「サムエルの母」
2000年5月14日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 サムエル記上1・1-20
本日は、「サムエル記上」の冒頭部分をお読みしました。この書物の前には、 私たちの聖書においては、ルツ記が置かれています。しかし、詳しい説明は割 愛しますが、ヘブライ語の聖書においては、実はサムエル記の直前は士師記に なっているのです。その士師記の最後はこう締め括られています。「そのころ、 イスラエルには王がなく、それぞれ自分の目に正しいとすることを行なってい た」(士師21・25)。これが本日お読みしました物語の背景になっており ます。人々はそれぞれ自分本位に生きていたのです。まさに神の民は霊的な暗 黒時代にありました。しかし、そのようなイスラエルの民に、神は一人の神の 人を起こされたのです。それがサムエルでした。この人によってイスラエルの 歴史は大きく転換していくのです。
そして、神はこのサムエルを地上に与えるために一人の女性を選ばれたので した。母となるべき人を選ばれたのです。それがハンナでありました。その人 はいかなる人だったのでしょうか。国を憂い神の民の理想に燃えた女闘士でし ょうか。いいえ、どうもそのような人ではなさそうです。本日の聖書箇所を見 るときに、その人は悲しみと悩みに打ちのめされている一人の力弱き人であっ たことがわかります。神はそのような一人の女性を選ばれ、サムエルの誕生の ために準備をされたのでした。その準備は、彼女に与えられた一つの大きな苦 しみを通してなされたのであります。
●信仰の試練
その苦しみは、彼女に子供が生まれない、という形を取って与えられました。
聖書は敢えて「主はハンナの胎を閉ざしておられた」(5節)と記しています。
つまり、ここに神様のご意志が働いているということを聖書は明確に告げるの です。
その当時において、子供が生まれないということは、極めて宗教的な事柄と してとらえられておりました。子供が多いということが神の祝福として考えら れ、子供が生まれないということは神の呪いと見なされていたのです。そのゆ えに不当な苦しみを受けたり差別されたりということは決して珍しいことでは ありませんでした。
また、当時は一夫多妻が一般的に受け入れられていた時代でもあります。ハ ンナの夫にはもう一人の妻がありました。その名をペニナと言いました。当然 の事ながら、二人の妻がいるということだけで家庭に不和が生じます。ペニナ はハンナを憎みました。そしてハンナを苦しめたのであります。
ペニナには子供たちがいましたがハンナには子供がありません。そのことが ペニナにとって恰好の攻撃材料となりました。どのように苦しめたのでしょう か。6節には「主が子供をお授けにならないことでハンナを思い悩ませ、苦し めた」とあります。それを、彼らが主を礼拝し、いけにえを捧げる祭りの時に したのであります。つまり、ペニナはハンナの名を残す跡継ぎがいないことを もって苦しめたのではないのです。そうではなくて、「あなたは神に呪われて いるのだ。いくら神様を礼拝しようとしても無駄なのだ。いけにえを捧げても 意味がないのだ」と言って苦しめたのです。このように、ハンナの問題は、ま さに神から呪われているのではないかと思われる状況に置かれて、神の御心が まったく分からないという問題だったのです。
それは信仰の試練でありました。単なる苦しみというよりは、信仰そのもの が問われる、試される、試練だったのです。神の御心が分からない時に、神の 善意を見える形において見いだし得ないその時に、なお神に向かい続けるのか、 それとも神に背を向けてしまうのか、それが問われているのであります。
そのような試練を経験したのは、もちろんハンナだけではありません。聖書 に登場する多くの人物の生涯に見られることです。例えばイエスの母マリアを 考えてみてください。聖霊によって身籠もったと告げられたマリアはどれほど 動転したかと思います。そして、離縁ともなりかねない状況におかれたのです。
そこで神に対する信頼と従順が問われたのです。マリアは言いました。「お言 葉通りこの身になりますように」(ルカ1・38)。
また、例えば、違った形において、私たちはあのヨブ記の中に同じ試練を見 ることができます。
「ヨブは無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きていた」(ヨブ1・ 1)と書かれています。神はサタンに言いました。「お前はわたしの僕ヨブに 気づいたか。地上に彼ほどの者はいまい。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を 避けて生きている」(1・8)。それに対して、サタンがこのように言うので す。「ヨブが利益もないのに神を敬うでしょうか。あなたは彼とその一族、全 財産を守っておられるではありませんか。彼の手の業をすべて祝福なさいます。
ひとつこの辺で、御手を伸ばして彼の財産に触れてごらんなさい。面と向かっ てあなたを呪うに違いありません」(1・11)これがヨブ記の冒頭です。
このサタンの言葉はヨブ記全体を理解する上で大きな意味を持つ言葉です。 この言葉に心の内を探られるような気がするのは、私だけではないと思います。
私たちが信仰と呼んでいるものは、実にしばしば「目に見えるしるし」に依り 頼んでいるものです。神の善意が目に見える形を取るとき、そこで神を畏れ敬 い、神に依り頼むことは困難ではないでしょう。しかし、サタンは「利益もな いのに神を敬うでしょうか」と言うのです。神の御心が分からなくなった時、 神の恵みが見える形においては全く見いだし得ない時、なお神に目を向け、神 を敬うか。それが問われているのです。それがヨブに与えられた試練の意味で あり、ハンナに与えられた試練の意味でありました。
●命を注ぎ出す祈り
さて、その大きな苦しみの中でハンナはどうしたでしょうか。9節以下には このように書かれています。「さて、シロでのいけにえの食事が終わり、ハン ナは立ち上がった。祭司エリは主の神殿の柱に近い席に着いていた。ハンナは 悩み嘆いて主に祈り、激しく泣いた」(9-10節)。
彼女は、いかなる苦しみの中にあっても泰然としている、という類の人では ありませんでした。彼女は苦しみを表に現します。泣いて、何も食べようとし ません。ふさぎ込みます。しかし、主に背を向けはしませんでした。それが素 晴らしいことだと思うのです。信仰者だからといって、泣きたいときに笑って いる必要はありません。泣きたいときには泣いたらよいのです。ふさぎ込むこ とだってあるでしょう。しかし、神に背を向けてはならないのです。もし、ハ ンナが神に背を向けていたとするなら、いったいどうなったでしょうか。彼女 が神に背を向け、ペニナの悪意に対して悪をもって報いていたらどうなってい たでしょうか。そこにサムエルが与えられることはないばかりか、その家庭は 地獄の如くとなっていたに違いありません。しかし、彼女はそのような愚かな 道をたどりませんでした。彼女は悲しみに満たされていたことでしょう。しか し、彼女は立ち上がりました。そして祈りに行くのです。主のもとに行くので す。
ハンナは激しく泣きながら、長い時間そこで祈っていました。彼女が心の内 で祈っていたため唇のみが動いているのを見ると、祭司エリは彼女が酒に酔っ ているものと誤解しました。「いつまで酔っているのか。酔いをさましてきな さい」とエリは言います。すると彼女が答えます。「いいえ、祭司様。違いま す。わたしは深い悩みを持った女です。ぶどう酒も強い酒も飲んではおりませ ん。ただ、主の御前に心からの願いを注ぎ出しておりました」(15節)。
細かい話になりますが、ここの「主の御前に心からの願いを注ぎ出しており ました」というのは大変残念な翻訳だと思います。11節において彼女が自分 自身の願いと誓いを語っているので、ここも「心からの願い」と訳されたのか もしれませんが、これはもともと「命」とか「魂」と訳されるべき言葉なので す。つまり、彼女は単に願いを注ぎ出していたのではないのです。命を注ぎ出 していたのです。いわば彼女の全存在を主の前に注ぎ出していたのです。「願 い」というような部分的なものではないのです。彼女の内にあったのは単に願 いだけではなかったはずです。そこにはペニナに対する恨みもあったでしょう。
自分の苦しみを本当には理解してくれていない夫についての悲しさもあったで しょう。それゆえの孤独もあったに違いありません。さらには、そのような状 態を許された神に対する恨みがましい思いさえなかったとは言えないと思いま す。彼女はそれらすべてを含めて全存在を神の前に注ぎ出していたのです。
そして、彼女が命を注ぎ出すような祈りをなしえたのは、それをしっかりと 受け止めてくださる御方がおられるからであります。私たち人間の間には限界 があります。どんなに信頼していても、愛していても、限界があるのです。魂 を注ぎ出したら、それを受け止め切れないのが人間です。しかし、ハンナの祈 りを聞き給う神は人間とは違います。私たちの命、私たちの魂、全存在を受け 止めてくださる御方なのです。
やがて彼女はそのような祈りの末に、「安心して帰りなさい」(17節)と いう祭司の言葉を受け止めて、家族のもとに帰っていきました。そこで聖書は 次のように語っています。「それから食事をしたが、彼女の表情はもはや前の ようではなかった」(18節)。聖書協会訳では、意訳して「その顔は、もは や悲しげではなくなった」となっています。
彼女の生活の状況そのものは何も変わってはいません。子供が生まれたわけ ではありません。家に帰れば相変わらずペニナの嫌がらせがあるでしょう。夫 に理解されない悲しみがあるかも知れません。しかし、彼女自身が変わりまし た。ここに苦難の中にあって既に苦難を通過してしまっている人がいます。彼 女が命を注ぎ出し、神に委ねてしまった時、彼女は苦難をも突き抜けてしまっ たのであります。
神の深い御計画によって大きな試練を与えられたハンナ。その中にあって決 して神に背を向けず、自らの魂を注ぎ出して祈ったハンナ。ここに私たちが見 るべき信仰の人の姿があります。そして、そのような彼女であるからこそ、サ ムエルが生まれた時に、その子を自分の所有であるかのように育てるのではな く、真に信仰をもってその子を養い、やがて主に誓ったように、その子を捧げ ることができたのでしょう。こうしてサムエルが闇の世に送り出されることに なるのです。私たちは今日、このサムエルの母の姿をしっかりと心に刻み付け たいと思います。