「キリストを復活させた神」         マルコ16・1‐8  本日お読みしました聖書箇所の直前には、次のように記されております。 「ヨセフは亜麻布を買い、イエスを十字架から降ろしてその布で巻き、岩を掘 って作った墓の中に納め、墓の入り口には石を転がしておいた。マグダラのマ リアとヨセの母マリアとは、イエスの遺体を納めた場所を見つめていた」(マ ルコ15・46‐47)。  愛する主イエスが墓の中に納められました。その墓の入り口は石をもって閉 じられました。その石は非常に大きかったと記されています(16・4)。動 かし難い大きな石は、動かし難い死という現実を象徴しているかのようでした。 マグダラのマリアとヨセの母マリアは、主イエスが確かに死んでしまったとい う現実を前にして、ただその墓を見つめることしかできませんでした。  彼らと同じように、私たちもまた、身近な人の死に接する度に人間の無力さ を思わされます。人は「死」に対して、何をもすることができません。どんな に愛していても、どんなに生きていて欲しいと願っても、死の前にはどうする こともできないのです。もちろん、私たちは身近な愛する人の死について無力 なだけではありません。自分の死についても無力です。私たちはやがて、自分 の人生が、死という大きな石によって閉ざされていることを知ることになりま す。その大きな死という石は、押しても引いてもびくともしないのです。  ある意味において、墓は私たちが死んでから入るところではありません。私 たちの人生そのものが、大きな石によって閉ざされている大きな墓に他ならな いのです。私たちはその中で朽ちゆくことを待っている屍です。そのことを意 識しようが意識しまいが、それが死に定められた人間の動かし難い現実です。 ですから、私たちの生において、あらゆる形において虚無と限界を感じざるを 得ないことは無理もないことなのです。ひととき虚しさを忘れることはできる かも知れません。紛らわすことはできるかも知れません。しかし、虚無感その ものを私たちの力によって人生から本質的に取り除くことはできないのです。  さて、もしこの福音書がこの15章で通常の伝記のように主イエスの死をも って終わってしまったならば、それは偉大な高尚なる生涯の物語ではありまし ても、私たちに希望を与える物語とはならなかったに違いありません。なぜな ら、そこで私たちが知るのは、どんなに偉大な生涯を送った人であっても、必 ず死ななくてはならないという事実に他ならないからです。しかし、この福音 書は15章で終わってはいないのです。死がこの物語の終わりではありません。 その続きがあるのです。そこにこそ、今日、私たちが聞くべきメッセージがあ るのです。 ●石は転がされていた  それでは、今日の聖書箇所に目を移しましょう。そこには何が書かれている でしょうか。安息日が終わると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロ メは、週の初めの日、すなわち日曜日の朝ごく早く、墓に行きました。イエス の体に香油を塗るためです。彼女たちは、「だれが墓の入り口からあの石を転 がしてくれるでしょうか」と話し合っておりました。ところが、墓に着いてみ ると、石は既にわきへ転がしてあったのです。それが今日の聖書箇所がまず私 たちに伝えている出来事です。  墓の入り口の石が転がされていました。しかし、それ自体は大したことでは ありません。墓の入り口を開いても、事態は何も変わらないことを私たちは知 っています。それでは、なぜ四つの福音書は、口をそろえてその出来事を伝え ているのでしょう。それは、石が転がされていたことが、さらに大きな事実を 象徴的に指し示しているからです。すなわち、石が転がされていただけでなく、 大きな石のように動かし難かった死という現実そのものが転がされたのです。  転がしたのはだれでしょうか。神様です。人間ではありません。そのように、 人生を閉ざしている死の問題に本当の意味で関わることができるのは人間では ありません。死と生とを支配している神だけなのです。死の問題に真の解決を 与えることができるのは人間ではありません。神だけなのです。人間に出来る ことは、せいぜい死から注意を逸らすこと、死から目をそむけることぐらいで す。しかし、目をそむけたからと言って、それが解決になるわけではありませ ん。閉ざされた墓の中の朽ちゆく屍に過ぎないという現実は、目をそむけても 変わらないからです。墓の口を開き、永遠の世界の光を射しこませることがで きるのは、神だけです。この神を知ることなくして、死を突き抜ける希望に生 きることはできません。 ●十字架にかけられた方の復活  このように、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、あの朝、キ リストの復活を知らされたのでした。この出来事において、婦人たちは、死を 打ち破ることのできる命の神、生けるまことの神(1テサロニケ1・9)に出 会ったのであります。しかし、この出来事は単純にこの婦人たちに喜びをもた らしはしませんでした。今日の聖書箇所にはこう書かれております。「婦人た ちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも 何も言わなかった。恐ろしかったからである」(8節)。  これは単に彼女らが不思議な出来事を見て恐怖を感じたということではあり ません。なぜなら、石が転がされていたことや、死体がなかったことや、白い 衣を来た若者が座っていたこと自体は、それほど恐ろしいことではないからで す。彼らが感じていた恐れは、もっと深い根源的な恐れであったに違いありま せん。すなわち、生けるまことの神との出会いそのものから来る恐れです。生 と死に現実に関わり給う生ける神を知ったゆえに抱いた恐れなのです。そして、 それこそ旧約聖書においても繰り返し語られていることなのです。  例えば、預言者イザヤが、神の前にある自分を知った時の恐れを考えてもよ いかも知れません。彼は幻の中で、高く天にある御座に主が座しておられるの を見ました。これは私たちが立ち入ることのできない、一人の預言者の神秘的 な経験であります。しかし、彼はそのような特別な体験の中で神にまみえたこ とを単純に喜びはしませんでした。そうではなくて、むしろ彼はこう叫ばざる を得なかったのです。「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。 汚れた唇の民の中に住む者。しかも、わたしの目は王なる万軍の主を仰ぎ見た 」(イザヤ6・5)と。  そのような人間が神に対して抱く恐れは、創世記3章の「エデンの園の物語 」にまで遡ることができます。神から禁じられていた善悪を知る知識の木の実 を取って食べた男と女は、神を避けて身を隠します。その時の様子を、聖書は 次のように物語っています。「その日、風の吹くころ、主なる神が園の中を歩 く音が聞こえてきた。アダムと女が、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠 れると、主なる神はアダムを呼ばれた。『どこにいるのか。』彼は答えた。 『あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。わ たしは裸ですから』」(創世記3・8‐10)。  人は観念上の神を恐れることはありません。人は哲学者の神を恐れることは ありません。人間が自分勝手に思い描いた神を恐れることはありません。単な るご利益祈願の対象を恐れることはありません。しかし、生けるまことの神の 前に立つならば、恐れを抱かざるを得ないというのが本当なのです。なぜなら、 罪深い私たち人間に対して神が正しく関わられるならば、私たちは滅びざるを 得ないからです。「災いだ。わたしは滅ぼされる」という叫びは、神の前にお けるすべての人間の真実な叫びに他ならないからであります。  先に、「この神を知ることなくして、死を突き抜ける希望に生きることはで きません」と申しました。それは確かにそうでしょう。しかし、既に見てきた ように、神を知ることは単純に希望には結びつかないのです。人間に罪も汚れ もなければ、神を恐れる必要はないでしょう。しかし、事はそう単純ではあり ません。なぜなら、罪のない人間などいないからです。神を恐れる必要のない 人など一人もいないからであります。  では、それにもかかわらず、本来恐るべき出来事でしかなかったキリストの 復活が、どうして今日まで喜ばしい希望のおとずれとして宣べ伝えられてきた のでしょうか。なぜ、イースターは恐るべき日ではなく、喜びの日なのでしょ うか。  そこで、私たちはキリストの復活後、人間に対して最初に与えられたメッセ ージにもう一度耳を傾けたいと思うのです。キリストの復活を告げたあの若者 はいったい何と言っているでしょうか。彼は、婦人たちにこう語ったのです。 「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜して いるが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めし た場所である」(6節)。  ここで大切なことは、ただ「死んでしまったイエスが復活させられた」と告 げられているのではない、ということです。「十字架につけられたナザレのイ エスが復活させられた」と告げられているのです。つまり、復活という神の決 定的な御業は、十字架にかけられた方の復活として現されたのです。そこに大 きな意味があるのです。このように、復活は十字架と結びつけて考えられねば ならないのであります。  このイースターの祝いの前には、長いレント(受難節)の期間がありました。 私たちはこの期間、十字架へと向かうキリストの御足の跡を辿ってまいりまし た。思い起こしてください。キリストはご自分の命をもって私たちの罪を贖う ために十字架へと向かわれたのであります。私たちのために、罪の贖いの十字 架がこの地上に立ったのであります。あの若者が伝えたメッセージは、この贖 いの死を死なれた方が復活させられたという出来事に他なりませんでした。神 が、“十字架につけられたイエスを復活させた神”であるゆえに、私たちはも はやイザヤのように、「災いだ。わたしは滅ぼされる」と叫ぶ必要はないので す。アダムのように、主なる神の顔を避けて、園の木の間に身を隠す必要はな いのであります。十字架にかけられたイエスを復活させた御方として神を仰ぐ とき、はじめて神は私たちの希望となるのであります。 ●ガリラヤへ行け  さて、神が十字架につけられたイエスを復活させたことを伝えた若者は、さ らに続けてこのように告げました。「さあ、行って、弟子たちとペトロに告げ なさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われ たとおり、そこでお目にかかれる』と」(7節)。  主イエスを見捨てて逃げてしまった弟子たちでありました。「ペトロに」と、 わざわざ語られております。ペトロは、あの晩、主イエスを三度も否んだので す。そのペトロにも知らせてあげなさい、と言っているのです。神は、十字架 にかけられたイエスを復活させ給うた神であるゆえに、自らの罪と恥をさらけ 出した彼らを、再びイエスと共に生かそうとしておられるのです。彼らはガリ ラヤで再び主にお会いすることができると告げられました。主が先にガリラヤ に行っておられると言うのです。ガリラヤとは、弟子たちが主と最初に出会っ た場所であります。彼らが、「わたしについて来なさい」という主イエスの声 を聞いた場所であります。彼らは、罪と死から解放された者として、そこから 主イエスと共にやり直すことが許されているのです。あのガリラヤで、再び主 の招きの声を聞くのです。「わたしについて来なさい」という御声を聞くこと ができるのです。  神が御使いであるあの若者を通して最初に語られたメッセージが、今日、私 たちにも届けられております。「ペトロにも告げなさい」と言われた御方は、 私たちにもその知らせを聞かせてくださいました。復活の使信を伝えられた私 たちは、もはや死によって閉ざされた者として生きる必要はありません。神は 私たちをも、キリストの十字架と復活の出来事を通し、罪と死から解放された 者となし、キリストと共に生きる者としてくださいます。そして神は私たちを 再びガリラヤへと導かれるでしょう。私たちもまた、「わたしについて来なさ い」という復活の主の招きの言葉を再び聞くことが許されているのです。イー スターは、弟子たちにとってそうであったように、私たちにとっても、復活の 主に新たに従い始めるときに他ならないのであります。