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「キリストにつながって生きる」

2000年5月21日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 ヨハネ15・1‐8

 ヨハネによる福音書を読みますと、「信じる」という言葉が繰り返し現れま す。もちろん、この「信じる」という言葉は、私たちに大変馴染み深い言葉で す。教会の誰かに対して、「あなたはキリストを信じていますか」と問うなら ば、当然の事ながら「はい、信じています」という答えが返ってくることでし ょう。しかし、この「信じる」という馴染みの深い言葉、この単純な小さな言 葉が何を意味するかと問うならば、どうもそう単純ではなさそうです。この福 音書を読みますと、改めてそう思わされます。

●「信じた」とはいえ…

 例えば、1章12節をご覧ください。「しかし、言は、自分を受け入れた人、 その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた」と書かれています。細か い話は割愛しますが、ここで「言」はキリストのことだと思ってください。そ うしますと、神の子とされるには、ただキリストを受け入れ、キリストを信じ ればいいのだ、ということになります。なるほど単純です。これだけ知れば十 分であるかのように思えます。しかし、少し先に進んで、2章23節をご覧く ださい。そこには確かに「多くの人がイエスの名を信じた」と書かれておりま す。ところが、その後に次のような言葉が続くのです。「しかし、イエス御自 身は彼らを信用されなかった」。人間の心の中をよくご存じである主イエスは、 彼らが「信じた」ということで、それを単純に良しとはされなかったことが分 かります。

 さらに、少し飛びまして8章30節をご覧ください。そこには「これらのこ とを語られたとき、多くの人々がイエスを信じた」と書かれています。それは 次の「イエスは、御自分を信じたユダヤ人たちに言われた」と続きます。念を 押すかのように、「御自分を信じたユダヤ人たち」と書かれているのです。し かし、彼らとキリストの関係はどうなってしまうのでしょう。この後、彼らキ リストとのやりとりが記されているのですが、その結末は59節に記されてい ます。「すると、ユダヤ人たちは、石を取り上げ、イエスに投げつけようとし た。しかし、イエスは身を隠して、神殿の境内から出て行かれた」。これはど うしたことでしょう。彼らは信じたのではなかったでしょうか。

 さらに顕著なのは、少し戻りまして6章に記されている出来事です。6章の 中ほどには、主イエスがカファルナウムの会堂において語られたとされる一連 の言葉が記されています。それを聞いた弟子たちは何と言ったでしょうか。6 0節にはこう記されております。「ところで、弟子たちの多くの者はこれを聞 いて言った。『実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか』」。

彼らはもちろんイエスを信じたから弟子になったのでしょう。しかし、主は 「あなたがたのうちには信じない者たちもいる」(64節)と言われるのです。

そして、66節では、「このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエ スと共に歩まなくなった」と書かれているのです。

 「その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた」――確かにそう書か れておりました。そうです、信じるだけでよいのです。しかし、既に見てきま したように、事はそう単純ではありません。ヨハネによる福音書は、ただ信じ ることを勧めているのではなくて、「信じる」ということの内容を問題にして いるのです。今日私たちは、ヨハネによる福音書15章の「ぶどうの木の喩え 」をお読みしました。私たちは、この喩えにおいても、キリストを信じる者と して生きるとはいかなることかを、しっかりと聞き取らなくてはならないので す。

●キリストにつながるとは

 それでは、15章1節以下をご覧ください。ここでまず目に付きますのは、 「つながっている」という言葉の繰り返しです。これは「留まっている」とも 訳せる言葉です。今日の短い区分だけでも原文においては7回ほど出てきます。

このように「つながっている」あるいは「留まっている」という言葉が強調さ れるのは、その背後に「留まっている」ということが困難であった状況がある からなのでしょう。すると、案の定、その後に迫害の予告が続いていることに 気づきます。

 この福音書が書かれたのは、紀元一世紀の末頃であろうと言われます。それ はキリスト教がユダヤ教から公式に切り離されることとなった時代でありまし た。すなわち、イエスを主と告白するユダヤ人は、会堂から追放され、ユダヤ 人のコミュニティから追い出されることになったのです。これは初期のキリス ト教会にとって恐るべき事態でありました。ユダヤ教は、当時のローマ帝国の 中にあっては公認宗教です。ところが、キリスト教はローマ帝国の公認宗教で あるユダヤ教の外に出されてしまったのです。それは、ローマ帝国の国家的な 迫害の対象となる危険を意味しました。事実、その後、教会は長い迫害の時代 を経験することになるのです。そのような困難の中で、やはり教会の交わりか ら身を引く人々、公に信仰を告白することをはばかる人々、ユダヤ人であるな らばユダヤ教に戻っていく人々などが起こってきたのでした。それはまさに 「留まっている」ことの困難な時代でありました。

 ヨハネがこの15章を書き記したのも、そのような事情を背景としてのこと だと思われます。お気づきになった方もあるかと思いますが、最後の晩餐の場 面は、14章の終わりで一応完結しております。そこには「さあ、立て。ここ から出かけよう」という主の言葉が記されているのです。その前の14章30 節で主は「もはや、あなたがたと多くを語るまい」と言っておられます。です ので、明かにそこで弟子たちに対する主の説話は終わりになるはずなのです。 にもかかわらず、ヨハネがあえて調和を破ってまでその後を書き記したのは、 どうしてもこの主の言葉を伝えておきたいと願ったからでしょう。そのような 困難な時代であるからこそ、教会はこのキリストの言葉を聞かなくてはならな い。そのような思いをもって、主イエスの語られたぶどうの木の喩えを書き加 えたのだと思うのです。

 この箇所において、キリストを信じるということは、キリストにつながって いること、キリストに留まっていることとして語られております。では、キリ ストにつながっているとはどういうことでしょうか。

 多くの人は、信仰とは単に心の中の現象であると考えています。ですので、 キリストにつながるということも、単に心情的なこととして捉える人が多いの です。せいぜい、心の中でキリストを慕わしく思うこと、キリストのことを忘 れないこと、イエス様にお祈りすること、ぐらいにしか考えないのです。しか し、キリストがそのようなつもりで言ったのでないことは明らかです。なぜな ら、もし心の中でキリストにつながっているだけならば、その後の迫害の予告 は不必要だからです。心の中でキリストにつながっているだけならば、困難や 迫害はいくらでも回避できるのです。他人に知られないように、ひそかに、心 の中に留めていれば良いのですから。

 初期の教会が困難に直面したのは、公に「イエスは主である」と告白したか らでありました。存在が知られないような形で社会の中に溶け込んでしまうの ではなくて、共に集まって「イエスは主である」と告白し、共にキリストを礼 拝する共同体を形作ったからなのです。そのような具体的な目に見えるキリス ト者としての姿をもって生き、福音を証しして生きたからこそ、彼らは迫害と いう事態に直面することになったのです。このように、「キリストにつながる 」とは、心の中だけにおいてつながっていることではないのです。「キリスト につながる」とは、信仰を言い表しつつ福音を世に証しする教会を形作り、そ して自ら信仰を言い表してその教会につながり教会に留まるという具体的な形 を取るのです。すなわちここで語られていることは、そのような具体的なキリ スト者としての生活において「キリストにつながっている」ということに他な らないのです。

●わたしもあなたがたにつながっている

 そうしますと、なぜこのキリストの言葉が伝えられねばならなかったかが見 えてきます。これはまさしく、キリスト者として信仰を言い表し、目に見える 形で教会につながって生きることが困難な時に必要なキリストの励ましであり、 慰めの言葉だからです。

 このキリストの言葉は、決して私たちに無縁のものではありません。もちろ ん、私たちは必ずしも初期のキリスト者が経験したような迫害を経験するとは 限らないでしょう。しかし、現実の生活においては、キリストへの信仰を表さ ずに隠していたほうが都合の良い場合はいくらでもあるのです。心の中だけに 留めておいた方が楽なことはいくらでもあるのです。キリストの救いを証しす るよりは、キリストのキの字にも触れないで、この世のことだけを話してした ら、ただ普通の「良い人」でいられる場合はいくらでもあるのです。キリスト 者として共に集まって礼拝し、キリストの体なる教会につながっている者とし て生活することが困難な事情が生じることもあるでしょう。それよりは、むし ろこの世の原理に従って、この世の人として、この世が求めるとおりに、この 世の流れに身をまかせて生きる方を選びたくなることもあろうかと思うのです。

このように、具体的なキリスト者としての生活において「つながっている」 「留まっている」のか否かを問われる場面は、私たちの人生においてはいくら でも経験することでしょう。それはまた、求道者がいざ洗礼を受けて公にキリ スト者として生き始めるのかどうかというときに、しばしば直面する問題でも あるに違いありません。ですから、ただ心の中でキリストを信じているだけで いる方を選びたくなるのです。

 しかし、教会が、信仰者が、このようにつながっていることの困難を経験す ることは、むしろ必要なことだとキリストは言われるのです。2節をご覧くだ さい。そこで教会が経験しているのは父なる神のなさる手入れなのだ、と主は 言われるのです。それは確かに、実を結ぶ枝であるかどうか、すなわち命の通 った枝であるかどうかが厳しく問われる時ではあるでしょう。それまでその人 が信仰と呼んできたものの内容が問われる時に他なりません。しかし、父なる 神の目的は、枝を切り落とすことそのものではないのです。むしろ2節の強調 点は後半にあります。実を結ぶ枝がいよいよ豊かに実を結ぶようにと、手入れ はなされるのです。神の望んでいることは、あくまでも実り豊かな枝とするこ となのです。

 それは、その後のキリストの言葉によっても分かります。キリスト御自身が 私たちに対して呼びかけ給うのです。「わたしにつながっていなさい」(4節) と。あなたのような枝は、切り落とされてしまいなさい、父によって取り除か れてしまいなさい、とは言われないのです。キリストの願いは、私たちが切り 落とされる枝、投げ捨てられて枯れてしまう枝になることではないのです。主 は、それがどんなに悲惨なことであるかを知っておられるからです。だから、 切々と呼びかけられるのです。「わたしにつながっていなさい」と。

 そして、主は私たちにつながっていることを求めるだけでなく、「わたしも あなたがたにつながっている」と約束してくださいます。私たちはいかなる意 味においても、孤軍奮闘しているのではありません。私たちがどのような状況 にあってもなおキリストへの信仰を言い表し、キリスト者として生きようとす るときに、主御自身が「わたしもまたあなたがたにつながっているよ」と言っ て励ましてくださるのです。キリストの命に与り続けることなくして信仰者が 生きていくことはできないこと、キリストがつながっていてくださることなく して信仰者は決して成長し実を結ぶことはできないことを、何よりもキリスト ご自身が一番良くご存じだからです。枝は、自らの努力と能力で実を結ぶので はありません。キリストが「わたしもあなたがたにつながっている」と言って くださるならば、私たちは自らの成長と実りについては、もはや何一つ案じる 必要はないのです。幹につながった生きている枝が成長し実を結ぶのは自然な ことだからです。「人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっ ていれば、その人は豊かに実を結ぶ」(5節)と主が言われるとおりです。私 たちがひたすら求めるべきことは、キリストという幹につながり続けること、 キリストの内に留まり続けることなのであります。

 先に申しましたように、これらの言葉は、最後の晩餐の場面に続けて、それ を補完するような形で書き加えられております。確かに、ヨハネによる福音書 は、最後の晩餐の場面において、他の福音書のように聖餐の起源を伝えてはお りません。しかし、今日の聖書箇所が最後の晩餐と結び付けられているように、 「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている」とい う御言葉は、私たちが聖餐に与る度に心に留めるべき御言葉であると言えるで しょう。

 
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