台湾長老教会 陳天賜宣教師説教      「少年マルコの悩み」                         使徒15:36‐41  何かの問題や現象が発生し、それを調べる時には、普通そのとき得られたデ ータの結果によって判断します。  人間の社会の環境、思想、行為、宗教などは大自然のように変化するもので すが、別に驚いたり恐れたりする必要はないかもしれません。しかし、もし今 の時代に三世代の世帯が一緒に暮らしていて、考え方や行いなどが相互に大き く相違するならば、注意を要すべき問題を示しているのではないでしょうか。 特に、今殊更に話題になっている青少年犯罪の事件は、何かを示している警告 ではないかと思います。  過去および現在、そして将来いずれにしても、それぞれの時代には少年の問 題が存在していると思います。ただ、少年の様々な問題は徐々に深刻化し、複 雑かつ残酷になっていることは否めない事実ではないでしょうか。少年の悩み の問題は、少年のいるすべての家庭の中に存在していると思います。一般の家 庭だけではなく、クリスチャンの家庭にも普遍的に存在していると思います。 私たちは悩みある若者たちの考えに耳を傾け、問題を起こさないように、理解 し支えて解決してあげるべきであろうと思います。  聖書によると、少年のマルコはエルサレムに住んでいました。当時は教会が 成立した間もない頃でした。お母さんは熱心なクリスチャンでした。よく家に 皆が礼拝に集まりました。マルコという少年はこのような家庭環境に育ったの でした。  マルコは、親戚のバルナバとパウロが異邦人の所へ伝道しに行ったというこ とをよく聞きまして、自分も一緒に伝道に連れて行ってくれたら良いなと思っ ていました。そして、遂に、喜んで彼らについていきました。しかし、間もな く、旅の途中、パンフィリアという所に着くと、少年マルコは突然バルナバと パウロを離れてエルサレムへ戻ってしまいました。パウロはマルコが離れてい ったことを、許せないほどに腹を立てました。そして、パウロとバルナバが第 二回目の伝道旅行を始めるときに、バルナバがもう一度マルコを連れて行こう と提案しましたが、パウロに断られました。バルナバはこのことを喜ばず、も うこれ以上パウロと一緒に伝道に行かないと決断しました。私たちはこの箇所 を読んで、もしかしたら、一方的にこの少年が悪いと考えるかもしれません。 例えば少年のマルコは、わがままで、苦労したがらなかったのだと思うかもし れません。  パウロと一緒に伝道しに行くのは確かに困難なことでした。まして、アンテ ィオキアへの路は当時一番危険な道とも言えるほどでした。ですから、マルコ はこの伝道の旅の辛さに耐えることができず、そのままあきらめて家に帰って しまったのかもしれません。しかし、これはマルコの立場から見れば、大きく 変わるであろうと思います。  聖書注解者のバークレーは、マルコの離別を理解しようとする立場に立って マルコを見ています。バークレーは、なぜマルコがパウロから逃げたのかとい う問いについて、親戚バルナバのリーダーとしての地位がパウロに奪われた事 を憤慨したからかもしれないと推測しています。あるいは、マルコがエルサレ ムで生まれ育ったので、異邦人に対して伝道することは可能か、という疑いが あったのかもしれません。また、マルコはまだ少年であり、わがままな考えを 持ち、最初は熱心であったがすぐに諦めてしまったということも考えられます。  いずれにしても、マルコが原因なしに離れたということはあり得ません。少 年マルコは悩みを抱えていたにもかかわらず、お父さんのようなパウロは伝道 に専念しており、少年マルコの心の悩みを聞き、理解してあげる暇が無かった ので、淋しくて逆らって逃げたのでした。  兄弟姉妹の皆さん、少年のいない家庭があるでしょうか。少年のいない教会 があるでしょうか。少年が傍らにいるにも関わらず、自分にとって大事な仕事 ばかりに夢中になって、知らん顔をしていませんか。教会にも少年たちがいま すが、私たち大人の信仰とは関係ない、しかも自分の子供ではないからと言っ て、放っておいてよいと思っている人はいないでしょうか。  今の少年たちは一体どんな心、どんな環境に生まれ育った子たちでしょうか。 十、二十代くらいの子らは、戦後の第二代と言えるでしょう。この年層の人た ちは「新新人類」とも呼ばれています。なぜでしょうか。  戦中や戦争直後の人たちの生活は苦しかったので、夢に見た生活を実現でき なくて、それが次の世代には叶うようにと望みました。その頃、親の教育方針 と言えば、皆が子供の教育に対して強い関心や期待を抱いていたので、学校以 外のいろいろな塾へ、子供の体力さえあればお金は幾ら払ってもいいから、一 所懸命に通うようにさせました。だから、それぞれの子供は六つの袋を持って いたのです。それは四人の祖父母と二人の親からの六つ、愛と期待の袋でした。  親の期待通りに実現すれば良いのですが、全ての子供たちは親の願いに適っ ていますでしょうか。事実がその通りなら、良かったです。親子とも幸せです。 しかし、実際はどうでしょうか。今の子供たちは、欲しいものは何でも手に入 り、食べたいものは何でも口にすることのできる時代に育ち、いわゆる、苦し みの分からない新新人類のようです。親たちから可愛がられて、家族の中心人 物、宝のようにされて、わがままになってしまうのです。  期待に適わない、自分の努力も足りない、親からの期待や怒りの圧力、自分 自身も悔いて、あるいは自己表現、独立、自由が欲しくて、色々新鮮に見える ことを知識や深い問題を知らないままで試みに勝手にやってしまい、複雑な問 題や不安な心に巻き込まれてしまうのです。こんな時、問題を起こさないはず はないでしょう。こんな時には、親子関係、先生と生徒の関係は緊張の状態に なりやすいので、全ての人との関係も不安になるのです。こんな時、どうすれ ば良いのでしょうか。怒ることは何の役に立ちませんし、知らん顔してもよく ありません。この時は、少年の心の世界を深く理解して、関心を持ち、支えて、 ゆっくり正しい道へと指導してあげるようにすべきではないでしょうか。既に 古くなってしまったような考え方、例えば、苦労や勤勉によって将来の地位や 富を得るということを勧めるより、少年たちの求め、例えば、ある団体に加入 したい、友人の信頼を得体、また異性の友達が欲しいという願いなどを理解し て上げたほうが良いかもしれません。  しかし、少年の悩みはいつか過ぎ去るものです。少年マルコの悩みも、いつ の間にか乗り越えられました。テモテの手紙(2)4章11節で、パウロがテ モテに「マルコを連れて来てください。彼はわたしの務めをよく助けてくれる からです」と言っています。マルコは確かに一時伝道の道から離れましたが、 親戚バルナバの理解、信頼、支えによって、またパウロにも後には納得され、 認められて、心が矛盾、疑い、不安、悩みなどに満たされていたマルコもよう やく大人になりました。その結果パウロの優れた助け手となり、宣教の良きパ ートナーとなったのです。  教会は社会のクラブではありませんし、人間が作った団体でもありません。 神は色々な人、色々な世代の人々に関心を持たれ、救われます。私たちの教会 も、役員会の承認を経て、青年の集まりができました。この若い人の集まりの 目的は青年への具体的な教育や伝道の働きを進め、共に教会を支え、共に神に 奉仕することにあります。青年会が正しい方向へ歩めるかどうかは、教会全体 の責任です。まず心を一つにして、関心を持ち、支え、執り成すなら、歪んだ 道へ進むことはないでしょう。  この青少年犯罪事件の多発するこの時代に、一日も早く、少なくとも、教会 の周りの若者たちへ積極的に伝道活動をしなければならないでしょう。若い人 の魂が救われるために、若者が誘惑や悩みを乗り越えて、立ち上がって、さら に成熟した人間になり、キリストの満ち溢れる豊かさになるまで成長できるよ うに、大人たちは今後とも共に信仰によって聖霊に満たされ、関心を寄せ、支 え、理解し、励まし、手助けができる者でありたいと思うのです。