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「信じぬ者から信じる者へ」

2000年4月30日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 ヨハネ20・19‐31

●あなたがたに平和があるように

 弟子たちは、ユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけ、そこに 閉じこもっておりました。すると彼らの真中に、復活された主イエスが現れま す。弟子たちはどうしたでしょうか。「弟子たちは、主を見て喜んだ」(20 節)と書かれています。

 愛する主イエスに、しかも死んでしまったはずのイエスに再びお会いするこ とができたのだから、弟子たちが喜んだのは当然である――。しかし、果たし てそうでしょうか。私たちはその家にいたのが、主イエスを見捨てて逃げ去っ た弟子たちであったことを忘れてはなりません。ちょうど一週間前、彼らが主 イエスと共にエルサレムに入りました。彼らは、これがどれほど危険なことで あるかを知っていました。ですから、主イエスが捕らえられるようなことにで もなるならば、一緒に死ぬ覚悟でいたのです(ヨハネ11・16)。しかし、 実際に事が起こったとき、彼らは主イエスが予告していたように、主を見捨て て逃げ去ったのでした。いわば、彼らは主イエス一人を見殺しにしたわけです。

そして、自分たちは追及の手を恐れて家の中に隠れていました。それがこの場 面です。あなたが身近な愛する者を見殺しにし、その者が苦しみながら死んで いったとして、もしその人が突然目の前に現れたとしたら、単純に喜ぶことが できますでしょうか。できないだろうと思うのです。むしろ、それは恐るべき ことではないでしょうか。

 ですから、ここで弟子たちが主を見て喜んだ、というのは決して当たり前の ことではないのです。そこでは、特別なことが起こっているのです。それは復 活したキリストが「あなたがたに平和があるように」と語られたということで す。もし、この言葉がなかったらどうでしょう。この言葉なくして、主イエス が手とわき腹とをお見せになったとしたら、それは彼らにとって、自分の罪を 目の前に突きつけられること以外のなにものでもなかったろうと思うのです。 しかし、主は「あなたがたに平和があるように」と言われて、手の傷を見せら れました。そこに起こっているのは、罪の赦しです。彼らは、罪を赦された者 として、復活のキリストの前に立っているのです。

 もっとも、「あなたがたに平和(平安)があるように」という言葉自体は、 ユダヤ人社会における普通の挨拶の言葉でありました。今でもユダヤ人は「こ んにちは」「さようなら」として、「あなたに平安があるように」(シャーロ ーム・レハー)と言うのです。しかし、主はその言葉の実質を携えて、彼らに 現れたのでした。聖書の語る平和(シャーローム)とは、単に争いがないこと ではありません。それはもともと、神によって与えられる、生命の満ち溢れた 状態を意味します。主は、このシャーロームがあなたがたにあるように、と言 われたのです。

 明らかに、弟子たちはこのシャーロームを失った者たちでした。そうです、 罪は単に心の平安を失わせるのではありません。いかなる罪であっても、それ 本質的には神に対するものであって、神との交わりを失わせ、シャーロームを 失わせるのであります。それは罪によって失われたのですから、神によって罪 が赦され、罪が取り除かれなくては回復され得ないのです。キリストが「あな たがたに平和があるように」という言葉と共にもたらされたのは、まさにこの 罪の赦しに他なりませんでした。

 それゆえに、この言葉と共にあるときに、主が見せられた手とわき腹の傷は、 もはや彼らの罪を暴き、責め立てるものではありませんでした。キリストの御 傷は、罪の赦しのしるしとして、彼らに示されたのです。そして、ヨハネによ る福音書は、私たちに対しても、キリストの御傷を示して、ここに罪の赦しが あることを伝えているのであります。それは既にこの福音書の最初から告げら れていたことでした。かつて洗礼者ヨハネが主イエスを指し示し、「見よ、世 の罪を取り除く神の小羊だ」(1・29)と叫んだことを思い起こしてくださ い。そのように主は、世の罪を贖う小羊として死なれたのです。実に、釘で貫 かれた主の手の傷跡、槍で刺されたわき腹の傷跡は、主が私たちの罪を背負っ て十字架にかかられたことを示すしるしなのであります。

 主は、そのように御自分の手とわき腹を見せ、再び彼らに「あなたがたに平 和があるように」と語られます。そして、さらに彼らを世へと遣わされるので す。主は彼らに息を吹きかけて言われました。「聖霊を受けなさい。だれの罪 でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが 赦さなければ、赦されないまま残る」(22‐23節)。

 「罪は赦される」「赦されないまま残る」という受身の表現は、「神が赦し てくださる」「神が赦さないまま残す」ということを言い換えたユダヤ的表現 です。罪を最終的に赦すことができるのは、神なのであって、弟子たちではあ りません。しかし、ここで重要なことは、その御手に罪の赦しのしるしを持つ 方によって、罪の赦しの言葉が弟子たちに託されたということであります。主 が彼らに「あなたがたに平和があるように」と語られたように、弟子たちもま た、キリストの十字架と復活を伝え、キリストの罪の赦しの福音を伝え、罪の 赦しを宣言し、「あなたがたに平和があるように」と語ることができるのです。

このようにして、神によって罪を赦された弟子たちは、すなわち世々の教会は、 人間の罪の赦しについての最終的な言葉を委ねられたのであります。

●信じる者になりなさい

 そのキリストによる弟子たちの派遣に続くのが、トマスという人物に関わる 物語です。十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、主イエスが最初に 弟子たちに現れた時、彼らと共にいませんでした。そこで、弟子たちがトマス に、「わたしたちは主を見た」と伝えます。しかし、トマスはこう言うのです。 「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手 をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」(25節)。

 この言葉のゆえに、トマスはしばしば「疑い深いトマス」などと呼ばれます。

多くの人々の内には、なんとなく理屈っぽい若い青年のようなトマスのイメー ジがあるかも知れません。しかし、彼はいわゆる合理主義者や懐疑主義者だっ たのでしょうか。彼は、イエスの復活が非合理的だから「わたしは信じない」 と言っているのでしょうか。その後にトマスに語られた主イエスの言葉、「信 じない者ではなく、信じる者になりなさい」という言葉は、彼の合理主義的な 態度を戒めているのでしょうか。私は、決してそうではないと思うのです。こ のトマスと主イエスのやりとりは、その前に書かれていることに続いているこ とを見落としてはなりません。この物語は、あくまでも罪の赦しに関わってい るのです。

 ヨハネによる福音書は、このトマスを熱烈に主イエスを慕っていた人として 描いています。先にも申しましたように、主イエスがユダヤの地に向かおうと したとき、弟子たちはその危険を良く理解しておりました。しかし、敵の待ち 受けるその地へと、主イエスはあくまでも歩みを進めようとしています。その とき、皆の者たちに向かって「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか 」(11・16)と言ったのは、このトマスでありました。また、最後の晩餐 の席において、主が弟子たちに「わたしがどこへ行くのか、その道をあなたが たは知っている」と言われた時、「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちに は分かりません」(14・5)と言ったのも、このトマスでありました。彼は、 主が行かれるところには、いかなることがあろうと、最後までついて行くつも りでいたのです。そうです、彼は本気だったのです。彼としては、そのつもり でいたのです。

 ところが、ほどなくして主が捕らえられた時、他の弟子たち同様、トマスは 主イエスを見捨てて逃げたのでした。その結果、主は裁かれ、鞭打たれ、ボロ ボロにされて十字架にかけられ、殺されてしまったのです。取り返しのつかな いことをしてしまいました。そんな自分をトマスはどれほど責めたことか、察 するに余りあります。しかし、どれほど自分を責めたところで、過去に手は届 きません。自分の罪を自分の手で拭うことはできないのです。罪の重荷は、彼 を情け容赦なく押しつぶしたことでしょう。この重荷が取り除かれて新しく生 き始めることができる、などという希望を、彼は到底持ち得なかったに違いあ りません。

 トマスは仲間と共にいませんでした。一人でいることは危険です。しかし、 同じように主を見捨てて逃げた他の弟子たちと共にいることは耐え難かったの でしょう。そのような彼が、弟子たちに会った時、弟子たちは彼にこう言った のでした。「わたしたちは主を見た」。しかも、彼らは喜んでいるのです。彼 にその知らせを嬉々として伝えているのです。そのような彼らの姿や言葉が、 トマスにはあまりにも虫が良すぎるものとして映ったに違いありません。人は、 自分の罪深さを思えば思うほど、希望を語る言葉を拒否したくなるものです。 むしろ、一生自分を責めながら、一生自分を苦しめながら、罪の重荷を背負い つづけて生き、そして苦しみながら死んでいくほうが真実なことのように思え るものです。トマスはまさにそう思ったのでしょう。だから、トマスは他の弟 子たちの言うことなど、信じたくもなかったのです。だから「わたしは決して 信じない」と言ったのです。

 しかし、そのような彼にも、キリストは現れてくださいました。彼に対して も、「平和があるように」と主は語られたのであります。その上で、トマスに こう言われたのでした。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。

また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい」(25節)。それ は「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この 手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」と言ったトマ スに対する答えでありました。主は、罪の赦しのしるしである釘の跡を差し出 して、それに触れよと言われたのです。あたかも、「わたしはお前のために死 んでよみがえった。お前が赦されるために死んでよみがえった。お前の罪は赦 されているのだよ」と言うかのように、その釘の跡のある手を差し出して、あ なたの指をここに当てなさいと言われたのです。

 そして、さらに主はトマスに、「信じない者ではなく、信じる者になりなさ い」と語られたのでした。考えてみますならば、目の前に主イエスが現れてい るのに、信じるも信じないもないでしょう。しかし、主がこのように言われた のは、他ならぬトマスのためであったに違いありません。彼は、あえて「信じ ない者」であろうとしていた人だったからです。そのような彼に対して、主は、 いわば「信じていいのだよ」と言われたのです。「決して信じない、なんて頑 張っていなくていいのだよ。罪を背負いつづけ、自分を責め続けて生きなくて いい。あなたが伝えられたことを信じていいのだよ」と主は言っておられるの です。そこで語られているのは、罪の赦しを受けて新しく生き始めることへの 招きでありました。トマスは、主の招きの言葉を受け入れ、主を拝し、「わた しの主、わたしの神よ」と、その信仰を言い表します。復活から八日目、主の 日の出来事でありました。

 この八日目が繰り返し巡ってまいります。その八日目である主の日において、 私たちもまた、トマスのように、「信じない者ではなく、信じる者になりなさ い」と呼びかけられております。主はトマスに言われました。「わたしを見た から信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」(29節)と。トマス は復活の主を見ました。しかし、主を見たか見ないかは本質的に重要なことで はありませんでした。なぜなら、既にトマスは主の復活を伝えられていたから です。福音は伝えられていたのです。

 その御手とわき腹に、罪の赦しのしるしを持っておられる方は復活されまし た。その良き知らせが、既に弟子たちに、教会に託されました。世々の教会は その良き知らせを宣べ伝え、私たちにももたらしてくれました。それゆえ、私 たちは、かつての弟子たちのように恐れと不安の内に閉じこもって生きる必要 はありません。私たちは、かつてのトマスのように罪の重荷を負い続け、自分 を責め続けて生きる必要はありません。私たちはキリストが与えてくださるシ ャーロームをいただいて生きることが許されているのです。「信じない者では なく、信じる者になりなさい」。

 
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