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「一粒の麦」

2000年4月9日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 ヨハネ12・20‐33

 今日お読みしました聖書箇所の中、特に心に留めたいのは12節です。そこ はこう書かれております。「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死 ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」。さて、主 のこの言葉は、どのような場面において語られたのでしょうか。少し遡って、 まずそのことを考えてみましょう。12章12節以下をご覧ください。

 群衆が熱狂してイエス様を迎えました。その時にかれらは「なつめやしの枝 を持って迎えに出た」(12・13)と書かれています。なつめやしの枝と訳 されている植物は、辞典によりますと、地中海沿岸地方やヨルダンの低地に生 えているものでありまして、エルサレム近郊の高地には生えていないのだそう です。ということは、彼らはたまたまその辺に生えていた枝を取ってきてそれ を手に持っていたというのではないのです。明らかにこれは一つの象徴的な意 味を持っている行為です。それは、ある歴史的な出来事と関係しているのです。

●群集の求めていたもの

 紀元前2世紀、ユダヤ人たちはシリアの支配下にありました。そして、特に アンティオコス4世という王が統治していた時、彼らは大変な迫害を受けたの です。聖書は焼き払われ、割礼は禁じられ、エルサレムの神殿は偶像の宮にさ れました。彼らはそこで、豚を犠牲として捧げることをさえ強要されたのです。

抵抗した人々が多く殉教の死を遂げました。そのような状況のもと、ついにシ リアに対する反乱が起きたのです。それを指導したのはハスモン家という祭司 の一族でした。やがて、その一人ユダ・マカバイオスという人物が率いる一軍 がシリアを破り、エルサレム神殿を奪回するに至ります。その時のことが旧約 聖書外典の第二マカバイ記(続編付新共同訳聖書に含まれています)にこのよ うに記されています。「彼らは、テュルソス、実を付けた枝、更にはしゅろの 葉をかざし、御座の清めにまで導いてくださったお方に賛美の歌をささげた」 (2マカバイ記10・7)。このしゅろというのが、さきほど出てきたなつめ やしのことです。

 その後、ユダヤ人は再び神殿を失うのですが、今度はユダの兄であるシモン が神殿を取り返します。その時にも、このように書かれています。「シモンと その民は、歓喜に満ちてしゅろの枝をかざし、竪琴、シンバル、十二弦をなら し、賛美の歌を歌いつつ要塞に入った」(1マカバイ記13・51)。

 さて、このように、しゅろの枝、なつめやしの枝というものは、ユダヤ人の 民族独立と解放の記憶と深く結びついていたのです。しかし、その独立は長く は続きませんでした。シモンがエルサレムを奪回して後、百年足らずで、再び ユダヤ人は大国の支配下に落ちてしまったのです。ポンペイウス率いるローマ 軍によってエルサレムは再び征服されてしまったのです。

 時が流れて主イエスの時代、未だローマの支配下にあるユダヤ人たちがなつ めやしの枝を持って主イエスをエルサレムに迎え入れました。あの独立と解放 の象徴であるなつめやしの枝を振りながら主イエスを歓喜の声をあげて迎えた のです。これは何を意味するのでしょうか。もうお気づきのことと思います。 そうです。彼らはユダ・マカバイオス、シモン・マカバイオスのような解放者 を求めていたのです。それが彼らのメシア待望と一緒になって、熱狂を生み出 していたのです。彼らにとってメシアとは力をもって独立と解放を勝ち取って くれる王に他ならなりませんでした。このナザレのイエスという方にはそれだ けの力があると彼らは信じているのです。なぜなら彼らは奇跡を見、またその 噂を聞いたからです。「イエスがラザロを墓から呼び出して、死者の中からよ みがえらせたとき一緒にいた群衆は、その証しをしていた。群衆がイエスを出 迎えたのも、イエスがこのようなしるしをなさったと聞いていたからである」 (17‐18節)。

 しかし、このように主イエスを政治的な解放者としての王としようとする動 きは、ここにおいて初めて起こったわけではありません。以前、パンの奇跡を 行った時にも、群衆はイエス様をとらえて王にしようとしたのでした(6・1 5)。その時、主は山に退かれたのです。ここでも主イエスは群衆の求めてい るような王ではないことを明らかにするために、一つの象徴的な行為に出まし た。ろばの子を見つけて乗ったのです。それはゼカリヤ書の言葉に基づく行為 でした。「シオンの娘よ、恐れるな。見よ、お前の王がおいでになる、ろばの 子によって。」これは原文どおりの引用ではありませんが、ゼカリヤ9章9節 からの引用です。実は、ゼカリヤ書ではそれに続いて次のように書かれている のです。「わたしはエフライムから戦車を、エルサレムから軍馬を絶つ。戦い の弓は絶たれ、諸国の民に平和が告げられる。」

 群衆は力をもって、戦ってくれる王、独立と解放を勝ち取ってくれる王を求 めたのでした。しかし、イエス様はあえてろばに乗られることによって、ご自 分はそのようなメシアではないことを示されたのです。

●主が与えようとしていたもの

 群衆の求めるものと、主イエスが与えようとしているものはいつも決定的に 食い違っていました。悲しいかな、それが十字架に至るまで続くのです。やが てこれらの群衆が「十字架につけよ」と叫ぶのです。自分勝手な願望が成就し ないと、期待は容易に敵意に変わるものです。

 主イエスが与えようとしておられたのは、ただ一民族の政治的な独立ではあ りませんでした。そうではなくて、ユダヤ人のみならず、すべての人が根本的 に必要としている救いなのです。そのことが象徴的に明らかにされる出来事が 起こりました。イエス様のもとに異邦人であるギリシャ人が来たのです。彼ら はフィリポに頼みました。「お願いです。イエスにお目にかかりたいのですが。 」これは主イエスにとっても重大な時を知らせる出来事でありました。ここで 初めて主イエスは「時が来た」と言われるのです。それは主にとって最後の決 定的な時が来たことを告げる出来事だったのです。すなわち、人々が期待する ようなユダヤ人の救い主としてではなくて、ギリシャ人を含めすべての人の救 いのために、その使命を全うすべき時が来たということであります。

 イエス様はその時を指して「人の子が栄光を受ける時が来た」と言われまし た。しかし、この言葉の真意はなかなか理解し難かったと思います。ある意味 では、この言葉こそ、まさに群衆も弟子たちも求めていた言葉だったからです。

ついに王となる時が来た。そのように弟子たちは聞いたかもしれません。いず れにせよ、主イエスが栄光を受けるというのですから、弟子たちは、自分たち もその栄光に与ることができると思っていたことでしょう。しかし、その次に まったく予想もしていなかった言葉が続いたのです。「はっきり言っておく。 一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば多く の実を結ぶ」(24節)。

 地に落ちて死ぬということは、実に惨めなことです。栄光を受けることと、 地に落ちて死ぬことは正反対です。しかし、そのまさに正反対の言葉の中に主 イエスの真意がありました。主イエスにとって、栄光を受けるとは単に王とな ってあがめられることではありませんでした。そうではなくて、一粒の麦とし て地に落ちて死ぬことだったのです。主は自らが王となって支配する時が来た、 と言っているのではないのです。この世の栄光を目の前にしながら、自分が死 ぬべき事、しかも十字架の上で惨めに死ぬべきことを語っておられるのです。 そうして初めて実を結ぶ――イエス様はそのような十字架の出来事を「栄光」 と呼ばれたのでした。そして、すべての人の救いをもたらすために、そのよう な実を結ぶために、これは避けられないことだったのです。

 人々はかつてユダ・マカバイオスがもたらしたような政治的解放を求めまし た。それは彼らにとって救いだったでしょうが、その解放は再び武力によって 失われてしまいました。力によって得られたものは、力によって失われます。 彼らは自分たちが本当に必要としているものを知りませんでした。彼らの本当 の問題は政治的な独立を失っていることではありませんでした。そうではなく て神を失っていることだったのです。神との正しい関係、神との交わりを失っ ていることだったのです。人間にとって本当の問題は外的な支配や重荷ではあ りません。人が罪を犯して神を離れ、神との関係を失っていることなのです。 神との交わり、神の命を失っていることなのです。

 それは二千年後の私たち、現代人においても同じです。この世界には問題が 満ちています。環境問題、教育問題、高齢化社会の問題、広範囲に渡るテロと 戦争の危機…。私たちの身近な家庭の中にも問題が満ち満ちています。もちろ ん、様々な問題と真実に取り組むことは大切です。しかし、往々にして私たち は、ただそれらの問題が解決され、もろもろの重荷やくびきから解放されさえ すれば、人は救われると考えてしまうのです。皆さん、そうではありません。 そもそも外的な重荷がなくなるなんてことはあり得ません。そして、根本的な 問題はそこにはないのです。人は単に外的な重荷を取り除かれて救われるので はありません。人は神に立ち返り、神の赦しを受け、神との真実な交わりに生 きるのでない限り、救われることはないのです。エレミヤ書に、「わたしは彼 らの嘆きを喜びに変え、彼らを慰め、悲しみに代えて喜び祝わせる」(31・ 13)という言葉が出てきます。そのように言われる方、真実なる神との関係 を回復しなくては、人は救われないのです。それこそが、ユダヤ人であれ、ギ リシャ人であれ、日本人であれ、すべての人が必要としている救いなのです。

 そのために必要だったのは、主イエスが王となり政治的解放者となることで はありませんでした。すべての人の罪を背負い、罪のあがないの小羊として、 罪の裁きを代わりに受けて、十字架において惨めに死んでいくことだったので す。まさに、その一粒の麦になろうとしておられたのです。そして、確かに、 地に落ちた一粒の麦は多くの実を結んできたのです。今もその実りに与ること ができるのです。あのお方の死によって、罪の赦しと永遠の命をいただくこと ができるのです。そして永遠に神との交わりに生きることができるのです。

 そして、その一粒の麦の死による救いに与った者には、キリストによる方向 付けが与えられ、キリストによるまったく新しいライフ・スタイルが与えられ るのであります。主イエスはさらにこう言われました。「自分の命を愛する者 は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至 る。わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいる とことろに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、 父はその人を大切にしてくださる」(25‐26節)。

 愛することと憎むことを並べるのはユダヤ的な表現です。私たちが愛する、 憎むというのと若干ニュアンスが違います。これは要するに選択の問題なので す。「愛する」とは選ぶことをであり、「憎む」とは選ばないことを意味しま す。つまり、「命を愛する」とは「自分の命の方を選びとる」ということです。

それは自分の命を第一とすることです。言い換えるならば、自分を第一にする ということです。自分をひたすら喜ばせ、自分を満足させ、自己実現をひたす ら追い求めることに他なりません。簡単に言えば、自分の満足や幸福を最大の 目標として生きることであります。逆に「自分の命を憎む」とは、自殺願望の 事ではありません。自分の満足と幸福を至上の目的とする人生を選ばないとい うことであります。

 自分の幸福、自分の願いの実現こそ、自分の命を全うすることだと考えてい る人は、命に向かっているのではなくて、滅びに向かっているのです。それは、 実は、私たちが見るところにおいても明らかではないでしょうか。自分の満足 と幸福だけをひたすら追い求めている人が、現実にはなんと多くの悩みを負い、 妬みや憎しみに捕らわれ、罪に振り回されて惨めな人生を歩んでいることでし ょうか。その行き着く先が永遠の命でないことは明かです。逆に、この世で自 分の命を選び取らない人は永遠の命に至ると言われるのです。

 しかし、これは単に歯を食いしばってひとり自己否定に生きるということで はありません。主はそのようなことを求めておられるのではありません。主が 求めておられるのは、私たちが主と共に生きることに他ならないのです。「わ たしに仕えようとする者は、わたしに従え。」そう主イエスは言われます。主 にひたすらついて行くのです。離れずについていくのです。そして、私たちを 愛し、私たちを救うために一粒の麦となられた方、地に落ちて多くの実を結ば れたこの方に導かれて、私たちもまた一粒の麦にならせていただくのでありま す。それは、古代の教会においては殉教を意味しました。多くの殉教者の血が 流されて、福音が実を結んでいったということを私たちは知っています。しか し、一粒の麦となるということは、何も殉教することだけではありません。私 たちは置かれたそれぞれの状況において、一粒の麦のなることができるはずな のです。

 
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