「霊から生まれた者」
2000年6月18日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 ヨハネ3・1‐17
●新たに生まれなくてはならない
ニコデモという人が、ある夜、主イエスのもとにやってきました。彼は「フ ァリサイ派」、すなわち非常に厳格に律法を守って生活している一派に属して いました。また彼は「ユダヤ人たちの議員」でありました。すなわち彼は、サ ンヘドリンという71名からなる議会の議員であり、ユダヤ人社会において指 導的な立場にあったのです。また、彼は「イスラエルの教師」(10節)とも 呼ばれています。そのように、宗教的にも伝統に忠実であり、学識もあり、人 々からの信望も厚く、影響力も大きかった人でありました。しかし、そのよう な彼が、夜、人目をはばかるようにして、主イエスのもとに来たのです。
それは、そのような行動へと彼を突き動かした強い求めが彼の心の内にあっ たことを意味します。言い換えるならば、彼は、イエスという方によって満た してもらわねばならない、自らの生活の欠けを自覚していたということです。 欠けているものを満たす何らかの教えを請うために、彼は主イエスのもとに来 たのでした。しかし、主は唐突にも、ニコデモにこのように語られます。「は っきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできな い。」ニコデモに必要なのは、今の彼に足りない何かを加えて完成することで はなく、「新たに生まれること」だと言われるのです。
現代においても、多くの人が、自分には大切な何かが欠けていると感じつつ 生きております。ニコデモのように、物質的にも精神的にも恵まれている人で ありましても、なお自分の人生には決定的に足りない何かがあることを思いつ つ生きております。そして、その欠けを満たすために宗教を求めます。自分の 生活に既に持っているものに、なおプラスアルファを付け加えて完成するため に、キリストのもとに赴く人も多くいます。しかし、キリストは言われるので す。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ること はできない」。人が救いを得るのは、今持っているものに、何かを付け加える ことによってではないのです。教えや訓戒を得てより良き者となることによっ てではありません。改良や改善を必要としているのではないのです。そうでは なくて、「あなたは新たに生まれなくてはならないのだ」と主は言われるので あります。
●水と霊とによって生まれる
しかし、ニコデモはこれを理解することができませんでした。彼は問います。
「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎 内に入って生まれることができるでしょうか。」彼は、主イエスの言葉に反論 するために屁理屈をこねているのではありません。私たちが、ニコデモのこの 言葉の中に聞くのは、今日もなお多くの人々の内にある心の叫びであります。 これは現実を知り尽くした者の悲しい叫びなのです。
「年をとった者が」とニコデモが言っているように、彼自身老年に達してい たのでしょう。彼は長い人生の道のりを既に歩んできたのです。ヘブライ的な 彼の名前から、彼は生粋のヘブライ人であることが察せられます。幼いときか ら律法を教えられ、ユダヤの伝統の中で、良きユダヤ人であるためにあらゆる 努力をして生きてきたに違いありません。しかし、人が真面目に生きようとす ればするほど、正しく生きようとすればするほど、人間の醜さ、自らの罪深さ を思い知ることになります。そして、そのように人が生き、老年に近づけば近 づくほど、「新しく生まれる」などという言葉は縁遠いものとなるのです。 「そんなことは、もう一度母の胎に入って生まれ直すというようなことでも起 こらない限り無理ではないか!」これが老年に達した一人の人の実感であった に違いありません。
しかし、主イエスはもう一度ニコデモに言われます。「はっきり言っておく。
だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉 から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。『あなたがた は新たに生まれねばならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない」 (5‐6節)。
「新たに生まれる」という言葉を、主は「水と霊とによって生まれる」と言 い換えておられます。「水」というのは洗礼を指していると考えてよいでしょ う。今日も礼拝において一人の方が洗礼を受けられます。あの時代において行 われていたように、約二千年を経た今日においてもなお教会が水を用いて同じ ように洗礼を授けているというのは、考えようによっては大変驚くべきことで あります。このように、世々の教会は今日に至るまで一貫して、水を用いて授 ける洗礼を大切にしてまいりました。しかし、洗礼がいかに重要なものである とはいえ、水そのものが人を新しく生まれさせるかのように考えてはなりませ ん。水はあくまでも水です。また、一方でこれを極端に精神化して、洗礼を受 けるときの真剣さや悔い改めの深さがその人を新しくするかのように考えても なりません。主イエスは「水と霊とによって生まれなければ」と言われたので す。水はしるしです。霊は実質です。霊とは神の霊、聖霊のことです。人は洗 礼を受けるとき、水によって新しく生まれるのではありません。聖霊によって 新しく生まれるのです。「聖霊によって」とは、「神によって」ということに 他なりません。人を新しく生まれさせるのは神なのです。神の霊によるのです。
実は、「新たに生まれる」と訳されている言葉自体、これは「上より生まれる 」とも訳し得る言葉なのです。つまり、その言葉そのものが「神よって生まれ る」という内容を示しているのです。
では「新たに生まれる」ことによって、いったい何が新しくなるのでしょう か。「神によって生まれる」のですから、そこにおいてまず新しくされるのは、 神との関係であるに違いありません。人は、神の霊によって、神との新しい関 係に生まれるのです。これをパウロはローマの教会に宛てた手紙の中で次のよ うに表現しています。「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。あ なたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を 受けたのです。この霊によってわたしたしたちは、『アッバ、父よ』と呼ぶの です」(ローマ8・14‐15)。聖霊によって私たちは神の子とされ、神と 交わり、神に導かれ、神の命によって生きるものとされるのであります。
人が新たに生まれ、新しく生き始めるためには、神との関係が新しくされな くてはなりません。神を失った古い生活をどれほど手直ししても、改善しても、 心を入れ替えて新しい生活をスタートしたとしても、神との関係が変わらなけ れば、それは本質的には何も変わらないのです。それは「新たに生まれる」こ とにはなりません。ですので、「肉から生まれたものは肉である」(6節)と 主は言われるのです。「肉」とは、生まれながらの人間の本質です。肉はどれ ほど形を変えても、何かを付け加えても肉なのです。本当に必要なのは、少々 良くなることではなくて、神との関係において新たに生まれることなのです。
そして、「生まれる」という言葉が表していますように、人間はあくまでも 受身です。人間ができること神の成し給う御業に信頼することだけです。その ことについて、主はこう言われました。「風は思いのままに吹く。あなたはそ の音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生ま れた者も皆そのとおりである」(8節)。現代人は、風についていくばくかの 知識を持っています。しかし、主イエスの時代の人にとっては、風というのは まったく捉えどころのない神秘であったに違いありません。それこそ「どこか ら来て、どこへ行くかを知らない」のです。しかし、今日のように風について 科学的な知識を得ていようが、当時のように風について何にも知らなかろうが、 風が吹くという現象そのものはそんなこととは関係なく同じものであるわけで す。それは聖霊の働きについても同じなのです。大切なのは、聖霊が新たに生 まれさせてくださるという事実そのものなのであり、そのリアリティなのであ って、その働きを私たちが理解できるかどうか、ということではないのです。
今日の洗礼式においても同じです。私たちが為しえることは、一人の人の頭 に水をかけることだけです。浸礼という仕方で洗礼を授ける教会であるならば、 水の中に人を沈めます。できるのはそこまでです。目で見て、頭で理解できる のもそこまでです。ですから、そこまでしたところで、洗礼そのものは私たち 人間の手を離れます。もうできることは何一つありません。あとは神の御業の 領域です。神の霊の働きです。だから、私たちは祈って、洗礼そのものを手放 すのです。神にゆだねます。人間は完全に受身になります。あとその後に残さ れているのは、この洗礼を受けた兄弟の人生に、風が吹く音を聞くだけであり ます。つまり、聖霊の御業とその実りを感謝をもって見させていただくことだ けなのです。
●信じる者が永遠の命を得るために
しかし、ニコデモはなおも主に言います。「どうして、そんなことがありえ ましょうか」(9節)。それに対して主イエスは長い答えを返されます。特に その中の14節と15節をご覧ください。こう書かれています。「そして、モ ーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、 信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである」(14‐15節)。
主はニコデモに、人がどのようにして新たに生まれるか、ということについ てお話しにはなられませんでした。主は、むしろここで人が新たに生まれるこ とのできる根拠を話されるのです。そのために主は旧約聖書の物語を引用され ます。民数記21章4節から9節までの物語です。概略は次のとおりです。
イスラエルの民は神の救いによってエジプトにおける奴隷生活から解放され たのでした。しかし、人々は長い旅の途中で神の恵みを忘れ、耐え難くなって 不平を言うようになったのです。「なぜ、我々をエジプトから導き上ったので すか。荒れ野で死なせるためですか。パンも水もなく、こんな粗末な食物では、 気力もうせてしまいます」(民数記21・5)などと言い出したのです。する と「炎の蛇」と呼ばれる毒蛇が民を襲撃して多くの人々が命を落とすというこ とが起こりました。彼らは自らの罪に気づき、罪を悔い、モーセのもとに来て 言います。「わたしたちは主とあなたを非難して、罪を犯しました。主に祈っ て、わたしたちから蛇を取り除いてください」(同21・7)。そこでモーセ が主に祈ると、主は「あなたは炎の蛇を造り、旗竿の先に掲げよ。蛇にかまれ た者がそれを見上げれば、命を得る」(同8節)と言われました。さっそくモ ーセは青銅の蛇を造って掲げます。すると「蛇が人をかんでも、その人が青銅 の蛇を仰ぐと、命を得た」(同9節)のでした。これが主の引用された物語で す。
蛇にかまれた者は自らが救われるためにもはや何をもなしえません。しかし、 そのような彼らに、神はただ青銅の蛇を仰ぎ見ろと言われたのです。それが 「わたしたちは罪を犯しました」という彼らの言葉に対する神の答えでありま した。すなわち、掲げられた蛇は、罪が赦され、罪が取り除かれたしるしなの です。それゆえに、彼らは、神の言葉を信じてただ仰ぎ見るだけでよいのです。
そして、あの蛇と同じように、主イエス自身も上げられなくてはならないと言 われたのでした。それは十字架にかけられて地上から上げられることを意味し たのです。
主はあの呪われた蛇と同じように、まさにそこで私たちの代わりに呪われた ものとなられました。そのようにして、私たち全ての者が仰ぎ見ることのでき る、罪のゆるしのしるしとなられたのです。ここに新しく生まれることのでき る根拠があります。なぜ、人は新しく生まれることができるのでしょうか。な ぜ、どんな人でも、神と新しい関係を持ち、神の子として生きることが出来る のでしょうか。それは私たちの罪が赦されるために必要なすべてを、既にキリ ストが成し遂げてくださったからです。キリストが呪われた青銅の蛇になって くださったからなのです。
この主イエスの成し遂げてくださった救いの御業のゆえに、私たちは今日読 みました主イエスの言葉を、次のような私たちへの語りかけとして聞くことが できるでしょう。「あなたは新たに生まれて、神の国を見ることができる。」 「あなたは水と霊とによって生まれて、神の国に入ることができる。」「信じ る者は皆、人の子によって永遠の命を得ることができる。」アーメン。