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「ロバに乗るイエス」

2000年4月16日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 マルコ11・1‐11

 過越祭が近づいていました。多くの人々がエルサレムに上ります。主イエス もまた、弟子たちと共にエルサレムに向かっておられました。しかし、主は単 に巡礼のためにエルサレムに向かっておられたのではありません。マルコによ る福音書10章32節にはこう書かれております。

 「一向がエルサレムへ上って行く途中、イエスは先頭に立って進んで行かれ た。それを見て、弟子たちは驚き、従う者たちは恐れた」(10・32)。

 主のご様子はいつもと違っておりました。その御顔には、ただならぬ決意が ありありと現れていたに違いありません。誰も主にその理由を問う者はありま せんでした。皆はその主のご様子を見てただ恐れを覚えるばかりでした。その ような弟子たちを集めて、主はこう言われたのです。

 「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は祭司長たちや律法学 者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。異邦人は人 の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す。そして、人の子は三日の後に 復活する」(10・33‐34)。

 主は、このように自分の身に起ころうとしていることを弟子たちに語られた のです。主がそのようにご自分の受難について語られるのは、これが最初では ありませんでした。この福音書においては、これが三度目です。弟子たちはあ えてこの主の言葉に心を留めないようにしていたのかも知れません。弟子たち にとって、主が殺されるなどということは、考えたくもないことだったに違い ないからです。しかし、その主は、弟子たちが恐れを覚えるほどに決然とした ご様子で、エルサレムに歩みを進めておられたのであります。

 今日の聖書箇所は、その主イエスが都に近づき、到着したときの出来事を伝 えております。私たちは、この箇所を、主が繰り返し語られた受難の予告と切 り離してはなりません。主は、殺されるために、エルサレムにまで来たのです。

主は、殺されに行くために、子ろば求められたのです。主は、十字架へと向か うために、子ろばに乗られたのです。主は、引き渡され、死刑を宣告され、侮 辱され、唾をかけられ、鞭打たれ、殺されるために、人々の歓呼の声がこだま する中を進み行かれたのであります。私たちは今日、その意味するところを、 今一度深く考えたいと思うのです。

●主がお入り用なのです

 初めに1節から6節までをお読みいたします。「一行がエルサレムに近づい て、オリーブ山のふもとにあるベトファゲとベタニアにさしかかったとき、イ エスは二人の弟子を使いに出そうとして、言われた。『向こうの村へ行きなさ い。村に入るとすぐ、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが 見つかる。それをほどいて、連れて来なさい。もし、だれかが、「なぜ、そん なことをするのか」と言ったら、「主がお入り用なのです。すぐここにお返し になります」と言いなさい。』二人は、出かけて行くと、表通りの戸口に子ろ ばのつないであるのを見つけたので、それをほどいた。すると、そこに居合わ せたある人々が、『その子ろばをほどいてどうするのか』と言った。二人が、 イエスの言われたとおり話すと、許してくれた」(1‐6節)。

 ここには奇妙なアンバランスがあります。一方において、主は王として振舞 われます。「主がお入り用なのです」。そう言えば、事は済むのです。「主が お入り用なのです」と言いなさい、と命じられた主の言葉には権威があります。

王としての権威があります。この福音書は「神の子イエス・キリストの福音の 初め」(1・1)という言葉で始まりました。そして、その神の子イエス・キ リストは、今やまことの王としてエルサレムに入城しようとしておられます。 確かに、王としての姿こそ、神の子には相応しいと言えるでしょう。

 ところが、王としての権威をもって弟子たちを遣わされた主イエスが求めて おられるのは、なんと一頭の子ろばであったと福音書は教えているのです。王 がお入り用であったのは、まだ誰も乗ったことのない子ろばでありました。神 の子が王としてエルサレムに入城するに際して必要とされたのは、一頭の借り 物の子ろばでありました。そして、それはあくまでも借りるのでありますから、 返すことを約束されるのです。考えれば考えるほど、奇妙に思えてきます。

 しかし、この奇妙なアンバランスこそ、まさにかつて預言者が語った言葉の 実現に他なりませんでした。ゼカリヤ書9・9には次のように記されています。

 「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あ なたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者、高ぶることなく、ろば に乗って来る、雌ろばの子であるろばに乗って」(ゼカリヤ9・9)。

 この「高ぶることなく」という言葉は、単に「謙遜である」という意味では ありません。詩編10編など多くの箇所ではむしろ「貧しい」と訳されていま す。富んだ者たち、傲慢な者たちに苦しめられる貧しい者の惨めさを表す言葉 です。さらに強く訳すならば、「惨めな」あるいは「みすぼらしい」とも訳せ るような言葉です。それが来るべき王の姿だと、ゼカリヤは預言しているので す。

 まことの王なる神の御子は、貧しき姿でエルサレムに向かわれたのでした。 その御姿こそ、最も貧しい死に様、十字架における最も惨めな死に様へと向か う主の姿に他なりませんでした。そして、それが預言の成就であるということ は、そこに神の御心があったことを意味いたします。父なる神がそのことを良 しとされたのです。神が、御子の死を、十字架上における惨めな死を望まれた のです。そして、主は父なる神への愛のゆえに、その御心に従おうとしておら れたのであります。

 このように、主イエスは、エルサレムにおける権力者との衝突のゆえに結果 的に十字架の死を免れ得なかった、というのではありません。主は、十字架に かけられ殺されるために、エルサレムに来られたのです。十字架にかけられ殺 されるために、ろばに乗ってエルサレムへと向かわれたのです。そこに神の御 心があることを知るゆえに、あえてそのようになされたのであります。

●歓呼の叫びの中を

 続いて7節以下をお読みいたします。「二人が子ろばを連れてイエスのとこ ろに戻って来て、その上に自分の服をかけると、イエスはそれにお乗りになっ た。多くの人が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は野原から葉の付いた 枝を切って来て道に敷いた。そして、前を行く者も後に従う者も叫んだ。『ホ サナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。我らの父ダビデの来 るべき国に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。』こうして、イエ スはエルサレムに着いて、神殿の境内に入り、辺りの様子を見て回った後、も はや夕方になったので、十二人を連れてベタニアへ出て行かれた」(7‐11 節)。

 十字架へと向かっておられる主イエスの御心を知らない人々は、あたかも王 の即位を祝うかのように、自分の服を道に敷き、葉の付いた枝を切って来て道 に敷きました。そして、熱狂的に歓呼の声を上げながら、主イエスを迎えたの です。「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように」と。

 もっとも、彼らの熱狂は理解できないものではありませんでした。先にも申 しましたが、この場面は過越祭の直前です。過越祭の起源については、出エジ プト記12章に説明があります。それはエジプトからの解放の出来事と結びつ いておりました。神がどのようにしてイスラエルの民を解放されたか、ご存じ の方も多いでしょう。その日、イスラエルの人々は家の入り口のかもいと柱に 子羊の血を塗りました。神がそのように命じられたのです。そして、その血が 塗られている家を神の裁きは過ぎ越し、エジプトの家に裁きが臨みました。そ のようにしてイスラエルはエジプトから解放されたのです。その記念が過越祭 でした。

 時は流れて主イエスの時代、イスラエルはローマの支配下にありました。彼 らはローマ人たちの奴隷であったわけではありません。しかし、多くの人々は ローマからの解放を待ち望んでおりました。彼らの置かれていた状況は、彼ら の意識の中では、かつてエジプトにいた先祖たちの状況と重なっていたのでし ょう。彼らは力強い王なるメシヤが現れて、ローマを倒し、彼らを解放してく れる日が来ることを信じておりました。そして彼らの心の内に愛国心と解放へ の期待が燃え上がる時――それが過越祭だったのです。そこへ奇跡を起こすと 噂される主イエスが現れたのです。しかも、エルサレムに来られる前、エリコ を通過したときには、バルティマイという盲人を癒されました。彼もまたその 一行の中にいるのです。人々が、このような方がエルサレムに近づいていると いうことについて、いきおい熱狂的になったのはうなずけます。この御方こそ 解放者としてのメシヤであり、ダビデの王座を回復する御方であると彼らは考 えたのでした。

 そのような期待が、先ほどの歓呼の叫びをもたらしたのでした。「ホサナ。 主の名によって来られる方に、祝福があるように。我らの父ダビデの来るべき 国に、祝福があるように。いと高きところにホサナ」(9‐10節)。

 「ホサナ」とは「お救いください」という意味です。彼らはそのように叫ん で、主を迎えたのでした。人々はローマの支配からの救いを求めて叫びます。 貧困や病からの救いを叫び求めます。そうです、人は諸々の抑圧や苦難から解 放されれば救われるのだ、と考えるものであります。しかし、現実はどうでし ょう。一つの苦しみから逃れれば、他の苦しみがそこにあります。一つの支配 を脱すれば、他の力の支配のもとにある自分を見出します。苦難から逃れるこ とが救いなら、人は決して救われることはありません。主は、本当の問題がど こにあるかをご存じでした。人間は、たとえこの世の抑圧から解放されたとし ても、自分の願望と意志を押し通して神に敵対している限り、罪の支配のもと にあるのです。そして、罪の支配から解放されない限り、人は救われないので す。本当の問題は、目に見える現実にあるのではありません。そうではなくて、 普段は人の目から隠されているけれども確かに存在する罪の支配、そして神と の断絶という現実にこそあるのです。

 主は、人々の歓呼の叫びが、間も無く「十字架につけろ」という叫びに変わ ることをご存じであったに違いありません。人間の罪は、闇を愛して光を憎み ます。人間の罪は、自分の意志が貫かれることを求め、神の御心に逆らいます。

人間の内に潜む恐るべき憎しみと敵意は、神の子さえ十字架にかけて殺してし まうのです。主イエスは、ご自身が来られたことによって人間の罪がその正体 を現すに至ることを、確かに知っておられたことでしょう。

 しかし、そのような罪の支配から私たちを救うためにこそ、主は来られたの でした。主はかつて弟子たちにこう言われました。「人の子は仕えられるため ではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるため に来たのである」(10・45)。主は、人間が罪と死の支配から解放され、 神の支配のもとに生きるようになるために、その代価として自分の命を献げる つもりでおられたのでした。主は、そのために御自分がどのような死を遂げる ことになるかをご存じでありました。しかし、主は私たちを愛するその愛のゆ えに、私たちを救うために十字架の道をあえて進まれたのです。引き渡され、 死刑を宣告され、侮辱され、唾をかけられ、鞭打たれ、殺されるために、人々 の歓呼の声がこだまする中を進み行かれたのであります。

 こうして私たちは受難週を迎えました。その最初の日である今日、私たちは まず、こうしてエルサレムへと向われた主の内に燃えていた神への愛、そして 私たちへの愛を、深く思い巡らしたいと思うのです。そして、そのような主に 従うとはいかなることかを問いつつ、この週を過ごしたいと思うのであります。

 
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