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「キリストの律法」

2000年5月28日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 ヨハネ15・9‐17

●わたしの愛にとどまりなさい

 「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたし の愛にとどまりなさい」(9節)。

 愛するということは、一方通行でもあり得ます。愛は相手の状態を問いませ ん。愛は、自分に敵対する者にも向かいます。愛は、自分を憎む者をそのまま 受け入れます。「愛は忍耐強い。愛は情け深い…」(1コリント13・4)と パウロは言いました。これは、真の愛が決して自然の感情ではなく、忍耐強さ や情け深さを要する意思的な行為であることを意味します。そのように真の愛 は、相手の状態に左右されないものなのです。実に、キリストが弟子たちを愛 されたのは、そのような愛をもってでありました。弟子たちがキリストを愛し たから、キリストが弟子たちを愛したのではありません。弟子たちが愛される に値するから愛されたのではありません。キリストの愛は、まったく一方的な ものでありました。「わたしもあなたがたを愛してきた」と主は言われるので す。

 しかし、愛に基づいた「交わり」は、一方的なものではあり得ません。交わ りは一方通行では成り立たないのです。一方がどれほど愛したとしても、交わ りが成り立たないことがあるのです。それゆえに、キリストはただ「わたしも あなたがたを愛してきた」と言うだけでなく、「わたしの愛にとどまりなさい 」と言われるのです。それはぶどうの枝が幹につながっており、幹と枝の間に 樹液が行き来するような生きた交わりを指し示しています。そのような生きた 愛の交わりの中に弟子たちが自らとどまることを、主は求めておられるのであ ります。

 では、「愛にとどまる」とはどのようなことでしょうか。主は明瞭にその内 容を語っておられます。「わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているよ うに、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっているこ とになる」(10節)。

 「愛にとどまる」ということを、単に心の問題と考えてはなりません。これ は心の問題ではなく、具体的な生活の問題です。単に「キリストの愛を感じて 生きる」ということでなければ、「キリストへの愛情をもって生きる」という ことでもありません。それは父なる神とキリストとの関係を考えれば分かりま す。父なる神は子なるキリストを愛されました。そして、子なるキリストも父 なる神を愛されました。そこに父と子との愛の交わりがありました。それがキ リストが「父の愛にとどまる」ということでありました。そして、キリストの 父への愛は、単に心の中の事柄でなかったことは明瞭です。愛は具体的な形を 取るのです。それは父への従順として現されました。「父の掟を守る」と書か れているとおりです。心の中のことではありません。それは現実に十字架へと 向かう歩みを意味したのであります。

 そのように、私たちがキリストの愛に留まるということも、それが単に心の 中のことではあり得ません。キリストの愛に対する応答も、具体的な形を取る のです。それはキリストへの従順です。「あなたがたも、わたしの掟を守るな ら、わたしの愛にとどまっていることになる」と主が語られるとおりです。そ れは毎日の生活に関わります。その毎日の積み重ねである人生全体に関わるの です。

●互いに愛し合いなさい

 では、その掟とはなんでしょうか。キリストの愛に応え、キリストの望まれ るように生きるとはいかなることを意味するのでしょうか。主はこう言われま す。「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわ たしの掟である」(12節)。日本語で読みますと良く分からないのですが、 10節に出てくる「掟」というのは複数で書かれています。しかし、12節の 「掟」は単数です。ここでキリストはすべての命令、すべての掟をたった一言 に集約しておられるのです。それは何でしょうか。「互いに愛し合いなさい」 ということです。

 「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわた しの掟である」(12節)。これは漠然とした隣人愛の教えではありません。 キリストは目の前にいる具体的な弟子たちに語っておられるのです。キリスト が「互いに愛し合いなさい」と言われた時、彼らが横を見ると、隣にいる別の 弟子の顔がそこにあるのです。隣にいるのは、固有の名前と顔を持ち、固有の 性格を持った一個の人格であります。彼らのある者は元徴税人であり、ユダヤ の同朋を裏切って生きていたような人でありました。そして、別のある者は、 もともと熱心党に属する民族主義者でありました。どう考えましても、彼らが 顔を見合わせることのできる場所に共に立っているのは、元来彼らが望んだか らではありません。ただキリストが一人を愛し、もう一人を愛されたというゆ えに、そこに共にいるのです。そのような現実を前にして、主はなお彼らに言 われるのです。「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。 これがわたしの掟である」。

 「すべての人を愛するべきである」と言われれば、「そうだ、そのとおりで ある」と答えられるかも知れません。しかし、「あなたの一番身近な人を愛し なさい」と言われると、とたんに困難を覚えるものです。「隣人愛は大切だ」 と言うならば、それに反対する人はいないでしょう。しかし、キリストは、教 会において顔を合わせる、性格も違う、物の見方も考え方も感じ方も違う、具 体的な個人を指し示して、「互いに愛し合いなさい」と言われるのであります。

それこそが、キリストが私たちを愛されたその愛への応答なのだ、と言うので す。それこそが、愛の応答としての従順に他ならないのであります。

 もちろん、主がこれらのことを語られるのには理由があります。主は言われ ます。「これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、 あなたがたの喜びが満たされるためである」(11節)。

 主は「わたしの喜びが…」と言われます。私たちは何気なく書かれているこ の小さな言葉を重く受け止めなくてはなりません。と言いますのも、主はどう 考えても喜びを語ることのできる状況にはいなかったからです。主は御自分の 身に何が起ころうとしているかを良くご存じであられました。主は人々から見 捨てられ、権力者からは憎まれ、裁かれ、十字架にかけられて殺されるであろ うことを良く知っておられたのであります。これは自らの死を目の前にした人 の言葉です。いったいどれだけの人が、自らの死を目の前にして、なお「わた しの喜び」について語ることができるでしょうか。

 私たちはしばしば「喜び」について語ります。あるいは語らずとも、常に私 たちは自分を喜びを追い求めます。どうしたら自らを喜ばせることができるか を考えます。しかし、主が十字架を前にして「わたしの喜び…」と語られる時、 私たちが日ごろ喜びと考えているものが、一気に色あせていくのを覚えます。 それらはまことに中身のない籾殻のような、ちょっと風が吹けば飛び去ってし まうようなものに過ぎません。そして、実際にそれらが飛び去ってしまうのを しばしば経験してきたのではないでしょうか。

 主の喜びは、十字架を前にして語ることのできる喜びでありました。この世 の権力によっても、身近な者の裏切りによっても、何ものによっても奪われる ことのない喜びでありました。死によってさえも奪われない喜びでありました。 そして、主はその喜びが私たちの内にもあるようにと願われたのであります。 「これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなた がたの喜びが満たされるためである」(11節)。

 その喜びとは、変わることのないキリストと父なる神との愛の交わりからく る喜びでありました。キリストが、変わることのない父なる神の愛にとどまる ことからくる喜びでありました。「掟」と「喜び」というのは、私たちの頭の 中でなかなか結びつきにくい二つの言葉であるかも知れません。しかし、10 節の「掟を守る」という言葉を聞いて、私たちは掟の鎖に雁字搦めに縛られた 喜びのない律法主義を考えてはならないのです。キリストは父なる神に、奴隷 として従ったのではありません。愛されている子として、愛をもって父に従っ たのです。同じように、キリストは弟子たちが喜びのない奴隷のように仕える ことを望んではおられません。むしろ、キリストが望んでいることは、御自分 が持っていた喜びを、私たちと共有することなのです。

●あなたがたはわたしの友である

 それゆえ、キリストは今や弟子たちを「僕」ではなく「友」と呼び給います。

「わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。もはや、 わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないか らである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなた がたに知らせたからである」(14‐15節)。

 「友」という言葉で何をイメージするかは人それぞれでしょう。ここでも、 キリストが友と呼んでくださる、キリストが友となってくださる、ということ について、様々なイメージが描かれ得るに違いありません。例えば、寂しい時 に共にいてくれる方。悲しい時に慰めてくれる方。うれしい時に共に喜んでく ださる方。確かにキリストはそのようなお方であるに違いありません。

 しかし、ここで語られているのは、単にそのようなセンチメンタルな事柄で はないのです。ここを理解するためには、旧約聖書に遡らなくてはなりません。

聖書の中で、ただ1人だけ、神から「わたしの友」と呼ばれた人物が出てきま す(イザヤ41・8、歴代下20・7)。アブラハムです。そのアブラハムと 神との対話が創世記には出てきますが、あの罪の町ソドムとゴモラが裁かれる 直前に神はアブラハムにこう言われるのです。「わたしが行おうとしているこ とをアブラハムに隠す必要があろうか」(創世記18・17)。そして、ソド ムとゴモラを裁かれるおつもりであることをアブラハムに示されたのでした。 つまり、神はその友であるアブラハムと、その御心、そのご計画を共有された のです。

 ここで、キリストが「あなたがたはわたしの友である」と言われる時に意味 しているのも、アブラハムの場合と同じです。あの神とアブラハムとの関係が、 ここにおけるキリストと弟子たちとの関係なのです。キリストもまた、御自分 の為そうとしていることを友である弟子たちに示されたからです。キリストは 自らの命を捨てて従おうとしておられた神の救いの計画を、友である弟子たち に明らかにされたのであります。

 私たちがキリストの弟子となるべく、そして友となるべく召されているのは、 そのようにキリストによって明らかにされた神の救いの御計画に参与するため に他なりません。主は言われました。「あなたがたがわたしを選んだのではな い。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、そ の実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えら れるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである」(16節)。このよ うに、私たちは実を結ぶようにと召されているのです。教会とは、そのような 主の目的のもとにあるのです。ここで語られているのは、「出かけて行って実 を結び」と書かれているように、宣教の実りであり、救いの実りのことであり ます。そのような実が豊かに結ばれ、その実が残るようにと、すなわち人々が キリストの愛に留まるようにと、教会は召されているのです。

 しかし、ここで大変興味深いことは、実を結ぶために「出ていって何かを行 いなさい」ということが第一に語られているのではない、ということです。繰 り返して語られているのは、「互いに愛し合いなさい」ということです。まず 今召されている弟子たちが、互いに愛し合うことであり、そのような教会を形 作ることなのです。主は「これがわたしの命令である」と言われるのです。

 主の弟子たちは、まずキリストが召してくださったという理由以外の何もな いところで、互いに愛し合うことを学ばねばなりません。キリストがしてくだ さったように互いに受け入れ合い、キリストがしてくださったように互いに赦 し合い、共に生きることを学ばねばなりません。そのようにして、キリストが 「わたしの掟」と呼ばれることに従わねばならないのです。そうして、キリス トの友として、キリストが「わたしの喜び」と呼ばれる真の喜びを共有してこ そ、出ていって永遠に残る実を結ぶことができるのです。教会においてキリス トに救われた者として生きることなくして、外においてキリストの救いを伝え られるはずはありません。自らキリストに従う喜びに生きることなくして、世 に出ていって人々をキリストに従うことへと招くことはできないはずです。

 「わたしがあなたがたを愛したように」――キリストは私たちを愛して、命 を捨ててくださいました。その事実は必然的に次の言葉へと私たちを導くので す。「互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である」。

 
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