「神を知ること」
2000年8月13日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 ホセア4・1‐10
ホセア書4章から、この預言書の第二部に入ります。1章から3章までは、 ホセアの結婚と家庭の事情を主題として一つのまとまりをなしていました。こ の4章以降の単元には、彼の公の活動における様々な預言が集められておりま す。私たちは、これまで見てきましたホセアの預言活動の背景を念頭に置きつ つ、語られている言葉に耳を傾けていきたいと思います。
●誠実さと慈しみの欠如
初めに1節から3節までをお読みいたします。
主の言葉を聞け、イスラエルの人々よ。 主はこの国の住民を告発される。
/> この国には、誠実さも慈しみも
神を知ることもないからだ。
呪い、欺き、人殺し、盗み、姦淫がはびこり
流血に流血が続いている。
それゆえ、この地は渇き
そこに住む者は皆、衰え果て
野の獣も空の鳥も海の魚までも一掃される。 (4・1‐3)
私たちがここで耳にしますのは、主の告発の言葉です。その告発の内容は、 あるべきものがなく、あるべきでないものがある、ということです。
そこに欠けているのは、まず第一に「誠実さ」です。「誠実さ」とは、しば しば「真実」と訳されます。その反対は偽りであり欺きです。真実が欠けてい るということは、偽りと欺きが満ちているということです。ホセアの約百数十 年後、預言者エレミヤは、誠実さ、真実さを失った社会を、次のように表現し ました。「彼らは舌を弓のように引き絞り、真実ではなく偽りをもってこの地 にはびこる。彼らは悪から悪へと進み、わたしを知ろうとしない、と主は言わ れる。人はその隣人を警戒せよ。兄弟ですら信用してはならない。兄弟といっ ても、『押しのける者(ヤコブ)』であり、隣人はことごとく中傷して歩く。 人はその隣人を惑わし、まことを語らない。舌に偽りを語ることを教え、疲れ るまで悪事を働く。欺きに欺きを重ね、わたしを知ることを拒む、と主は言わ れる」(エレミヤ9・2‐5)。ホセアの時代に主が目にしていた社会もまた、 そのようにもはや誰も互いに信用することができないような社会でありました。
これが、主が告発している真実の欠如です。
そして、聖書において、この真実、誠実という言葉としばしば対になって現 れるのは「慈しみ」という言葉です。ヘブライ語では「ヘセド」と言います。 この言葉は、神がどのような御方であるかということを表現する時に、しばし ば用いられています。例えば、詩篇136編には「慈しみはとこしえに」とい う言葉が繰り返し歌われています。「恵み深い主に感謝せよ。慈しみはとこし えに。神の中の神に感謝せよ。慈しみはとこしえに。主の中の主に感謝せよ。 慈しみはとこしえに」(詩篇136・1‐3)。このように、この言葉が神に ついて用いられる時、それは神の変わらざる愛を意味します。
そして、そのような神によって、人と人との間においても求められているの が、このヘセドです。慈しみの関係です。それは単に好き嫌いの話ではありま せん。好き嫌いは気分や状況によって変わります。ヘセドはとは、気分や状況 によって失われてしまわない愛であります。その意味するところを一番分かり 易く表現しているのは、結婚式の誓約でしょう。結婚式の時には、「健やかな 時も病む時もこれを愛するか」と問われ、「はい」と応えて結婚が成立します。
そこで求められているのは、このヘセドに他なりません。
このヘセドが失われた人間関係は悲惨です。それは私たちにも身近なことで す。現代もまたヘセドが失われている時代だからです。心の欲するままに、感 情の赴くままに生きることが賞賛される世界には、ヘセドは成り立ちません。 心の欲するままに生きることが真の自由であると考えられている世界にはヘセ ドは成り立たないのです。一つのものが欠けると、他のものがそこを満たすよ うになります。ヘセドが成り立たない社会には、代わりに憎しみが満ちること になります。心の欲するままに生きようとする人と人との関係は、最終的に憎 しみに支配されることになるからです。
それゆえ、主はその結果を「呪い、欺き、人殺し、盗み、姦淫がはびこり、 流血に流血が続いている」(2節)と表現します。あるべきものがないと、あ るべきでないものが支配することになるのです。そして、それは人間社会のこ とに留まりません。あるべきでないものが世界を支配する時、それは人間社会 だけでなく、世界そのものを滅ぼすことになります。続いて3節に語られてい る通りです。地は渇き、そこに住む者は皆、衰え果て、野の獣も空の鳥も海の 魚までも一掃されることになるのです。これらの言葉は、今日の私たちに向か って、なんと現代的な響きをもって迫ってくることでしょう。
このような状態にある人々を、主は「神を知ることもない」と告発されます。
先のエレミヤの預言にも繰り返されておりました。「彼らは悪から悪へと進み、 わたしを知ろうとしない」と。しかし、このホセアの言葉は、これを耳にした 人々にとっては実に意外であったに違いありません。なぜなら、彼らは決して、 いわゆる不信心な人々ではなかったからです。聖所はいつでも人々の群れで賑 わっておりました。経済的に豊かであったヤロブアムの時代、人々は喜んで讃 美を歌い、多くの犠牲を捧げたのです。その頃、祭司の数も非常に増えました。
彼らは皆、我々の国は主を知っている国である、と思っていたに違いありませ ん。しかし、誠実さも慈しみも失われたその国は、「神を知ることもない」と 告発されているのです。
「知る」という言葉は、聖書において繰り返し夫と妻の肉体的精神的な一体 性、深い人格的な結びつきを表す言葉として用いられています。誠実さと慈し みを失って、そのような関係は成り立ちません。彼らがどれほど祭儀に熱心で あったとしても、どれほど多くの犠牲を捧げていたとしても、現実の生活にお いて誠実さと慈しみを失っているということは、他ならぬ神との間にも誠実さ と慈しみに基づく関係が失われていることを明らかに示しているのです。それ ゆえその国は、「神を知ることもない」と告発されているのです。
●意味を失った贖罪の犠牲
この激しい主の言葉に真っ先に反発したのは、他ならぬ神殿に仕える祭司た ちであろうと思われます。そこで、主の言葉は祭司に向けられます。主の言葉 によってその深い病巣がさらに明らかにされるのです。4節から6節までをお 読みします。
もはや告発するな、もはや争うな。
お前の民は、祭司を告発する者のようだ。
昼、お前はつまずき
夜、預言者もお前と共につまずく。
こうして、わたしはお前の母を沈黙させる。
わが民は知ることを拒んだので沈黙させられる。
お前が知識を退けたので
わたしもお前を退けて
もはや、わたしの祭司とはしない。
お前が神の律法を忘れたので
わたしもお前の子らを忘れる。 (4・4‐6)
細かいことを申しますと、聖書協会訳は、最初の部分を若干読み替えて、 「しかし、だれも争ってはならない、責めてはならない。祭司よ。わたしの争 うのは、あなたと争うのだ」と訳しています。文脈から判断して、その方が良 いと思います。これまでは、国の住民全体に語られてきました。しかし、問題 は祭司にあるのです。主は宗教的な権威に対して、何が問題であるかを明らか にされるのです。また、「わが民は知ることを拒んだので沈黙させられる」と いう表現は弱すぎるかも知れません。ここはもっと強く訳すなら、「知識がな いためにわたしの民は滅ぼされる」と書かれているのです。
国は滅びることになります。それは知識がないためです。ここで言われてい る知識が、ただ神に関する知的な理解ではないことは、既に読んできたことか ら明らかです。それは本来の夫と妻の関係のごとくに神を「知る」ということ です。しかし、国の住民が神を知らないのは、ただ彼らの責任ではありません。
大きな責任は祭司にあります。国がそのような状態であるのは、祭司たちが神 を知ることを拒んだからです。そのことは「お前が神の律法を忘れたので」と 言い換えられています。律法を忘れるということは、神が何を求めておられる かを忘れるということです。神の愛と恵みに応えて生きるということがどうい うことかを忘れるということです。
人が神の求めを忘れる時、神の求めに関心を失う時、人間の求めが中心的重 要性を持つようになります。こうして、宗教は人間の欲望の投影に過ぎないも のとなってゆくのです。豊かさを求めて豊穣の神バアルを拝むことと、真実と 慈しみを求められる主を礼拝することが区別できなくなります。そこに主なる 神との愛に基づいた人格的な関係など成り立ちようはずがありません。
それがどのようなことであるのか、私たちはその後に続く主の言葉によって 知ることになります。
彼らは勢いを増すにつれて
ますます、わたしに対して罪を犯した。
わたしは彼らの栄光を恥に変える。
彼らはわが民の贖罪の献げ物をむさぼり
民が罪を犯すのを当てにしている。
祭司も民も同じようだ。
わたしは、彼らを行いに従って罰し
悪行に従って報いる。
彼らは食べても飽き足りることなく
淫行にふけっても
子孫を増やすことができない。
彼らは淫行を続け
主を捨て、聞き従おうとしなかったからだ。(4・7‐10)
ここに見ますように、祭司にとっては、国の住民が真に神に心を向けるかど うかなど、どうでも良いことでした。神の恵みを伝え、その求め給うことが何 であるかを伝え、民全体が神の恵みに真実に応答して生きるようになることに は、全く関心がなかったのです。人々が求めていたのは、国家が平和であり、 繁栄していることでしたし、祭司たちが求めていることもまた同じだったので す。人々の欲求が満たされ、さらにその繁栄の中から犠牲が継続的に捧げられ、 そのことによって神殿を中心とした宗教的制度が守られ、祭司の立場と生活が 支えられれば、それで良かったのです。
「彼らはわが民の贖罪の献げ物をむさぼり、民が罪を犯すのを当てにしてい る」とは、そのような祭司階級の状況に対する強烈な批判です。贖罪の献げ物 の肉は祭司の取り分とされました(レビ6・18以下)。彼らの取り分が増え るなら、祭司は民が罪を犯すことさえ喜びとしているということです。このよ うな言葉からも、聖所で捧げられる贖罪の献げ物が、そこにおいて執り行われ る諸々の祭儀が、真の悔い改めとも、誠実さや慈しみとも結びついてはいない ことが分かります。それゆえ、一方で贖罪の献げ物が捧げられながら、もう一 方ではただ繁栄と豊作を願って神殿娼婦と交わるという性的儀礼が行われると いうことが起こってくるのです。宗教的な堕落の根は、まさにそのような神の 律法も悔い改めも失った礼拝にこそあるのです。
そのようなことは何も旧約聖書の時代に限ったことではありません。ヨハネ は教会に次のように書き送っています。「わたしの子たちよ、これらのことを 書くのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。たとえ罪を犯して も、御父のもとに弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます。この方 こそ、わたしたちの罪、いや、わたしたちの罪ばかりでなく、全世界の罪を償 ういけにえです。わたしたちは、神の掟を守るなら、それによって、神を知っ ていることが分かります。『神を知っている』と言いながら、神の掟を守らな い者は、偽り者で、その人の内には真理はありません」(1ヨハネ2・1‐4)。
イエス・キリストによる永遠の贖罪の犠牲によって成り立つはずの教会の礼拝 が、いつの間にかその意味を失ってバアル宗教のごとく人間の欲望の投影でし かないものとなってしまうことは、いつでも私たちの身近にある危険なのであ ります。