「まだ信じないのか」
2000年6月25日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 マルコ4・35‐41
●向こう岸に渡ろう
今日お読みしましたのは、新約聖書の中でもたいへん良く知られた物語の一 つです。私自身のことを言いますならば、これは幼い頃教会学校などで繰り返 し耳にした聖書物語の中でも、お気に入りの一つでありました。この物語を聞 きます度に、嵐の中でうろたえる臆病な弟子たちの姿と、それとは対照的に、 嵐に向かって叱りつける頼もしいイエス様の姿が、幼い心の中に生き生きと描 き出されたものです。そして、「ああ、イエス様のお弟子さんたちと言っても、 随分弱虫だったんだなあ、臆病だったんだなあ」と、単純にそう思ったもので した。
しかし、やがて時が経ち、当時の幼子もそれなりに成長いたしまして、聖書 の読み方も幾分変わってまいりました。聖書の物語が、単なる昔話ではなくな ります。自分と関わりのある物語として読むようになります。その物語の中に、 ある意味で自分自身もまた登場してくるようになります。あの弟子たちのこと が他人事にできなくなります。すると、次第に、あの弟子たちが単なる臆病者 とは思えなくなってまいりました。
主イエスは「向こう岸に渡ろう」と言われます。弟子たちはその呼びかけを 聞きました。そして、その声に聞き従ったのです。群集は、湖畔に残りました。
弟子たちもまた同じ選択をすることが可能であったはずです。しかし、彼らは、 主に従って、兎にも角にもガリラヤ湖の上を漕ぎ出したのでした。イエスの弟 子なのだから共に行くのは当たり前でしょうか。いいえ、そうではありません。
弟子たちは、主イエスの申し出を断る、十分な理由を持っていたからです。
第一に、主イエスが「向こう岸」として指し示していたのは、5章1節に書 いてあるように、ゲラサ人の地方でありました。もっともゲラサそのものはガ リラヤ湖から50キロメートルほど離れていますので、正確にはデカポリス地 方(5・20)と言った方が良いかも知れません。いずれにせよ、それは異邦 人の地です。5章を読みますと、マルコがその地を墓場や豚の大群の結び付け ていることが分かります。それらは皆、ユダヤ人にとっては汚れたものなので す。ユダヤ人である弟子たちには、どうしてそのような地方に向かう必要があ るのか、理解できなかったに違いありません。さらに言えば、彼らは皆、主イ エスがイスラエルのために国を復興して下さることを、待ち望んでいた人々で ありました。そのような神の国の期待と、異邦人の地への旅は、どう考えても 結びつかなかっただろうと思うのです。この提案は明らかに主イエスだけの意 図に基づくものであって、そこに弟子たちの自然な願望は微塵も入っていなか ったということです。弟子たちとしては行きたくなかっただろうと思うのです。
そして、第二に、時は夕暮れでありました。ガリラヤ湖は丘に囲まれているた め、夕方には、時々、強い山おろしが吹くと言われます。弟子たちの多くはガ リラヤ湖の漁師です。このとき、湖に出るのが危険かどうかぐらい、その様子 を見て分かるはずです。仮に湖の向こう岸にどうしても渡って行かねばならな い理由があったとしても、もっと適切な時があるはずです。何も、今、夕暮れ に、湖に乗り出す必要はないでしょう。
しかし、彼らは主の申し出を聞き、従ったのでした。安全な岸辺に留まって 舟の行方を傍観している群集の中の一人ではなく、主イエスや他の弟子たちと 運命を共にする舟に乗り込んで漕ぎ出したのです。それがここに描かれている 弟子たちの姿なのです。もちろん、そのように主に従ったのは、あの最初の弟 子たちだけではないでしょう。その後、この物語を語り伝えた初代教会の人々 にとっては、「向こう岸に渡ろう」という主の言葉は、異邦人伝道への呼びか けを意味したに違いありません。ゲラサ人の地へ向かう主が、共に行こうと呼 びかけておられる。その声を聞いて彼らは従って行ったのです。
そして、世々の教会は、世々のキリスト者たちは、初代教会が異邦人伝道へ と導かれたように、「向こう岸に渡ろう」という主の呼びかけを聞くという経 験を繰り返してきたように思います。すなわち、それは主イエスへの従順が問 われる時であります。主イエスの弟子として主に従うのか、それとも群集とし て後に残るのか、それが問われる時であります。主が指し示す「向こう岸」は、 しばしば私たちの自然な願望とは相反する「向こう岸」であるからです。しか も、明らかにそこに向かうことは困難を伴うことが予想される「向こう岸」で あるからです。だからそこで従順が問われるのです。自分の願いを捨てなくて 良い時、何も犠牲を払わなくて良い時に、主の弟子として生きることは簡単で す。群集が主のもとに集まって来た時、主イエスの弟子であるということはむ しろ誇らしく、喜ばしいことであったに違いありません。しかし、その弟子た ちに、突然、「向こう岸に渡ろう」と言われるのです。主の弟子たちは、主と 共に漕ぎ出します。群衆は岸に残るのです。
●まだ信じないのか
さて、彼らがある程度漕ぎ進んだところで、激しい突風が吹いてきました。 「激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになるほどであった」(3 7節)と書かれております。弟子たちはこの嵐の中で命の危険を感じ始めます。
主イエスが「渡ろう」と言われるからこそ、一緒に乗り出したのに、その結果 は最悪でした。いったいどうしたことでしょう。しかも、「渡ろう」と言いだ した、当の本人は寝ているではありませんか。「先生、わたしたちがおぼれて もかまわないのですか」(38節)という彼らの非難の言葉も分からないでは ありません。そもそも、主イエスが「渡ろう」なんて言わなければ、こんなこ とにはならなかったのですから。様々な困難や災いは神に対する不従順の結果 なのであって、従順でありさえすればあらゆる障害は取り除かれるのだ。すべ てがうまくいったのは、私が神に従順であったからだ。そのような体験談を耳 にすることがあります。しかし、聖書は必ずしもそのようなことを伝えてはい ないようです。むしろ、主の御声に従って湖に漕ぎ出したために、かえって嵐 に遭遇するような出来事を伝えているのです。岸に残った群衆は、少なくとも この弟子たちのような酷い目には遭わないで済んだのです。
この物語を読んでいますと、旧約聖書に出てくる一人の人物を思い起こしま す。それはモーセです。彼は八十歳の時、神の呼びかけを聞きました。神は彼 にとてつもないことを要請されたのです。いわば、モーセに渡るべき「向こう 岸」が示されたのでした。それはイスラエルの民をエジプトから連れ出すこと であります。あの主の弟子たちがそうであったように、モーセにも神の要請を 断る十分すぎるほどの理由がありました。それゆえモーセは言います。「わた しは何者でしょう。どうして、ファラオのもとに行き、しかもイスラエルの人 々をエジプトから導き出さねばならないのですか」(出3・11)。しかし、 モーセと神との長い押し問答の末、彼は神に従いました。彼は兄アロンと共に ファラオのもとに行ってこう告げます。「イスラエルの神、主がこう言われま した。『わたしの民を去らせて、荒れ野でわたしのために祭りを行わせなさい 』と」(出5・1)。
モーセは神に従いました。漕ぎ出すべきところへ漕ぎ出したのです。さて、 結果はどうなったでしょうか。エジプト王は怒って、イスラエルの人々の労役 を非常に重くするのです。イスラエルの労役の責任を負っていた下役たちは、 「自分たちが苦境に立たされたことを悟った」(出5・19)と書かれており ます。結局、モーセは助けようとしたイスラエルの人々から、かえって非難さ れる結果となりました。下役たちはモーセとアロンに言います。「どうか、主 があなたたちに現れてお裁きになるように。あなたたちのお陰で、我々はファ ラオとその家来たちに嫌われてしまった。我々を殺す剣を彼らの手に渡したの と同じです」(同21節)。漕ぎ出した先には嵐が待っていました。その時モ ーセは神にこのように訴えます。「わが主よ。あなたはなぜ、この民に災いを くだされるのですか。わたしを遣わされたのは、一体なぜですか。わたしがあ なたの御名によって語るため、ファラオのもとに行ってから、彼はますますこ の民を苦しめています。それなのに、あなたは御自分の民を全く救い出そうと されません」(出5・22‐23)。この言葉は、弟子たちの発した言葉に似 ているように思いませんか。弟子たちも、眠っている主イエスにこう叫んだの です。「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」。
あのモーセの言葉にしても、あの弟子たちが主イエスに向かって発した叫び も、私たちにとって馴染みの深い言葉でしょう。「おかまいにならないのです か」。私たちもまたしばしばこう叫びます。私たちの目から見ると、主イエス が私たちの現状に対して、全く関心を持っておられないように見える時がある のです。まさに、この物語のキリストのように、一人で眠っておられるように 見える時があるのです。「わたしたちがおぼれても、おかまいにならないので すか」。
彼らの訴えに対して、主イエスはどのようにお応えになったでしょうか。 「イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、『黙れ。静まれ』と言われた。す ると、風はやみ、すっかり凪になった」(39節)と書かれております。こう して、結果的に、弟子たちは嵐から救われました。しかし、私たちはこの奇跡 そのもの、この奇跡によって助かったという結果そのものだけに目を留めてい てはなりません。もし、それが一番大事なことであるならば、その後に主イエ スはこう言われたことでしょう。「あなたたちは嵐から救われた。もう大丈夫 だよ。心配することはない。」しかし、主はそう言われないのです。風を叱っ た主イエスは、弟子たちをも叱責するのです。「なぜ怖がるのか。まだ信じな いのか。」
重要なことは、彼らが助かったことではありません。そうではなくて、助か る以前に、既に同じ舟の中に「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」と言い得 る御方がおられた、ということなのです。どんなに嵐に翻弄されようと、波を かぶって水浸しになろうと、彼らと同じ舟の中に確かに主イエスはおられたの です。聖書は、主に従うならば嵐に遭わないとは言いません。主に従って嵐に 遭うことはいくらでもあるのです。しかし、そこでただ一つ確かなことがあり ます。主に従っているならば、主が共におられるということです。岸辺に留ま るのではなく、主の呼びかけを聞いて舟に乗り込んで漕ぎ出したのならば、主 もまたその舟の中に共におられるということです。当たり前のことではありま せんか。主は「向こう岸に渡れ」と言われたのではなくて、「向こう岸に渡ろ う」と言われたのですから。
そして、主イエスが共におられるならば、弟子たちもまた神の全き支配のう ちにあるのです。神の御手の中で主イエスが安んじておられるならば、同じ舟 の中にいる弟子たちもまた安んじていればよいはずなのです。もしおぼれるな らば、主イエスも一緒におぼれるはずなのですから。しかるに、人はどうして も、主の平安よりも現実の波乱の方に気をとられてしまいます。自分がおぼれ てしまうということしか考えられなくなるのです。そのような彼らにとって本 当に必要なのは、ただ波風を静めてもらうことではありませんでした。苦境か ら救われることではありませんでした。嵐のただ中において、なお信じる者と なることだったのです。神の支配に身をゆだねる者となることだったのです。 それゆえに主イエスは言われるのです。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか 」。主は従う者に信仰を求め給うのであります。