「神の憐れみ」
2000年7月9日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 ホセア1・1‐2・3
今日から数回に渡ってホセア書を読んでまいります。その表題には「ユダの 王、ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの時代、イスラエルの王ヨアシュの子 ヤロブアムの時代に、ベエリの子ホセアに臨んだ主の言葉」(1・1)と書か れております。そこに列挙されているユダの王は、イザヤ書の冒頭に挙げられ ているのと同じです。彼は、預言者イザヤとほぼ同時期に活動した預言者であ ります。イザヤが南のユダ王国において活動したのに対して、ホセアの活動の 舞台となったのは北のイスラエル王国でありました。
イスラエル王国には、ホセアに先だって、アモスという預言者が現れました。
彼が神の言葉を語ったのは、主に1節に挙げられていますヤロブアム二世の治 世です。それは平和と繁栄の時代でありました。アモスは、そのような時代に 対し、民の罪を告発し、神の裁きを激しく語り、イスラエルの崩壊を告げたの です。そして、事実、ヤロブアムの死後、イスラエルは坂道を転げ落ちるよう に、崩壊への一途をたどったのでした。その時代の様子は、列王記下15章か ら17章に記されております。ヤロブアムの子ゼカルヤが王位にあったのはわ ずか六ヶ月でありました。彼は、ヤベシュの子シャルムの謀反によって殺害さ れました。そのシャルムが王位にあったのは、わずかに一ヶ月です。彼は、ガ ディの子メナヘムによって殺されました。メナヘムの死後王位についた彼の子 ペカフヤは、即位後二年で彼の侍従であったレマルヤの子ペカによって殺害さ れました。その後二十年間王位にあったペカもまた、エラの子ホシェアによっ て殺されます。そして、このホシェアの治世第九年に、アッシリアによってサ マリアはついに陥落せられ、イスラエル王国は滅亡に至ります。預言者ホセア が活動したのは、まさにそのような数十年に渡る激動の時代でありました。彼 は確かに、その崩壊へと向かう国家の状況の中に、アモスの言葉を聞きながら 決して悔い改めることのなかったイスラエルに対する神の裁きを見ていたので あります。
しかし、アモスと同じようにイスラエルの罪を告発し、神の裁きを語りなが らも、ホセアの預言の論調はアモスのそれとはまったく異なっています。その 違いをもたらした決定的な要因は、ホセアの預言活動の根底に、彼の非常に個 人的な家庭における経験があるという事実です。この預言書における最初の三 つの章において、私たちは、彼の悲しみに満ちた結婚と家庭の状況を垣間見る ことになります。そこに見ますように、ホセアにとって、神の言葉を聞き、そ して語るということは、彼の生活とは無関係な超自然的な神秘体験の類ではあ りませんでした。そうではなく、彼は現実の痛みと悲しみの中で、神の御声を 聞いたのであります。そのような彼でなければ聞き得ない言葉を聞き、そして 語ったのでした。
●ホセアの結婚
それでは内容に入っていきましょう。2節以下をご覧下さい。ここで「淫行 の女をめとれ」という言葉だけを読みますと、既にみだらな生活をしている女 性を、神があえてホセアと結婚させたように見えます。事実、このゴメルとい う女性を街の娼婦と考える人、あるいは聖所の祭儀と結びついていた聖娼と考 える人も少なくありません。しかし、ここは必ずしもそのように理解する必要 はないでしょう。むしろ、ゴメルの淫行そのものは、ホセアと結婚して後に現 れたと考える方が自然であるように思えるのです。それは以下の三つの理由に よります。
第一に、「淫行による子らを受け入れよ」(1・2)と言われながら、その 淫行の子らについては後に何も語られておりません。既に淫行によって産まれ た子供がいて、ホセアがその子らを受け入れたなら、その子供たちについての 言及がその後全く見られないのは不自然です。第二に、もしゴメルが淫らな女 であることが初めから前提とされている結婚ならば、2章4節以下の怒りに満 ちた告発の言葉は理解できません。これは明らかに信頼を裏切られた者の言葉 です。第三に、ゴメルとホセアの結婚関係は、イスラエルの民と神との関係の 比喩として語られています。しかし、この預言書においては、イスラエルの民 と神との関係が最初から悪いものであったとは書かれていないのです。イスラ エルの民は初めから淫行の女のごとき民であるとは書かれていないのです。む しろ、イスラエルの初めについては、「荒れ野でぶどうを見いだすように、わ たしはイスラエルを見いだした。いちじくが初めてつけた実のように、お前た ちの先祖をわたしは見た」(9・10)と記されているのです。
このように、ゴメルが実際に淫行の女となったのは、ホセアの結婚の後であ ったと考えるほうが良いようです。ですから、2節の主の言葉は、当初におい ては全く理解できなかったに違いありません。なぜ、自分の妻となる女性が淫 行の女と呼ばれているのか、なぜ「淫行の子らを受け入れよ」などと語られて いるのか、ずっと後になるまで分からなかっただろうと思うのです。この世の いかなる不幸な結婚においても、その最初の時点では誰も自分が特別な結婚を しているなどとは考えないものです。そのように、ホセアもごく当たり前の結 婚として、ディブライムの娘ゴメルをめとったに違いありません。
やがて、そのようなホセアとゴメルとの間に子供が産まれます。最初の子供 は、「イズレエル」と名付けられました。それは「神が種を蒔かれる」という 意味でありまして、聖書には地名として良く出てきます。人名としても用いら れています(歴代上4・3)。その名前自体は何ら特別な名前ではありません。
奇妙なのは、続く二人の子供の名前です。ホセアは次に産まれた女の子に「ロ ・ルハマ」と名付けます。それは「憐れまれぬ者」という意味です。そして、 次に産まれた男の子は「ロ・アンミ」と名付けられました。これは「わが民で ない者」という意味です。
ホセアはなぜそのような名前を子供たちに付けたのでしょうか。聖書は、主 がそのように命じられたからだ、と説明します。もちろん、結論から言えばそ の通りなのです。しかし、人間はよほどのことがない限り、そのような無茶苦 茶な名前を自分の子供に付けたりしないものです。そこで私たちはやはり考え ざるを得ないでしょう。このロ・ルハマとロ・アンミがホセアの実の子たちで はないのではないか。ホセアが受け入れるべき「淫行の子ら」とは彼らのこと ではないか、と。事実、3節の「彼女は身ごもり、男の子を産んだ」という部 分の原文には「彼(ホセア)に」という言葉が入っているのですが、第二子と 第三子については「彼に」という言葉はありません。そして、2章6節に至っ て、私たちは次のような言葉に出会います。「わたしはその子らを憐れまない。
淫行による子らだから。その母は淫行にふけり、彼らを身ごもった者は恥ずべ きことを行った」(2・6‐7)。
このように読んできますと、神がホセアに語られ、神の命じる通りに子供た ちに名前を付けたということは、それほど単純なことではないことが分かりま す。何も問題のないところで、あたかも占い師の言葉に聞くように、「あなた の子供にはこう名付けなさい」「はい、分かりました」と言って名前が付けら れたのではないのです。ホセアは、妻の不貞と家庭の崩壊という現実の苦悩の 中で、その嘆きと怒りの中で、神の言葉を聞いたのです。そのようにして、名 前が付けられたのです。
●イズレエル、ロ・ルハマ、ロ・アンミ
もう一度、子供たちに付けられた名前を見てみましょう。最初の子供はイズ レエルと名付けられました。先にも申しましたように、イズレエルは聖書によ く出てくる地名です。その美しい山間には、かつてイスラエルの王アハブと女 王イゼベルの避暑地がありました。しかし、そこはまた血塗られた革命の場所 でもあったのです。将軍であったイエフは、その地においてアハブの子ヨラム とその母イゼベルを殺し、さらにサマリアにおいてアハブの一族を全滅させた のです。こうして、イエフ王朝が誕生したのでした(列王記下9、10章)。
聖書はアハブ王家の滅亡を神の裁きとして記しています。しかし、ホセアは、 こうして生まれたイエフの王家もまた、神の裁きのもとにあることを知るので す。神の裁きによって滅びざるを得ないことを神によって示されたのです。そ して、実際、イエフ王朝はヤロブアムの子ゼカルヤが殺害されて終わります。 このような主の言葉は、決してホセアにとって意外なものではなかったでしょ う。ホセア自身もまた、主から離れてしまった国家の責任をイエフの王家に見 ていたに違いないからです。彼は、イスラエルの王家にこそ真っ先に神の裁き が臨まざるを得ないことを思いつつ、自分の子供にイズレエルという名前を付 けたのであろうと思います。
しかし、やがてホセアは、人間の罪の問題を、単に国家と社会、聖所を中心 とした宗教的な体制において見るだけでなく、最も身近な家庭の問題を通して 知ることになるのです。彼は妻であるゴメルに裏切られるのです。彼はどれほ ど怒り、嘆き、苦しんだことでしょう。その苦悩の生活の中に、さらに二人の 子供が生まれます。先にも申しましたように、この子供たちが2節に語られて いる「淫行の子ら」であることは十分に考えられます。いずれにせよ、子供が 生まれた時に、彼は主の言葉を聞くのです。「その子をロ・ルハマと名付けよ。
わたしは、もはやイスラエルの家を憐れまず、彼らを決して赦さないからだ」 (1・6)。「その子をロ・アンミと名付けよ。あなたたちはわたしの民では なく、わたしはあなたたちの神ではないからだ」(1・8)。
人から裏切られた時には、自分を裏切ったその人、そして裏切られた自分の ことしか考えられないものです。怒っている時には、自分がこの世で唯一怒る 権利を持っている人間であるかのように考えてしいるものです。嘆き悲しんで いる時には、自分が世界で最も不幸な人間であるかのように感じるものです。 怒りと悲しみは人を小さな世界に閉じこめます。人はそのような閉塞した世界 に身を置いて苦しみ続けます。それはホセアであっても同じであったろうと思 うのです。
しかし、彼は怒りと嘆きによって閉塞したその世界の中において、その外か ら響いてくる神の言葉を聞いたのです。それは単に彼を慰める言葉でも、励ま す言葉でもありませんでした。彼はそこで神の怒りの言葉を聞くのです。彼は、 自分自身の怒りにではなくて、神の怒りへと心を向けさせられるのです。自分 が妻の淫行によって嘆いているのと同じように、主を離れて淫行にふけってい るこの民のゆえに、主自らが怒り、そして嘆き悲しんでおられることを知るの です。そこには「わたしは、もはやイスラエルの家を憐れまず、彼らを決して 赦さない!」と叫ばざるを得ない神がおられるのです。そこには「あなたたち はわたしの民ではなく、わたしはあなたたちの神ではないからだ!」と叫ばざ るを得ない神がおられるのです。その主の怒りと悲しみを知ったがゆえに、ホ セアは主が示されるままにその子たちに驚くべき名を付けたのでした。ロ・ル ハマ――すなわち「憐れまれぬ者」、ロ・アンミ――すなわち「わが民でない 者」と。
ところが、2章に入りますと、そこには一転して次のように語られているこ とに驚かされます。「イスラエルの人々は、その数を増し、海の砂のようにな り、量ることも、数えることもできなくなる。彼らは、『あなたたちは、ロ・ アンミ(わが民でない者)』と言われるかわりに、『生ける神の子ら』と言わ れるようになる。ユダの人々とイスラエルの人々はひとつに集められ、一人の 頭を立てて、その地から上って来る。イズレエルの日は栄光に満たされる。あ なたたちは兄弟に向かって『アンミ(わが民)』と言え。あなたたちは姉妹に 向かって『ルハマ(憐れまれる者)』と言え」(2・1‐3)。
ここにはイスラエルの回復が預言されています。明らかに、既に民の滅亡が 現実となった、後の日の預言の言葉がここに入れられております。1章とのつ ながりは、明らかに良くありません。また、2章4節以下にもつながりません。
しかし、この預言の言葉がここにあることは、私たちに大切なことを示してお ります。それは、1章の最後に見た神の叫びは決して最後の言葉ではない、と いうことです。裁きと断罪の宣言は、最後の言葉ではないのです。神は最終的 に、そのようなロ・ルハマ(憐れまれぬ者)、ロ・アンミ(わが民でない者) と呼ばざるを得ない者たちを、あえてルハマ(憐れまれる者)、アンミ(わが 民)と呼ぼうとされるのです。「わが民でない者」は、「生ける神の子ら」と 呼ばれるようになるのです。神自ら、受け入れ難きを受け入れ、赦し難きを赦 そうとされるのであります。
私たちは、神が赦してくださること、受け入れてくださること、罪人を憐れ んでくださることを、いつの間にか小さく小さく考えているものです。しかし、 ホセア書の1章に続けてこの箇所を読みます時に、神の憐れみの大きさを思わ ずにはおれません。赦し難き者を赦すとするならば、自らが痛み、苦しみ、犠 牲を払わなくてはならないのです。ホセアの結婚における現実は、そのことを よく示しています。私たちは、このホセア書を読み進むにつれて、神が罪人を 赦されること、本来ならば到底神の民などとは呼ばれ得ない者が、その赦しに 基づいて神の民と呼ばれ、憐れまれる者と呼ばれることの重みを、さらに深く 知る者とされたいと思うのです。