「愛と背信」
2000年7月16日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 ホセア2・4‐15
先週に引き続き、ホセア書を読んでまいります。先週も申し上げましたとお り、ホセア書の最初の3章には、断片的にではありますが、預言者ホセアの個 人的な結婚生活の消息が伝えられております。1章では他者による報告の形を とって三人称によって語られ、3章では本人による報告の形をとって一人称で 語られているのです。そして、この1章と3章に挟まれる形で、2章の韻文に よる預言の言葉が記されております。
今日は2章4節から15節までをお読みしました。この部分は妻を断罪する 夫の激しい怒りの言葉から始まります。
告発せよ、お前たちの母を告発せよ。
彼女はもはやわたしの妻ではなく
わたしは彼女の夫ではない。
彼女の顔から淫行を
乳房の間から姦淫を取り除かせよ。
さもなければ、わたしが衣をはぎ取って裸にし
生まれた日の姿にして、さらしものにする。
また、彼女を荒れ野のように
乾いた地のように干上がらせ
彼女を渇きで死なせる。
わたしはその子らを憐れまない。
淫行による子らだから。
その母は淫行にふけり
彼らを身ごもった者は恥ずべきことを行った。(4‐7節前半)
私たちがまずここに聞きますのは、ホセア自身の怒りの声であることには間 違いないでしょう。「告発せよ」という言葉から、場面としては法廷を考える ことができます。しかし、実際の訴訟がなされていると考える必要はありませ ん。後の方を読みますと、このような表現はあくまでも形式であることが分か ります。いずれにせよ、この場合、4節で「彼女」と呼ばれているのはホセア の妻であるディブライムの娘ゴメルです。また、6節において「その子ら」と 呼ばれているのは、妻が不貞によって身ごもった子供たちということになりま す。
しかし、15節まで読んできますと、この部分では単純にホセアとゴメルの 個人的な関係のみを語っているのではないことが分かります。15節には、 「バアルを祝って過ごした日々について、わたしは彼女を罰する。彼女はバア ルに香をたき、鼻輪や首飾りで身を飾り、愛人の後について行き、わたしを忘 れ去った、と主は言われる」と書かれているのです。つまり、これはあくまで も預言の言葉なのです。単にホセアの個人的な感情から出た言葉ではありませ ん。ここで怒りをもって語っているのは、明らかに主(すなわちヤハウェ)な る神なのです。その場合、彼女と言われているのは、主に背いたイスラエルの 民であります。このように、この箇所に語られている預言の言葉においては、 二つの関係が重ね合わされております。一つは、ホセアとゴメルの不幸な関係 です。もう一つは、主なる神とイスラエルの民の間の不幸な関係であります。 ここに響いているのは、妻の不貞を怒るホセアの声であると同時に、イスラエ ルの民の不貞を怒る神の声なのであります。
ホセア書のメッセージを独特なものとしているのは、まさにこの二重の関係 であります。ホセアが預言者として神の言葉を聞き、民に語るということは、 単に超自然的な霊感によって神のメッセージを受けて伝えるということではあ りませんでした。そうではなくて、ホセアは自らの崩壊した家庭という現実の 痛みの中で、その痛みを通して、神の御心を知り、そして語ったのであります。
まさにその預言の言葉において、ホセアの苦悩と神の苦悩が一つとなっている のです。
●愛人についていった妻
そのことを踏まえた上で7節の後半をお読みします。このように書かれてい ます。
彼女は言う。
「愛人たちについて行こう。
パンと水、羊毛と麻
オリーブ油と飲み物をくれるのは彼らだ。」(7節後半)
ここで「彼女」と呼ばれているのは、ホセアの妻であり、同時にイスラエル の民であります。もちろん、これをそのままホセアの妻ゴメルの離反理由とし て読むことには多少の無理があるかも知れません。現実の結婚における破綻の 原因は、それほど単純ではないからです。しかし、そのことを弁えつつも、な お聖書独特の仕方で単純化されたこの言葉に耳を傾けることには意味があろう かと思います。聖書は、何よりもまず、この不貞の妻を、夫との真実な関係よ りも物質的な豊かさと欲望の充足を求めた愚かな女として描いているのです。 そして、この愚かな女の姿こそ、主に背いた愚かなイスラエルの民の姿に他な らないと預言者はここで語っているのであります。
イスラエルの民にとっての「愛人たち」とは、カナンの地においてもともと 地方ごとにまつられていた、通常バアルとして知られている神々でありました。
それはいわゆる生産の神であり豊穣の神であります。「バアル」という言葉自 体は、「主人」あるいは「所有者」という意味です。その名のとおり、バアル は各地方ごとに、その地域の所有者とされておりました。そして、その所有者 である男性神バアルと大地の女神との性的な関係において生じるのが大地の産 物であると考えられていたのです。
半遊牧生活をしていたイスラエルの民がカナンの農耕地帯に移住した時から、 このような豊穣神礼拝、バアル礼拝は様々な形において、イスラエルの民に関 わってきました。バアル祭儀は、常にイスラエルの民の心を引き付け、そして 深くその生活に入り込んでいたのです。私たちはそのようなイスラエルとバア ルとの関わりを、旧約聖書の中の多くの部分に見いだすことができます。それ はホセアが活動した時代においても同じでした。ホセアが活動を開始した頃、 ヤロブアム二世の時代、それはまだ繁栄と平和の時代でありました。そして、 そこには、経済的な繁栄の中で、さらなる豊かさを求め欲望の充足を求めて、 豊穣の神であるバアルを慕い求めるイスラエルの民の姿がありました。そこに は国を挙げて主なる神から離れ、バアルを求めるイスラエルの姿、より正確に はバアル化したヤハウェ礼拝において豊穣の神を求める民の姿がありました。 そのイスラエルの姿は、まさに欲望に動かされて愛人を求め、不貞に走った愚 かな妻の姿と同じであることを、主はホセアに示されたのであります。
主なる神とイスラエルの民との関係は、本来ホセア書に見るとおり、結婚に おける真実な愛の関係に類比され得るものです。それは妻と夫との関係なので す。申命記には「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あな たは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」 (申命記6・4‐5)という言葉があります。このように、主に愛されている 者として主を愛して生きる。主の恵みに応えて、主への信頼と従順に生きる。 それが主を礼拝する者の本来の姿であるはずでした。しかし、往々にして、人 は主御自身に関心を向けるのではなく、自分の願望の実現、欲望の充足にしか 関心を向けていないものです。しかし、もしそうならば、主を礼拝していると 言いながら、実際には求めているのは豊穣の神バアルに他ならないのです。神 が何を与えてくれるか、ということにしか関心がないならば、それはバアル礼 拝でありバアル宗教なのです。それは夫との関係を捨てて、「愛人たちについ て行こう。パンと水、羊毛と麻、オリーブ油と飲み物をくれるのは彼らだ」と 言っている愚かな女の姿と同じなのです。
●夫の行動
このような妻に対して、夫は行動を起こします。彼は何をしようとしている のでしょうか。先にも見ましたように、この箇所は妻に対する夫の激しい怒り の言葉から始まりました。夫は、「彼女はもはやわたしの妻ではなく、わたし は彼女の夫ではない」と叫んでいたのです。しかし、ここを読み進んで行きま すと、奇妙なことに、その言葉の通りには展開していないことに気づきます。 もはや妻でも夫でもないならば、そこにあるのは離縁だけでしょう。あるいは、 モーセの律法によるならば、不貞は死罪に当たります。石で打って殺してしま うこともできるのでしょう。しかし、この夫はそのように事を進めないのです。
8節以下には、次のように書かれているのです。
それゆえ、わたしは彼女の行く道を茨でふさぎ
石垣で遮り
道を見いだせないようにする。
彼女は愛人の後を追っても追いつけず
尋ね求めても見いだせない。
そのとき、彼女は言う。
「初めの夫のもとに帰ろう
あのときは、今よりも幸せだった」と。(8‐9節)
夫が願っていることは、妻との関係を断ち切ることでも滅ぼすことでもあり ませんでした。そうではなくて、妻が帰って来ることだったのです。私たちは ここに至って、あの怒りの叫びは愛するゆえの叫びでもあったことを知ること になります。妻でも夫でもないという激しい怒りの言葉は、真に妻と夫の関係 であることを求めているゆえの叫びでありました。主は、ホセアを通して狂わ んばかりに激しく叫びます。「彼女はもはやわたしの妻ではなく、わたしは彼 女の夫ではない!」しかし、これと同じほど激しく、主は背いている御自分の 民を求めておられるのです。主は人が立ち帰ることを求め給うのです。どんな ことをしてでも、取り戻そうとされるのです。そのためには、茨で道をふさぎ、 石垣で遮り、道を見いだせないようにさえするのです。
それが具体的にどのようなことを指すかは、10節以降に記されています。
彼女は知らないのだ。
穀物、新しい酒、オリーブ油を与え
バアル像を造った金銀を、豊かに得させたのは
わたしだということを。
それゆえ、わたしは刈り入れのときに穀物を
取り入れのときに新しい酒を取り戻す。
また、彼女の裸を覆っている
わたしの羊毛と麻とを奪い取る。
こうして、彼女の恥を愛人たちの目の前にさらす。
この手から彼女を救い出す者はだれもない。(10‐12節)
聖書は、物質的な豊かさそのものを悪であるとは言いません。それは主が与 えたものだ、と言うのです。しかし、豊かさを追い求めることが主の愛を見失 わせ、主との真実な関係を失わせるならば、主は自ら与えていたものを取り戻 すこともされるのです。ここで語られているのは、具体的にはヤロブアムの時 代に人々が享受していた繁栄を主が自ら取り去るということでありました。
そしてさらに主は言われます。
わたしは彼女の楽しみをすべて絶ち
祭り、新月祭、安息日などの祝いをすべてやめさせる。
また、彼女のぶどうといちじくの園を荒らす。
「これは愛人たちの贈り物だ」と
彼女は言っているが
わたしはそれを茂みに変え
野の獣がそれを食い荒らす。(13‐14節)
ヤロブアムの時代に、神殿における祭儀がどれほど盛大に行われていたかは、 預言者アモスが伝えています。しかし、それがどれほど盛大に行われていよう が、それが人間の欲望の投影でしかなく、実質的にはバアル礼拝でしかないな らば、主はそれをすべてやめさせる、と言われるのです。
バアルを祝って過ごした日々について
わたしは彼女を罰する。
彼女はバアルに香をたき
鼻輪や首飾りで身を飾り
愛人の後について行き
わたしを忘れ去った、と主は言われる。(15節)
主は御自分の民を罰せざるを得ません。主を忘れ去っている民を愛するゆえ に、罰せざるを得ないのです。確かに、この箇所に聞くのは大変厳しい言葉で あるに違いありません。しかし、私たちは、このような厳しい預言の言葉の中 にこそ、主に背く者たちを見捨てることなく、なおも関わり続けようとされる 主の真実を見るのであります。