説教 |  印刷 |  説教の英訳 |  対訳 |  連絡

「体のよみがえり」

2000年5月7日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 ルカ24・36‐48

 これまで二週に渡って、マルコによる福音書とヨハネによる福音書の伝える 復活の物語を読んできました。今日読みましたのは、ルカによる福音書です。 各福音書の伝えるところを総合しますと、その報告はかなり支離滅裂です。ど のような順序で何が起こったのか、よく分かりません。いったい墓に行ったの は誰なのか。彼らが見たのは何なのか。主イエスはどのように現れたのか。ど のような順で、どこで誰に現れたのか。各福音書の報告はそれぞれ食い違って おります。福音書の記述をもとに、あの日の出来事を再構成するのは、ほとん ど不可能のように思えます。

 ルカによる福音書だけをとりあげても、まともな思考では付いて行けない記 述がかなりあります。例えば、24章31節で、復活のキリストの姿は突然見 えなくなります。しかし、もう一方で、今日読みました39節では、「肉も骨 もある」とキリストが語られるのです。肉も骨もあるならば、突然消えないで 欲しいと思います。しかも、主はそこで焼き魚を食べ始めます。突然現れたり 消えたりする方ならば、焼き魚を食べるのだけはやめて欲しいと思います。ま ったく読者を混乱させるようなことばかりです。

 しかし、このような理にかなわない、辻褄の合わないことを繰り返し読んで いますと、そこに聖書の記述の真実さが見えてくるから不思議です。そもそも、 キリストの復活という出来事は、どう考えても、人間の経験の範囲を超えてい ることなのでしょう。それは人間の言葉による表現の範囲を超えていることを 意味します。であるならば、事実を完全に伝えることは原理的に不可能なので す。その不可能なことを、人間の言葉で真実に一生懸命に伝えようしているの が、福音書に記されているキリスト復活の物語に他なりません。

 であるならば、結局、好奇心に駆られて事実をあれこれと詮索することには、 あまり意味がないということなのでしょう。大切なことは、たとえ人々が不充 分な言葉をもってであっても、キリストの復活を語ることによって伝えようと したことを、しっかりと聞き取ることであります。今日の箇所においてもそう です。復活のキリストが、焼き魚をむしゃむしゃ食べ始められた――。その言 葉だけを聞くならば滑稽なだけでしょう。しかし、聖書がこれを語るからには、 私たちに伝えたいことがあるはずなのです。私たちは、耳を澄ませてそのメッ セージを聞き取り、しっかりと受け止めなくてはなりません。

●復活のキリストは亡霊ではない

 それでは初めに36節から43節までをご覧ください。話はその前に続いて います。二人の弟子たちが復活のキリストに出会った次第を他の弟子たちに話 しておりました。時間的には真夜中のことであろうと思います。すると、キリ ストが彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われまし た。この書き方からすると、明らかに主イエスはドアをノックして入ってきた のではありません。突然、現れたのです。弟子たちの反応は恐怖でした。彼ら は亡霊を見ているのだと思ったのです。そこで主は手足を示して言いました。 「触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、 わたしにはそれがある」(39節)。そしてさらにキリストは焼き魚を彼らの 前で食べ始めたのです。

 さて、この場面において強調点はどこに置かれているでしょうか。弟子たち とキリストとのやりとりは、弟子たちが復活のキリストを亡霊と勘違いしたと ころから始まります。後に続く記述は、すべてこの点に関連しています。つま り、ルカがここで一番伝えたいことは、「復活のキリストが何をされたか」で はなくて、「復活のキリストが何でないか」ということなのです。要するに、 亡霊ではない、ということであります。しかし、そのことがどうしてそれほど 重要なのでしょうか。

 そのことを理解するためには、最初に福音が宣べ伝えられた世界にまで遡ら なくてはなりません。当時の世界において支配的であったのは、ギリシア的な 霊肉二元論です。その思想においては、肉体を含めて物質はすべて滅び行く悪 であり、それに対して霊魂は善であり不滅であると考えられておりました。実 に、そのような思想は、教会の中にまで強力な影響を及ぼしていたのです。

 もちろん、霊肉二元論は私たちにとっても無縁ではありません。身近なとこ ろに見られます。肉を滅び行く悪と見、霊魂を永遠なる善と見る思想がなぜ生 まれたのか。それは私たちにも分かるような気がいたします。私たちは実際、 この肉体を持つ故の悲しみを経験するからです。自分自身の老醜を苦にして自 殺してしまったのは川端康成ですが、それは決して私たちに理解できないこと ではありません。彼でなくても、人は老いていく中にあって、あるいは病の苦 しみの中にあって、肉体を持つことの悲しさを経験いたします。もちろん老年 だけの問題ではありません。ある意味において全ての年代の人において、人間 の醜さはその体と、体が関わる生活に深く結びついています。そしてまた、人 の悪が、罪が、そして不幸が、体が関わる生活に、分かち難く結びついている のです。ですから、そのような肉体は悪として、これを霊魂と分離したいとい う気持ちは分かります。人間は、罪を犯す肉体は滅びていくが、霊魂は善であ って不滅であると信じたいのです。

 しかし、聖書はそのような霊肉二元論を真っ向から否定いたします。聖書は、 この体も、体が関わる目に見える現実の世界も、すべて神が創造されたものな のだ、と教えているのです。それは、この体もこの世界も、神が望まれたゆえ に存在することを意味します。それゆえに、神は目に見えるこの世界、そして この世界に私たちが体をもって関わるそのあり方に関心を持たれます。私たち は、聖書の中に、そのような神と世界の関わりを見るのです。

 さて、復活されたキリストについての描写は、以上述べてきたことに関係い たします。最初に墓に行った婦人たちに御使いはこう言いました。「なぜ、生 きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活 なさったのだ」(24・5-6)。「生きておられる方」ということは、死を 打ち破った方であるということです。「私は生きています」と私たちが言うの とは意味合いが違います。私たちの場合、正確に表現するならば、「死につつ ある」存在です。本当の意味で死を打ち破り、生きている御方は、復活のキリ ストだけです。その意味において、キリストの姿は、私たちがまだ得ていない、 救いの完成した姿を示しています。その人間の救いが完成した姿で現れたキリ ストを描写するのに、聖書は体の復活を強調するのです。つまり人間の救いの 完成は、体を失った亡霊のような状態ではない、と言っているのです。そうで はなくて、キリストの復活は、神の被造物である体を含めた「まるごとの人間 」が神の御業によって完成した姿を示しているのです。

 復活のキリストの体に注目する人は、体が関わっている現在の生活と永遠の 救いとを関係づけて考えます。復活のキリストの体に注目しない人はそうしま せん。するとどうなるでしょうか。この体と、体に関わる生活から逃れたとこ ろに、永遠の救いを求めるようになります。いわば亡霊のような状態に救いを 求めることになるのです。そのような人は、死後の世界を、この地上の重荷か ら逃れたところとしか考えません。それは現在のこの生活から逃れていく場所 なのであって、決して現在の生活の完成ではないのです。そうしますと、この 目に見える世界における経験は、ことごとく意味を失ってしまいます。苦しみ も、悲しみも、痛みも、意味を失ってしまうのです。その結果、今のこの生活 においても、重荷や苦難から逃れることに救いを求めるようになります。人生 は完成へと向かっているのだ、という意識がないからです。

 私たちは、キリストが体をもって現れたことを心に留めなくてはなりません。

すなわち、私たちは、救いのゴールを取り違えてはならないのです。救いはこ の人生からの逃避にではなく、神の御業による人生の完成にこそあるのです。 亡霊になることではなく、神の御業によって復活することにこそあるのです。 救いの完成は、現在の生活と結びついているのです。現在の経験は、すべて救 いの完成に関係があるのです。キリストは栄光の姿をもって焼き魚を食べて、 そのことを示してくださったのです。

●永遠の傷を負ったキリストの体

 しかし、私たちは、キリストが示してくださったことが、単純に弟子たちの 希望となったと考えてはなりません。確かにキリストの復活の体は、人間の救 いが完成した姿を指し示しておりました。しかし、その姿は、そこにいた弟子 たちが、そして私たちが、その救いに与り得ることを単純に意味しないのです。 なぜなら、キリストと私たちの間には、決定的な違いがあるからです。それは、 キリストには罪がなかったということであり、一方、そこにいた弟子たちやこ こにいる私たちは罪人であるという事実であります。それゆえに、キリストの 復活と私たちの復活とは簡単に結びつかないのです。

 考えてみてください。キリストは苦難の道を歩まれました。神に従順にその 道を歩まれました。そして十字架にかかって死なれました。その歩みを神は復 活の栄光をもって完成されました。それは罪のないキリストの歩みにとって、 まことに相応しいゴールであったと言えるでしょう。しかし、それがどうして 私たちの行き着くべきところでもあると言えるでしょうか。むしろ、真実に私 たちの人生を省みるならば、私たちの行き着くべきところは、当然受けるべき 裁きと滅び以外ではあり得ないと思うのです。

 しかし、ここで私たちはもう一つのことに注目しなくてはなりません。それ はキリストがあえて手と足をお見せになった、ということです。39節をご覧 ください。キリストは「わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ」と言 われました。奇妙な言葉です。仮りに皆さんが20年ぶりに誰かに会ったとし て、そこで「わたしですよ」と言って手と足を見せるでしょうか。普通は顔を 見せるだろうと思うのです。手と足は皆よく似ているからです。しかし、キリ ストは「手や足を見なさい」と言われました。なぜでしょうか。キリストの手 足は分かるからです。そこには釘の跡があるからです。つまりここでキリスト が「まさしくわたしだ」と言っているのは、「まさしく十字架にかかって死ん だわたしだ」ということに他ならないのです。

 復活した栄光の姿と十字架の傷跡。人間の救いが完成した姿で現れながら、 なおその手の傷は癒えていませんでした。あの方は、永遠に傷を負う方として そこに現れてくださったのです。それはあの方が十字架にかけられた事実を指 し示すしるしであり、その御体に永遠に残された罪の贖いのしるしでありまし た。その御方が、弟子たちの心の目を開いて語られます。「次のように書いて ある。『メシアは苦しみを受け、3日目に死者の中から復活する。また、罪の 赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられ る』と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる」 (46‐48節)。彼らが見たキリストの傷跡こそ、宣べ伝えられるべき「罪 の赦しを得させる悔い改め」の根拠に他ならなかったのです。

 この福音書の最後には、「彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレ ムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた」(52‐53節) と書かれています。しかし、既に見てきましたように、彼らが喜びに満ち溢れ て神をほめたたえる者となったのは、単にキリストに再会できたからではあり ませんでした。そうではなくて、キリストの復活が彼らの復活の希望となった からです。キリストの復活と弟子たちの復活。この本来結びつき得ないものを 結びつけたのは、あのキリストの御傷でありました。神が与えてくださった罪 の赦しでありました。罪を赦された者として、彼らはキリストの栄光の姿の中 に、彼らのゴールを見たのであります。

 この永遠に傷を負った方の復活が、私たちにも伝えられました。それはまこ とに不完全な人間の言葉による伝達ではあるかも知れません。しかし、そのよ うな言葉ではあっても、復活を宣べ伝えられた者として、私たちは彼らと同じ ゴールを見つめて生きることが許されているのであります。もはや現実逃避に、 現実世界と関わりない亡霊となることに、救いを求めなくてよいのです。私た ちは、罪を赦された者として、与えられている生を終わりまで生き抜いたらよ いのです。その生は神が完成してくださるからであります。

 
説教 |  印刷 |  説教の英訳 |  対訳 |  連絡