とパウロは言いました。 私たちも、このパウロの言葉に対して「アーメン」と言って生きていきたいと 思います。これこそ、救われた者の歩みに他ならないからです。そこで、私た ちは、ここから始まります日々において、与えられています御言葉のように生 きていくためにも、キリストによって私たちに与えられている救いの恵みをも う一度深く心に留めたいと思うのであります。
●罪のために死んでいた者
それでは1節をご覧ください。そこにはこう書かれています。「 さて、あな たがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです」(1節)。
「あなたがたは以前は死んでいたのです」という言葉は、日常生活において は耳にしない言葉です。ここで語られているのは、明らかに、生物学的な肉体 的な死のことではありません。では、どのような意味において「死んでいた」 と言われているのでしょうか。この言葉で思い起こしますのは、主イエスの語 られた一つのたとえ話です。「放蕩息子のたとえ」と呼ばれるものです。ルカ による福音書15章11節以下に記されています。良く知られている話ですの で、あらすじを簡単に述べるに留めます。
ある人にふたりの息子がありました。そのうちの弟の方が、ある日、父親に 言うのです。「お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をくだ さい」。それから幾日もたたないうちに、弟は自分の分を取りまとめて父のも とから旅立ってしまいました。そして、父から遠く離れたところで彼は放蕩に 身を持ちくずして財産を使い果たしてしまうのです。彼は何もかも浪費してし まいました。すると、折悪く、その地方が飢饉に見舞われます。食べるものが ありません。彼は豚を飼う仕事にやっとありつきました。彼は豚の餌をたべた いと思うほど惨めな状態になりました。その時初めて、彼は父親を思い起こす のです。そして、父親のところに帰ろうと思うのです。彼は長い旅をして父の 家が見えるところまでやってまいりました。すると、まだ家は遠く離れていま したのに、なんと父親が彼を認めて走ってくるではありませんか。父は戻って 来た彼を既に赦しているのです。そして首を抱いて接吻し、僕たちに命じて祝 宴を開かせるのです。
これは先にも申しましたように、しばしば「放蕩息子のたとえ」と呼ばれま す。しかし、問題は彼が放蕩に身を持ち崩したことではありません。愛する父 親のもとから離れてしまった、ということです。放蕩はその結果のひとつに過 ぎません。
ところで、この物語には続きがあります。お兄さんが怒るのです。お兄さん は優等生です。ですので、今さらのこのこ帰って来た弟のために牛をほふって 祝宴を開くという父親の気持ちが理解できません。しかしその時、父親は兄を なだめてこう言います。「だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。 いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前 ではないか」(ルカ15・32)。
「死んでいたのに生き返った」と父親は言います。弟は死んではいません。 放蕩していただけです。生きていました。しかし、父親から見るならば、彼は 死んでいたのです。父との交わりの中にいなかったからです。父親との関係に おいて死んでいたのです。
お分かりになりますでしょうか。パウロが語っているのも、このことなので す。「私は確かに生きている」と人は言うかも知れません。しかし、あの弟の ように、神の愛に背を向け、神から離れ、神との交わりを失っているならば、 神の目から見て死んでいるのです。神の目から見て死んでいるならば、確かに 死んでいるのです。霊的には死んでいるのです。それをパウロは「自分の過ち と罪のために死んでいた」と表現しているのです。
そして、人が霊的に死んでいるならばその事実は表に現われてくるものです。
パウロは2節以下で次のように語っています。「この世を支配する者、かの空 中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊に従い、過ち と罪を犯して歩んでいました。わたしたちも皆、こういう者たちの中にいて、 以前は肉の欲望の赴くままに生活し、肉や心の欲するままに行動していたので あり、ほかの人々と同じように、生まれながら神の怒りを受けるべき者でした 」(2‐3節)。
生きている魚は川の流れに逆らって上ります。死んでいる魚は川の流れに流 されます。同じように、霊的に死んでいるならば、この世の大きな流れに流さ れてしまいます。「この世を支配する者」とか「空中に勢力を持つ者」と呼ば れているのは、他で「悪魔」(6・11)と呼ばれている存在です。人間を超 えた力を持つ者です。それを悪魔と呼ぶにせよ、何と呼ぶにせよ、人は確かに 自分を超えた力によって引きずりまわされるようなことをしばしば経験いたし ます。そうです、この世界には、人間を罪へと押し流していく力が確かに働い ているのです。
「そのように、あなたたちは過ちと罪とを犯して歩んでいたのだ」とパウロ は言います。そしてさらに「わたしたちも皆…」と続けます。彼は戒律の厳し いユダヤ人社会で生きてきたのです。表面的には、秩序正しい、真面目な生活 をしてきたのでしょう。しかし、彼は驚いたことに、自分たちも例外ではない と認めるのです。「肉の欲望の赴くままに生活し、肉や心の欲するままに行動 してきたのだ」と言うのです。戒律は、この肉の欲の支配力から彼を解放する ことはありませんでした。霊的に死んでいるなら、罪へと引き行く肉の欲の力 に支配されてしまうのです。
●キリストと共に生かされて
さて、このようにパウロは、「あなたがた」と「わたしたち」について語っ てきました。聖書は非常に正直に人間の現実を語ります。そのような「あなた がた」と「わたしたち」だけであるなら、この人生にもこの世界にも全く希望 はありません。しかし彼は、さらにこう続けるのです。「しかし、憐れみ豊か な神は…」。ここに聖書の語る希望があります。4節以下をご覧ください。 「しかし、憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その 愛によって、罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、―― あなたがたの救われたのは恵みによるのです――キリスト・イエスによって共 に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました」(4‐6節)。
憐れみ豊かな神がおられます。霊的に死んでいる者を再び生かしてくださる 憐れみ豊かな神がおられるのです。「憐れみ」とは、愛を受けるに値しない者 になお向けられる神の愛のことを意味します。引越しの多いこの時期には、あ ちらこちらで粗大ゴミを見かけますでしょう。新品同様のモノであっても捨て られているのを見かけることがあります。このような時代に、故障した製品を 一生懸命修理して使う人は少ないのでしょう。使えなくなったモノは捨てられ てしまうものです。しかし、神はそうなさいませんでした。神に背を向け、神 から離れ、本来のあるべき姿を全く失ってしまった私たちを、神は捨ててしま われなかったのです。霊的に死んだ者、使えなくなった粗大ゴミに等しい私た ちを、神はなお愛してくださいました。「この上なく愛してくださった」と聖 書は語るのであります。そして、そのような私たちを再び生かし、その手に取 って用いようとされたのであります。これが神の憐れみです。
神の憐れみは、人間の歴史の中において具体的な姿を取りました。神はその 憐れみによってキリストを遣わされたのであります。神はその憐れみによって、 私たち全ての者の罪を、この独り子の上に負わせられました。神は、キリスト において罪を処断され、私たちを赦してくださいました。過ちと罪とによって 死んでいたのですから、キリストによって贖われ、罪を赦されて、人は死から 命へと移されるのです。神から離れ、神との愛の交わりを失って死んでいたの ですから、神との愛の交わりの中に回復されて、人は甦るのであります。そう です、人はキリストによって甦ることができるのです。どんな人でもキリスト にあって新しい命に生きることができるのです。
ヨハネによる福音書の11章には、ラザロという人をキリストが甦らせたと いう奇跡物語が書かれています。死んで4日経ってもう臭くなっていたような ラザロをキリストは再び生かしたのです。「そんなことがあるものか」と言う 前に考えてみてください。死んで腐って、それこそ腐臭を放っているあのラザ ロの姿は、まさに罪によって死んでいる人間の姿そのものではありませんか。 しかし、罪によって死んで腐ってしまっているような者が、神の憐れみによっ て甦るのです。そうです、そのような憐れみ深い神であるからこそ、私たちも また、神との交わりの中に回復されたのであります。パウロはこれを「キリス ト・イエスにによって共に復活させてくださいました」(6節)と表現してい ます。私たちに与えられている復活です。いや、それだけではありません。 「共に天の王座に着かせてくださいました」と言うのです。キリストが天の王 座に着いているのは分かります。しかし、神は私たちをも、そのように天に連 なる者として見てくださるのであります。もちろん、私たちは地上に生きてい る者です。しかし、神との交わりにあって、私たちは天に属する者とされてい るのです。
そこで大切なことは、すべてが神の憐れみによるのだ、ということです。人 間の行いに対する報酬ではありません。ですので、パウロはこう言うのです。 「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、 自らの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。そ れは誰も誇ることがないためなのです」(8‐9節)。恵みによる賜物である ならば、人の為すべきことは、ただ感謝して受け取ることだけです。神との交 わりの生活、新しい命に生きる生活は、ただ感謝して受け取るべき神の賜物で す。
そのように救いを神の賜物として受け取った者に対して語りかけられている のが最初に読んだ10節の言葉です。善い業を行って歩むから救われるのでは ありません。そうではなく、神が前もって準備してくださっている善き業を行 って歩む生活自体が、神の憐れみによって与えられた神の賜物に他ならないの です。それゆえ、私たちは、こうして与えられている神と共に生きる生活を感 謝をもって受け止め、「わたしたちは、その善い業を行って歩むのです」とい うこの言葉にアーメンと応えて、この新しい年度を歩み始めたいと思うのであ ります。