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「キリストの祈り」

2000年6月4日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 ヨハネ17・1‐26

 聖書は、キリストが父なる神との不断の交わりを持ち、祈りつつ生きられた ことを記しています。ある時には夜を徹して祈られたと伝えています。しかし、 キリストの祈りの言葉は新約聖書にはほとんど記されてはおりません。そうい う意味では、この箇所は貴重です。私たちは、キリストの祈りを書き記してく れた福音書記者に感謝しなくてはなりません。

 私たちは、まず、ここに書き記された言葉を通して、私たち自身がどのよう に祈るべきかを学ぶことができます。私たちと同じ一人の人間として天の父に 祈られたキリストの祈りは、私たちに祈りの模範を示しているのです。そして、 さらに、ここに書き記されているのは、独り子なる神が父なる神に祈られた祈 りとして、特別な意味を持っています。父なる神と永遠の交わりをもっておら れる方が祈られた祈りです。それゆえ、この祈りは永遠に生き続ける祈りです。 聖書は、「復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、 わたしたちのために執り成してくださる」(ローマ8・34)と教えています。 キリストはかつてこれらの言葉をもって祈られたように、今も私たちのために 祈り続けていてくださるのです。

●未来に目を向けて

 キリストは弟子たちと共に食事をし、語り合われました。そこに残ったのは わずか一握りの人々でした。キリストの三年に渡る宣教の働きによって残った のはそれだけでした。しかも、残った弟子たちは、まことに貧しく弱い人々で した。キリストは一番弟子とも言うべきペトロにさえ、こう言われます。「は っきり言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと 言うだろう」(13・38)。また他の弟子たちについても主は言われました。

「あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにす る時が来る。いや、既に来ている」(16・32)。やがてこれらは現実とな っていきます。キリストは弟子たちについても、自分の置かれている状況も、 すべてご存じでありました。間もなく、皆に見捨てられて十字架にかけられな くてはならないことを知っておられたのです。

 しかし、そのキリストがこう祈られるのです。「父よ、時が来ました。あな たの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えてください」 (1節)。何と驚くべき勝利に満ちた祈りの言葉でしょうか。そして、その後 に、さらに意外な驚くべき言葉が続きます。

 8節をご覧下さい。「なぜなら、わたしはあなたから受けた言葉を彼らに伝 え、彼らはそれを受け入れて、わたしがみもとから出てきたことを本当に知り、 あなたがわたしをお遣わしになったことを信じたからです。」いくらなんでも、 これは言い過ぎではないでしょうか。彼らは「本当に知り」そして「信じた」 のでしょうか。もしそうなら、どうして主を見捨てて逃げていくことなどあり 得るでしょうか。

 いや、それだけではありません。「わたしは彼らによって栄光を受けました 」(10節)。そのように主は言われるのです。いったい彼らの何がキリスト の栄光となったというのでしょう。また、11節でもこう言われます。「わた したちのように、彼らも一つとなるためです。」これも現実とは余りにもかけ 離れた言葉です。他の福音書によるならば、彼らは最後の晩餐の席においてさ え、誰が一番偉いかと言い争っているではありませんか(ルカ22・24)。

 また、20節ではこのようなことも祈られています。「また、彼らのためだ けでなく、彼らの言葉によってわたしを信じる人々のためにも、お願いします。 」私たちは、そこにいるのが後の使徒ペトロであり、使徒ヨハネであるという 先入観を捨ててここを読まなくてはなりません。目の前にいる彼らの惨めな現 実を見るならば、このような祈りの言葉は到底出てこないはずです。自分を見 捨てて散っていく弟子たちを目の前にしながら、どうして「彼らの言葉によっ てわたしを信じる人々」について祈ることができるのでしょう。

 しかし、皆さん、これがキリストの祈りなのです。キリストは目の前の彼ら を見て祈っておられたのではないのです。彼らの未来を見て祈られたのです。 彼らの惨めな現実を見て祈られたのではないのです。父なる神の真実を見上げ て祈られたのです。そして、キリストはそのように私たちのためにも祈ってい てさるのです。キリストがご覧になられるのは、現在の私たちの弱さや惨めさ ではありません。真実なる父なる神の御業によって私たちがいかなるものとな るか、その姿を見つつ、私たちのために執り成してくださるのであります。そ して、祈りとはそのようなものであることを私たちは教えられるのです。であ りますならば、私たちもまた、そのように祈るべきでありましょう。私たちは、 哀れな弟子たちを前にして、彼らを通して救われる多くの人々を思いつつ祈ら れたキリストの姿を私たちは忘れてはなりません。

●彼らを守ってください

 さらに、キリストが祈られた内容を見ていきましょう。6節以下では、特に 大きく分けて四つのことが祈られています。二つは目の前にいる弟子たちのた め、そして二つは弟子たちを通してキリストを信じる人々のためです。いずれ も私たちにとって大きな意味を持つ祈りです。

 その第一は「彼らを守ってください」という祈りです。「わたしは、もはや 世にはいません。彼らは世に残りますが、わたしはみもとに参ります。聖なる 父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください。わたし たちのように彼らも一つとなるためです」(11節)。

 「御名によって彼らを守って下さい」とは、また「御名の内に彼らを守って ください」とも訳せる言葉です。イエス様が祈っておられるのは、ただ彼らが 災難や試練から守られることではないのです。そうではなくて、いつも御名、 神様の名の内にいられるように、との祈りなのです。つまり、もっと分かりや すく言うならば、いつでも神に属する者であるように、ということなのです。 神を離れ、神の名の外に出てしまうことがないようにということなのです。キ リストは、弟子たちが皆、一つとなって父なる神との交わりの中に留まること が出来るようにと祈られたのであります。

 しかし、これは「彼らが世を離れた信仰者だけの共同体を作るように」とい う祈りではありません。信仰者はとかくそのようなものを求めがちです。しか し、キリストはこう祈られるのです。「わたしがお願いするのは、彼らを世か ら取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです」(15節)。 キリストは彼らが世に留まることを求められます。なぜなら、彼らは世におい て使命があるからです。後にキリストはこう言われます。「わたしを世にお遣 わしになったように、わたしも彼らを世に遣わしました」(18節)。

 私たちは世から離れて信仰を保つのではありません。世に遣わされた者とし て生きるべく召されているのです。キリストは私たちに目的を持っておられま す。私たちの人生は自分自身のためにあるのではありません。私たちは自分の ために世に生きるのではなく、キリストのために世に生きるのです。

 とはいえ、世において信仰に生きることは戦いでもあります。その戦いの真 の相手は世ではありません。周りの人々ではありません。どれほど迫害を受け ている人であっても、真の敵は迫害者ではありません。キリストは「世から守 られるように」とは祈っていないではありませんか。そうではなく、「悪い者 から守ってくださるように」と祈っているのです。「悪い者」とはいわゆる 「悪人」のことではありません。これは英語で言うならば、The Evil One、す なわち悪魔のことです。私たちを罪に陥れ、神から引き離し、滅ぼそうとする 大きな力です。そのような力の働く中を私たちは生きていかなくてはなりませ ん。私たちはその「悪い者」の力を思えば思うほど、キリストの祈ってくださ ることの有難さが分かります。キリストの執り成しなくして、私たちは一時た りとも神の御名のもとに留まることはできないでしょう。それほど弱い存在な のです。私たちが今、こうしてあるを得ているのは、決して私たちの力ではあ りません。それゆえ、私たちもまた、キリストの祈りに合わせて、共に神の守 りを祈り求めなくてはなりません。

 そして、第二の祈りは、「彼らを聖なる者としてください」という祈りです。

(17節)「聖なる者」となる、ということは、いわゆる「聖人」になるとい うことではありません。神に属する者として生きるということです。19節の 言葉を用いるならば「ささげられた者となる」ということです。キリストの祈 りは消極的には「神の名の内に守られるように」ということでした。しかし、 積極的には、「神にささげられた者として生きられるように、神のものとして 生きられるように」ということだったのです。

 先ほども18節に読みましたように、キリストは私たちを世に遣わしておら れます。しかし、「使命に生きる」と聞くと、いつでも私たちはまず「何をす るか」ということに思いが向くのではないでしょうか。しかし、キリストは 「彼らが偉大な働きを成すことができるように」と祈っているのではないので す。「ささげられた者となるように」と祈っておられるのです。本当に大切な ことは、人生において「あなたが何を成したか」ということではありません。 「あなたは誰のものであったか」ということなのです。元気な人もあれば、寝 たきりの人もあるでしょう。優れた人もあれば平凡な人もいるのです。それぞ れ、そのような者として世に遣わされるのです。そこでまず大切なことは「何 が出来るか」ではなくて「誰のものとして生きているか」ということなのです。

神のものとして生きるところに神の栄光が現れるのです。

●すべての人を一つにしてください

 そして、キリストは、弟子たちを通して御自分信じるであろう人々のために 祈られます。第三の祈りは、「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしが あなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたした ちの内にいるようにしてください」(21節)という祈りでありました。キリ ストが弟子たちのために祈り、さらに代々のキリスト者を心の内に見つつ祈ら れたのは、すべての人を一つにしてください、ということです。実際、人と人 とが共に生き、一つとなることは何と難しいことでしょうか。しかし、キリス トは教会においてまずそれが実現するようにと祈られたのであります。それは 単に組織的に一つとなるように、ということではありません。全体主義的な一 致でもありません。「彼らもわたしたちの内にいるようにしてください」とい う祈りです。つまり、キリストと父なる神との愛と信頼の交わりの中に、人々 もまた共にいることができるようにという祈りなのです。神との交わりにおい て一つとなることが求められているのです。

 私たちが真に共に生きることを求めるならば、私たちは神との交わりに留ま らなくてはなりません。信仰者の熱心さと、信仰者が神との生きた交わりにあ る事とは、常に同じではありません。むしろしばしば異なります。祈りを欠い た使命感、真の礼拝を失った熱心さは分裂や対立をもたらし共同体に害毒をも たらすだけです。私たちは、父なる神とキリストとの交わりの内に召されてい ること、そのためにキリストが祈られたことを忘れてはならないのです。それ ゆえ、私たちもこのことを祈り求めなくてはなりません。

 最後にキリストは「父よ、わたしに与えてくださった人々を、わたしのいる 所に、共におらせてください」と祈ります。キリストは、最終的に、私たちが 来るべき世においても共にいることが出来るようにと祈って下さいます。私た ちの与えられている主との交わり、そして互いの交わりは、この世において終 わるのではありません。なぜなら、キリスト御自身が永遠に共にいることを望 んでいてくださるからです。キリストがそのために祈っていてくださる。それ はなんと幸いなことでしょうか。

 これが、十字架の死を間近にひかえ、目の前に惨めな十一人の弟子だけを持 つ一人の方の祈りでありました。彼らが御名の内に守られるように、そして神 にささげられた者となるように、彼らを通して人々がキリストを信じ、神との 交わりにおいて一つとなるように、そして最終的に永遠にキリストと共にある ように――。そこに私たちが立ち会ってこれを聞いたなら、それはきっと非現 実的な単なる理想のように聞こえたことでしょう。確かに祈りが伴わなければ、 このような理想は理想に終わってしまうに違いありません。しかし、祈りのあ るところ、理想は向かうべき確かな希望となるのです。キリストは祈られまし た。このことを願われ、今も祈っておられます。私たちの現在ではなく、未来 を見ながら祈っておられます。ならば、私たちもこれらを切に祈り求めなくて はなりません。私たちが神の内に守られ、真に神に捧げられた者となり、神と の交わりにあって真に一つとなり、やがて来る日に、私たちがキリストと共に いること。このことを、キリストの祈りに支えられながら、私たちもまた祈り 求めていきたいと思うのです。

 
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