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「苦悩の谷と希望の門」

2000年7月23日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 ホセア2・16‐25

●それゆえ、その心に語りかけよう

 今日は2章16節からお読みしました。その最初の言葉は「それゆえ」です。

この言葉によって、前の節につながっていることが分かります。その前には何 と書いてあるでしょう。「バアルを祝って過ごした日々について、わたしは彼 女を罰する。彼女はバアルに香をたき、鼻輪や首飾りで身を飾り、愛人の後に ついて行き、わたしを忘れ去った、と主は言われる」(2・15)。

 彼女というのはイスラエルの民です。夫を忘れ去った淫行の女に等しいイス ラエルの民を、主は罰すると主は宣言されたのです。その処罰の宣言に続いて 「それゆえ」と言われております。当然、私たちは、処罰に関する言葉が続く と考えます。しかし、予想に反して、そこで私たちが耳にするのは、まったく 驚くべき言葉であります。主は、御自分に背いた民について、次のように言わ れるのです。

それゆえ、わたしは彼女をいざなって
荒れ野に導き、その心に語りかけよう。
そのところで、わたしはぶどう園を与え
アコル(苦悩)の谷を希望の門として与える。
そこで、彼女はわたしにこたえる。
おとめであったとき
エジプトの地から上ってきた日のように。(2・16‐17)

 これまで読んできたところを振り返ってみましょう。先週読みました箇所に おいて、主は背く民に対して激しい裁きの言葉を投げかけておりました。「そ れゆえ、わたしは刈り入れのときに穀物を、取り入れのときに新しい酒を取り 戻す。また、彼女の裸を覆っている、わたしの羊毛と麻とを奪い取る。こうし て、彼女の恥を愛人たちの目の前にさらす。この手から彼女を救い出す者はだ れもない。わたしは彼女の楽しみをすべて絶ち、祭り、新月祭、安息日などの 祝いをすべてやめさせる」(11‐13節)。主は、これまで豊かに与えてい たものをすべて取り去ると言われるのです。そして、事実、ヤロブアムの治世 において人々が享受していた繁栄と平和はやがて失われ、やがて国家は滅び、 民は捕囚とされることになります。

 しかし、主は16節以下において、「それゆえ」と語り、その驚くべき真意 を明らかにされるのです。彼らが神の裁きにおいて経験することは、確かに、 乳と蜜の流れる地、神の約束の地を失って、再び荒れ野へと逆戻りすることに 他なりません。しかし、ここで主は「わたしは彼女を荒れ野に追いやる」とは 言われません。「わたしは彼女をいざなって荒れ野に導く」と言われるのです。

荒れ野に追いやるのではなくて、荒れ野に導くということは、他ならぬ神が荒 れ野にまで共に行かれるということです。豊かさを失い、楽しみを絶たれたそ の苦しみの荒れ野へと、神が共に行かれるということです。何のためでしょう。

その心に語りかけるためです。

 「心に語りかける」という言葉は、聖書の他の箇所では、女性を口説き落と すというような生々しい意味で使われている表現です。そのように、御自分に 背き、心をかたくなにしている者たちに、神は語られるのです。そのようなど うしようもない淫行の女に等しい彼らを、なおも御自分の民として取り戻すた めに、何とかしてその心を動かすために、神は荒れ野へといざなって語られる のです。

 その荒れ野において、主は彼女にぶどう園を与えると言われます。かつて肥 沃な地にあったぶどう園は、茂みに変えられ、野の獣によって食い荒らされて しまいました(14節)。しかし、荒れ野において再びぶどう園が与えられる のです。それは荒れ野におけるぶどう園なのであって、それゆえに、それはま た、主の恵みによっていただいたことが明らかであるぶどう園であります。

 そして、主は、「アコル(苦悩)の谷を希望の門として与える」と言われる のです。今日の説教題はこの言葉から取りました。しかし、これは単に苦しみ の中に希望があるということではありません。

 このアコルの名前の由来はヨシュア記7章に出てきます。そこは、罪を犯し たアカンという者とその一族が、裁かれ滅ぼされた場所であります。「彼らは、 アカンの上に大きな石塚を積み上げたが、それは今日まで残っている。主の激 しい怒りはこうしてやんだ。このようなわけで、その場所の名はアコルの谷と 呼ばれ、今日に至っている」(ヨシュア7・26)。このように、アコルの谷 の名前の由来は人間の罪、また罪に対する刑罰と関わっているのです。つまり、 その谷によって象徴されているのは、罪の結果としての災いであり苦悩なので す。確かに、繁栄を失い、国を失ったイスラエルがいたのは、そのような意味 におけるアコルの谷であったに違いありません。そして、誰もが知っているよ うに、苦悩が己の罪と結びついている時、そこには希望がありません。罪の結 果としての苦悩には希望がないのです。

 その希望がない苦悩に希望をもたらすことができるとするならば、それは苦 悩から罪を取り除くことのできる御方だけです。それは罪を赦し給う主なる神 だけなのです。淫行の妻に等しきイスラエルの民をなおも赦し、愛し、語り給 う主なる神であるゆえに、苦悩の谷は苦悩の谷のままではないのです。主は、 アコルの谷を希望の門として与えることができるのです。そこには主の目的が あります。主なる神が望んでおられるのは、その希望の門において、彼らが神 の語りかけに応えることなのです。主と共に荒れ野を歩んだ初めの頃に戻って、 彼らが応えることなのです。エジプトから導き出され、シナイの荒れ野におい て主なる神と契約を結んだあの時に戻って、主と結ばれた妻として、彼らがも う一度主の語りかけに応えることなのです。

●その日が来れば

 そして、背いたイスラエルの民において、主が最終的に何を実現しようとし ているかが、18節以下に語られております。主は繰り返し、すべてが成就す る「その日」について語られるのです。

その日が来ればと
主は言われる。
あなたはわたしを、「わが夫」と呼び
もはや、「わが主人(バアル)」とは呼ばない。
わたしは、どのバアルの名をも
彼女の口から取り除く。
もはやその名が唱えられることはない。 (2・18‐19)

 このところを読みますと、バアル化したヤハウェ祭儀においては、バアルと いう呼び名とヤハウェという呼び名が区別なく用いられていたことが分かりま す。バアルという名そのものは「主人」という意味であったので、それはある 意味では仕方がないことだったのかも知れません。しかし、名前が区別されな くなるということは、その内容も区別されなくなることを意味します。実際、 彼らの礼拝は、カナンの豊穣神礼拝と区別がつかないようなものとなっていた のでした。そこでは、信仰の民と神との関係は、もはや妻と夫の関係ではなく なっていたのです。

 主は、そのような彼らの口からバアルの名を取り除くと言われます。彼らは 繁栄と自らの欲望の満たしを求める宗教から解放され、主との愛の関係へと回 復されねばなりません。主が荒れ野へと導かれたのは、この関係へと回復され るためでした。先に「彼女はもはやわたしの妻ではなく、わたしは彼女の夫で はない」(4節)と叫んでいた夫の、本当の願いは、妻の口に「わが夫よ」と いう心からの呼びかけが取り戻されることだったのです。

 そして、さらに主は言われます。

その日には、わたしは彼らのために
野の獣、空の鳥、土を這うものと契約を結ぶ。
弓も剣も戦いもこの地から絶ち
彼らを安らかに憩わせる。
わたしは、あなたととこしえの契りを結ぶ。
わたしは、あなたと契りを結び
正義と公平を与え、慈しみ憐れむ。
わたしはあなたとまことの契りを結ぶ。
あなたは主を知るようになる。 (2・20‐22)

 「野の獣」「空の鳥」「土を這うもの」の三者によって、この自然界が代表 されております。主は、自然界をも契約の内に置かれます。ここで語られてい るのは、この自然界もまた神との関係において回復せられるということであり ます。また、人間世界から争いが取り除かれ平和が訪れると語られております。

弓も剣も絶たれるのです。その平和は、人と神との正しい関係が回復すること によって成就すると語られているのです。

 これは逆を考えてみれば、理解できるでしょう。人間が主を忘れ、バアルを 追い求め続ける時、すなわち繁栄の追求、欲望の充足にのみ心を向ける時、自 然界は荒廃し、滅びに向い、人の世には争いと流血が絶えないのです。現実に そうなっていることが4章の冒頭において次のように語られております。「主 の言葉を聞け、イスラエルの人々よ。主はこの国の住民を告発される。この国 には、誠実さも慈しみも、神を知ることもないからだ。呪い、欺き、人殺し、 盗み、姦淫がはびこり、流血に流血が続いている。それゆえ、この地は渇き、 そこに住む者は皆、衰え果て、野の獣も空の鳥も海の魚までも一掃される」 (4・1‐3)。

 これは実に身につまされる言葉です。しかし、主は既に見てきたように、そ の限りない愛をもって、この現実を覆そうとされるのです。主は、そのことが 成就する時を待ち望みつつ、御自分の民に関わられるのです。

 こうして、主は立ち帰った民と契りを結ばれます。この「契り」というのは 「婚約」に当たる言葉です。壊れた夫婦が回復するというのではありません。 裏切った妻であるのに、まったく新たに、初めて結婚するかのように、主は契 りを結ばれると言うのです。そして、この新たに与えられた関係は、五つの言 葉によって表現されています。それは「正義」「公平」「慈しみ」「憐れみ」 「まこと(真実)」です。夫と妻との関係が本物であるためには、この五つが なくてはなりません。それは、イスラエルの民には、まったく欠けていたもの でした。それゆえ、正義も公平も慈しみ、憐れみ、真実も、すべてまず夫であ る神が示して下さったのです。そして、そのことを通して、これらは神の民に 与えられるのです。これらが神の民において実現するのです。こうして、まこ とに主を知る民となるのです。

 そして、さらに主は言われます。

その日が来れば、わたしはこたえると
主は言われる。
わたしは天にこたえ
天は地にこたえる。
地は、穀物と新しい酒とオリーブ油にこたえ
それらはイズレエル(神が種を蒔く)にこたえる。
わたしは彼女を地に蒔き
ロ・ルハマ(憐れまれぬ者)を憐れみ
ロ・アンミ(わが民でない者)に向かって
「あなたはアンミ(わが民)」と言う。
彼は、「わが神よ」とこたえる。 (2・23‐25)

 ここで再び、ホセアの三人の子らの名前が挙げられます。イズレエルの名の ごとく、再び神の民は約束の地に蒔かれ、豊かな実を結びます。本来であるな らば、ロ・ルハマ(憐れまれぬ者)でしかない者が、神に憐れまれる者となり ます。本来ならばロ・アンミ(わが民でない者)であり、到底神の民ではあり 得ない者が、「アンミ(わが民)」と呼ばれるようになります。既に見てきま したように、このことが起こるとするならば、それはただ一方的な神の愛と赦 しの御業に他なりません。

 新約聖書を読みますと、このように語られるホセア書の神こそ、イエス・キ リストを世に遣わし、私たちを召してくださった方であることが分かります。 ペトロは言います。「しかし、あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭 司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなたがたを暗闇の中か ら驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広 く伝えるためなのです。あなたがたは、『かつては神の民ではなかったが、今 は神の民であり、憐れみを受けなかったが、今は憐れみを受けている』のです 」(1ペトロ2・9‐10)。

 今、私たちがこうして神の民として礼拝を捧げているのは、既にホセア書に 見てきたように、ただ神の愛と赦しによるのです。そして、私たちはまことに 主を知る民となる「その日」の完成へと向かって導かれているのです。

 
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