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「霊に満たされて」

2000年7月2日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 エフェソ5・6‐20

●詩編と賛歌と霊的な歌によって

 「酒に酔いしれてはなりません。それは身を持ち崩すもとです。むしろ、霊 に満たされ、詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほ め歌いなさい。そして、いつも、あらゆることについて、わたしたちの主イエ ス・キリストの名により、父である神に感謝しなさい」(エフェソ5・18‐ 20)。今日、私たちは特にこの御言葉を心に留めたいと思います。

 この地に礼拝堂が建てられて七年の歳月が過ぎました。私たちは、今日に至 るまで、この場所に共に集まり、礼拝を捧げてまいりました。この場所は、今 日の聖書の箇所にあるように、私たちが霊に満たされ、詩編と賛歌と霊的な歌 によって語り合い、主に向かって心からほめ歌うための場所でありました。そ して、これからもそのような場所であり続けることでしょう。

 しかし、それにしてもこの聖書の言葉が、まず「酒に酔いしれてはなりませ ん」と言っていることは大変興味深いことだと思います。霊に満たされて主を 礼拝することが、この聖書の言葉においては、酒に酔いしれることと対比され ているのです。「酒に酔いしれてはなりません」と書かれていましても、これ を単なる禁酒の勧めのように読んではなりません。「それは身を持ち崩すもと 」であることは、誰もが良く知っているのであって、そのようなことは聖書が わざわざ語らなくても、他の人が言ってくれることでしょう。ここで大切なこ とは、あくまでもこの言葉が、「霊」すなわち神の霊、聖霊に満たされること と対比されているということです。つまり酒に酔いしれることが身を持ち崩す もとになるということも確かに大きな問題なのですが、本当の問題の中心は聖 霊が満たすべきところを酒が満たしているということなのです。

 人間の生には神のみが埋めることのできる空洞があるようです。神を無視す ることはできても、その空洞の存在を無視することはできません。現実の生活 に関わっているからです。ですから、人はありとあらゆるものでその空洞を埋 めようといたします。時として酒がそのために用いられます。ここで酒につい て語られているのは、特に当時行われていた、酒の神ディオニュソスの祭儀に 伴う熱狂と興奮が背景にあると言われます。そのように、人は時として、人為 的に作られた熱狂と興奮によって、自らの心の空洞を埋めようといたします。 あるいはそのような酒の作用の類だけではなく、ありとあらゆるものが単なる 一時しのぎの偽りの代替物となり得ます。しかし、それが代替物でしかないな らば、時を経ればもとの木阿弥です。そこには相変わらず空洞がぽっかりと口 を空けていることに気づきます。

 私たちが、こうして礼拝堂へと導かれているということは、そのような一時 的な代替物で空洞を埋めて誤魔化すような人生のあり方から導き出されている ことを意味します。むしろ神の霊に満たされて、神との交わりの中に生きるよ うにと招かれているのです。そうです、先にも申しましたように、この場所は、 私たちが聖霊に満たされて、詩編と賛歌と霊的な歌をもって語り合い、主に向 かって心からほめ歌うための場所なのです。

 もちろん、私たちが現実にこの場所において過ごす時間は、決して長くはあ りません。週の中の一日、しかもその一日のまた限られた時間に過ぎません。 しかし、こうして過ごす時が、他の時のあり方を確実に方向付け、決定するの です。

 先ほど読みました聖書箇所をご覧ください。新共同訳聖書ですと19節で文 が切られています。しかし、原文においては19節と20節は繋がっている一 つの文なのです。19節の「詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い」という 言葉は、ある意味では奇妙な分かりにくい言葉であるに違いありません。しか し、少なくとも、「語り合い」と言うのですから、その言葉は共に集まってい ることを前提としていることが分かります。つまり19節は共に集まっている 時に関する勧めなのです。これに対して、20節は、「いつも、あらゆること について」という言葉が示しているように、毎日の生活に関する勧めです。こ れらは互いに結びついているのです。つまり、共に集まっているこの時が、 「いつも、あらゆることについて」私たちがどうするかを決定するのです。1 9節があって初めて、「いつも、あらゆることについて、わたしたちの主イエ ス・キリストの名により、父である神に感謝しなさい」という勧めが語られ得 るのです。

 考えてみれば、これは至極当然のことであると言えるでしょう。空虚な生活 からは感謝は生まれません。酒や人為的な興奮で一時的に満たされたように思 っても、それが偽りの代替物である限り、毎日の生活に出てくるのは不平や不 満ばかりです。私たちの生活に、父なる神への感謝が溢れるには、私たち自身 が神によって満たされていなくてはなりません。私たちは聖霊によって満たさ れなくてはならないのです。

●光の子として歩む

 さて、この御言葉の意味するところをさらに良く理解するために、少し前に 遡ってみましょう。8節をご覧ください。そこにはこう書かれております。 「あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっていま す。光の子として歩みなさい」(8節)。そうしますと、先ほど読みました箇 所も、光の子として歩むに当たっての具体的な勧めの一部であることが分かり ます。そこで今、この「光の子として歩む」ということについて考えてみたい と思います。

 「光の子として歩みなさい」と言われているのは、以前には暗闇であった者 が光とされているからです。8節にそう書かれています。ここで「以前は暗闇 の中にいた」と書かれてはいないことに注意してください。自分が暗闇の中に いると感じている人は、世の中に少なくはないでしょう。自分の人生を「暗闇 」と表現するならば、その人はそのような暗闇の人生を生きている自分をきっ と不幸な可哀想な人間であると考えていることでしょう。しかし、聖書は、 「あなたがたは、以前は暗闇の中にいた不幸な人間であった」と言っているの ではないのです。「あなたがたは暗闇そのものだった」と言っているのです。 闇は自分の外にあるのではなく、自分自身が闇なのであり、闇をもたらしてい る存在なのだ、ということに人はなかなか気づきません。それこそが、闇の闇 たる所以なのです。

 それゆえ、私たちに与えられる救いもまた、闇の中にいる者が光の中に置か れることだけではなく、暗闇そのものであったものが光とされるところにこそ あるのです。だから、光とされているならば、光の子として歩むことが求めら れるのです。「光の子として歩みなさい」と語られているのです。

 そこで見落としてはならないのは、「今は主に結ばれて、光となっています 」(8節)という言葉です。「以前」と「今」。異なっているのは、今は「主 に結ばれて」いるということです。光となっているのは、あくまでも「主に結 ばれて」なのです。光の源は私たちのもとにありません。キリストこそ世を照 らすまことの光なのです。私たちは月の表面のようなものに過ぎません。ごつ ごつとしてそれ自体は醜いものでしかありません。しかし、キリストと結ばれ、 キリストの光を受ける時、私たちは光となり得るのです。そのように、私たち はキリストに結ばれている限りにおいて、光となるのです。

 「光の中にいます」というだけでなく、「光となっています」と書かれてい るということは、その光をもって周りを照らすことが期待されているというこ とを意味します。それはいわゆる「明るい人になる」ということではありませ ん。周りの雰囲気を明るくすることが求められているのではありません。そん なことよりも、遥かに激しいことが書かれております。11節以下をご覧くだ さい。そこには「実を結ばない暗闇の業に加わらないで、むしろ、それを明る みに出しなさい。彼らがひそかに行っているのは、口にするのも恥ずかしいこ となのです」と書かれているのです。「暗闇の業を明るみに出す」――これが 周りを照らす光となるということです。

 しかし、これは単に隠れた他人の罪を暴き、責め立てなさいということでは ありません。そのようなことであるならば、何も聖書が語らなくても、皆がし ていることではありませんか。そうでなくても、私たちは他人の罪ばかりを問 題にし、責め立てる傾向にあるのですから。ここで言われていることの意味を 正しく理解するためには、その続きを読まねばなりません。そこにはこう書か れているのです。「しかし、すべてのものは光にさらされて、明らかにされま す。明らかにされるものはみな、光となるのです。それで、こう言われていま す。『眠りについている者、起きよ。死者の中から立ち上がれ。そうすれば、 キリストはあなたを照らされる』」(13‐14節)。

 14節において、パウロが引用している言葉は、旧約聖書の中には見当たり ません。恐らく当時の賛美歌の一節であろうと思われます。「眠りについてい るもの、起きよ。死者の中から立ち上がれ。そうすれば、キリストはあなたを 照らされる。」ここには死者に対する呼びかけがあります。死んでいるのは、 必ずしも肉体的な生命を失った人々ではありません。肉体的に元気であること と、その人が本当の意味で「生きている」かどうかということは全くの別問題 です。この手紙の2章1節にはこう書かれております。「あなたがたは、以前 は自分の過ちと罪のために死んでいたのです」(2・1)。人が罪のために命 の源なる神から離れているならば、どれほど体が元気であろうと、その人は死 んでいるのです。そのように死んでいる者に、神が呼びかけられるのです。 「立ち上がれ」と。そして、キリストの光をもって照らそうとしておられるの です。

 であるならば、このキリストの光は、ただ罪を暴き出す光ではなく、人を罪 から救う恵みの光であるに違いありません。人を罪から救って永遠の命に生か す光であるはずです。神は、主に結ばれて光とされた者たちを通して、このよ うなキリストの光を世にもたらそうとしておられるのです。「明るみに出す」 とはそういうことです。キリストの恵みの光によって照らされて、初めて罪が 罪として明らかにされるのです。それまでは罪が罪として認識されないのです。

みだらなことであっても、汚れたことであっても、「口にするのも恥ずかしい こと」であっても、それは罪とは認識されないのです。キリストの光がもたら される時、初めてそれらがいかに深い闇の業であるかが分かってくるのです。 そうして、「明らかにされるものはみな、光となる」(14節)のです。つま り、そこで罪からの救いが起こるのです。

 他人の罪を暴き、責め立てるだけならば、「光の子として歩む」必要はあり ません。しかし、キリストの光、救いの光を照らす者として生きるためには、 光の子として歩まねばなりません。それは主と結ばれている者として生きるこ とに他なりません。「主に結ばれて、光となっている」のですから。

 そして、「主に結ばれて」とこの手紙に書かれています時、そこにはある具 体的なイメージが伴っております。それは「頭と体」です。例えば、今日お読 みしました箇所の後には、妻と夫に対する勧めが書かれていますが、その中に 次のような言葉が出てまいります。「キリストが教会の頭であり、自らその体 の救い主であるように…」(23節)、「わたしたちは、キリストの体の一部 なのです」(30節)。つまり、私たちがキリストに結ばれているのは、頭と 体との関係においてなのです。その体とは教会です。つまり、「キリストに結 ばれて」(キリストにあって)と言われているのを、単にキリストとの個人的 な交わりとして考えてはならないのです。体の一部分がそれだけで直接頭に結 びついているなどということはあり得ないのですから。

 そうしますと、「光の子として歩みなさい」ということについての具体的な 勧めの中に、なぜ礼拝の話が出てきたのかが分かりますでしょう。酒に酔いし れるのではなく、霊に満たされ、詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主 に向かって心からほめ歌ところにこそ、まさに頭に結ばれているキリストの体 が具体的な姿を現すからであります。主に結ばれて生きる生活、光の子として 歩む毎日の生活はそこから始まるのであります。そうです、こうして私たちが 週毎に集められている、この場所から始まるのであります。

 
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