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「真理の霊」

2000年6月11日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 ヨハネ15・26‐27

 約二千年前のあるペンテコステ(五旬祭)に起こった出来事を、使徒言行録 は次のように伝えております。「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集ま っていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座 っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一 人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、"霊"が語らせるままに、 ほかの国々の言葉で話しだした」(使徒2・1‐4)。このようにして、教会 の宣教の歴史は始まりました。今日はその出来事を記念して共に礼拝するため にここに集っております。

 このように、教会の誕生は大変不思議な出来事として描かれています。しか し、重要なことは、この出来事の不思議さそのものではありません。そうでは なくて、教会の宣教の歴史は、ただ人間の決断や努力によって始まったのでは なく、神の霊によって、神の働きとして開始したという事実であります。

 それは今日、この国にも教会があり、その教会に私たちが加えられていると いうことにも関係します。それはただ人間の決断や努力によるのではありませ ん。神によるのです。一人のキリスト者がキリスト者として今存在するのは、 ただ単にその人の決心と意志によるのではありません。神によるのです。私た ちが今こうしているのは、ただ単に私たちの意志によるのではなく、神の御業 であり、神の霊による奇跡なのです。そうです、私たちがここで目にしている のは、何ら特別な人間ではありません。ここに存在するのは、まことに欠けだ らけの罪人の集団です。教会の歴史そのものを見ましても、私たちは事実、そ こにまことに恐るべき人間の醜さや過ちを見出します。しかし、それでもなお、 ペンテコステの祝いの日を迎える度に、教会は単なる人間の意志が支配する人 間的な集団ではなく、そこには神的な次元、神の霊の働きがあることを思い起 こさせられるのです。

 さて、今年のペンテコステの礼拝において私たちに与えられているのは、ヨ ハネによる福音書15章26節と27節です。次のように書かれています。 「わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、 父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさる はずである。あなたがたも、初めからわたしと一緒にいたのだから、証しをす るのである」。今日、私たちは主イエスが用いられた二つの呼び名を心に留め ましょう。一つは「弁護者」であり、もう一つは「真理の霊」です。これらの 言葉を思い巡らしながら、私たちに聖霊が与えられていることの意味を、よく 考えたいと思うのであります。

●弁護者である聖霊

 第一に、聖霊はここで「弁護者」と呼ばれています。これは聖書協会訳では 「助け主」と訳されていました。その他に、「慰め主」と訳されている聖書も あります。一言では訳しきれない、豊かな意味内容を持つ言葉であるというこ とでしょう。もともとは「パラクレートス」という言葉であります。直訳する と「傍らに呼ばれた者」という意味の言葉です。ですから、それが法廷の場面 で用いられると弁護者となるわけです。しかし、たとえ「弁護者」と訳されま しても、私たちは、特に現在の職業的弁護士のような存在を想像する必要はあ りません。今のように資格のある弁護士がいたわけではないのです。弁護者と いうのは要するに味方になってくれる人です。自分の側に立ってくれる人です。

それは多くの場合親しい友人などでありました。ここで言われているのは、そ のような方を主イエスは遣わしてくださる、ということであります。

 その御方について、主は別の箇所で次のように語っておられます。「わたし は父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒に いるようにしてくださる」(14・16)。「別の弁護者」という言葉は、既 に第一の弁護者が存在することを前提としています。その第一の弁護者は主イ エス御自身に他なりません。まさに弟子たちにとって、主イエスとは助け主で あり慰め主であり、常に味方として傍らに立ち給う御方でありました。しかし、 肉をとられた地上の存在としてでありますならば、主イエスは永遠に弟子たち と共にいることはできません。主イエスとの交わりは、時間的空間的な制約の もとにあるのです。しかし、父のもとから遣わされる「別の弁護者」である聖 霊は、そのような制約のもとにありません。まさに聖霊こそ、「永遠にあなた がたと一緒にいるようにしてくださる」と言える御方なのです。そして、その ような弁護者が遣わされ、共にいるということは、あの最初の弟子たちにとっ ての弁護者であり助け主であった主イエスが、永遠に共にいてくださるに等し いと言えるでしょう。ですので、主はまた弟子たちに、「わたしは、あなたが たをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る」(14・ 18)と言われたのです。聖霊はキリストの霊に他ならないのであります。

 私たちは、このペンテコステの礼拝において、そのような弁護者と共にあり、 またそのような形においてキリストとの交わりに生かされている私たちである ことを、まず共に喜びたいと思うのです。キリスト者とは、単にあのナザレの イエスの教えを信奉している人でも、単にあの方を模範として生きようとして いる人でもありません。キリスト者とは、主が父のもとから遣わされた弁護者 なる聖霊と共に生き、その御方を通して今も生きておられるキリストとの交わ りに生きる者であります。

 しかし、私たちは、この弁護者が遣わされ、永遠に共にいてくださるという ことについて、これを単に信仰者の個人的な心の経験として捉えてはなりませ ん。「助け主」とか「慰め主」という訳は、どうもそのような誤解を招きやす いようです。何か困った時に助けてくださる方、寂しい時、悲しい時に慰めて くださる方、ぐらいにしか考えていないとしたら、それは主イエスが意図した ことではないでしょう。それは、今日お読みした言葉が置かれている文脈を考 えてみればすぐに分かります。それは、18節以下に記されている「迫害の予 告」であります。

 信仰が個人的な心の中の経験に留まっている限り、迫害は問題になりません。

迫害が問題になるのは、見える形でキリストの弟子として、キリスト者として 生きようとする時です。「お前はあのキリストの弟子たちの仲間か」と問われ て、「いいえ」と答えるならば、迫害はいくらでも回避できるのです。そのよ うに、迫害が問題になるのは、人が教会と共に生き、目に見えるキリスト者と して福音を世に証しして生きようとする時であります。

 このように、主が「弁護者を遣わす」と言われたこの言葉は、キリスト者が キリスト者として生きることが困難となる時、教会に連なる者として生きるこ とが決して容易ではない場面を前提として語られているのです。もちろん、そ のような困難をもたらすのは、必ずしも初期の教会が経験したような迫害とい う障害ばかりではないでしょう。信仰生活を妨げる要因は、その他にも、この 世に満ち満ちているのであります。なぜなら、この世そのものはキリストに従 ってはいないからです。むしろ、キリストに敵対しているからであります。

 しかし、そのような世界に生きている私たちであるからこそ、弁護者が遣わ されているということが大きな意味を持つのです。聖霊を、弁護者、助け主、 慰め主として経験するとは、何よりもまず、この世にあって、キリスト者とし て保たれ、教会と共に信仰を告白し福音を証しする者として保たれるという経 験に他なりません。それは決して、教会生活を離れた、個人的な神秘体験の類 ではないのです。

●真理の霊である聖霊

 さて、次に移りましょう。第二に、聖霊は「真理の霊」と呼ばれています。 聖書が「真理」という時、それは学んで得られるような抽象的な概念ではあり ません。主イエスは、最後の晩餐の場面で、弟子たちに次のように語られまし た。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だ れも父のもとに行くことができない」(14・6)。このように、聖書は、こ のキリストこそ真理そのものであると言っております。それは父なる神への道 となってくださった一人の御方です。人はその御方を知ることによって真理を 知るのです。その方との交わりを持つことによって人は真理に与るのです。

 知的な伝達であるならば、ただ人の言葉によって、書かれた文字によって、 成し遂げられるかも知れません。しかし、キリストが伝えられるということは、 人格的な出会いです。それはただ人の言葉、人の証言によっては成り立たない のです。もちろん、主は弟子たちの証言が必要ではないとは言われません。 「あなたがたも、初めからわたしと一緒にいたのだから、証しをするのである 」(27節)と語られているとおりです。世々の教会は今日に至るまで、人間 の言葉をもって、キリストを伝えてきました。人間が証しすることがなくても 神の御業によってキリストは伝えられるのだ、などと教会が考えたことは決し てありませんでした。初めの使徒たちの証言、そして人の言葉をもってなされ る宣教の働きを大切にしてきたのです。しかし、そのような教会の言葉、聖書 の証言は道具立てに過ぎません。それを用いてキリストとの出会いを与え、キ リストとの交わりを与え給うのは、聖霊の働きに他ならないのです。神の御業 によらないならば、どれほど雄弁な教会の宣教も、虚しく中身のない抜け殻で しかないでしょう。それゆえ、その前に、「父のもとから出る真理の霊が来る とき、その方がわたしについて証しをなさるはずである」(26節)と語られ ているのです。

 そして、さらに主はキリストを証しする真理の霊の働きについて、次のよう に語っています。「しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたが たを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、 聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからであ る。その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告 げるからである」(16・13-14)。

 「これから起こることをあなたがたに告げる」という言葉を、一般的な未来 予告のことと考えてはなりません。なぜなら、主が語られる「これから起こる こと」は、十字架と復活を中心とした具体的な内容を持っているからです。こ こで「告げる」と訳されている言葉は「予告する」というよりも、むしろ「報 告する」とか「教える」という意味の言葉です。真理の御霊は、特にキリスト の十字架と復活の出来事を語り直し、教えることによって、人を救いの真理へ と導くのであります。

 そして、事実それが弟子たちに、そして世々の教会に起こってきたことであ りました。キリストの十字架も復活も昇天も、歴史の中、時間の中において起 こった出来事です。それはまた、時が経てば過去に属する出来事になってしま うということを意味します。しかし、弟子たちも、またその後のキリスト者も、 ただ単に生前の主イエスを偲び、十字架の出来事を思い起こしていただけでは ないのです。そうではなくて、「あの十字架はわたしのためであった。あの復 活はわたしのためであった」と受け止めてきたのです。そこにこそキリストと 出会い、キリストと交わりがあったのです。そのように、真理の聖霊が十字架 の出来事を語り直し、告げ知らせ、教え、救いの真理へと導いてくださったの であります。

 その聖霊の働きを信じ、信頼するからこそ、私たちは今日もなお、キリスト の出来事を宣べ伝えているのであります。聖霊の働きを信じるのでなければ、 聖餐において語られる「これは、わたしたちのために裂かれた主イエス・キリ ストの体です。これは、わたしたちのために流された主イエス・キリストの血 潮です」という言葉は、まことに愚かな戯言に過ぎません。私たちが、今日も 聖餐を行い、また求道中の方々にも「どうぞ洗礼を受けて、聖餐にあずかって ください」と招き続けているのも、真理の霊である聖霊の働きを信じているか らです。

 あの聖霊降臨の日、教会の宣教が開始したその日、そこに集まっていたのは 何ら特別な人々ではありませんでした。今も、ここに集められているのは、何 ら特別な人間ではありません。欠けだらけの人間たち、まことに貧しい罪びと の集まりであります。しかし、ペンテコステの祝いのこの日、このような私た ちと共に、弁護者であり真理の霊である聖霊が共にいてくださることを感謝し たいと思うのです。そして、この御方の御業に信頼し、私たちは教会につなが り信仰を告白し、神の用い給う道具として自らを献げ、宣教の業に励んでいき たいと思うのであります。

 
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