「宗教の魅力と罠」
2000年8月20日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 ホセア4・11‐19
ソロモンの時代まで統一王国であったイスラエルは、その子レハブアムの時 代に、北のイスラエル王国と南のユダ王国に分裂しました。ダビデ王家に反旗 を翻して北王国の王となったのはヤロブアムです。イスラエルの十の部族を治 める者となった彼には、しかし、一つの不安がありました。それはエルサレム の神殿が南のユダにあるということです。彼は、こう心に思いました。「今、 王国は、再びダビデの家のものになりそうだ。この民がいけにえをささげるた めにエルサレムの主の神殿に上るなら、この民の心は再び彼らの主君、ユダの 王レハブアムに向かい、彼らはわたしを殺して、ユダの王レハブアムのもとに 帰ってしまうだろう」(列王上12・26‐27)。そこで彼はよく考えた上 で、金の子牛を二体造り、人々に言いました。「あなたたちはもはやエルサレ ムに上る必要はない。見よ、イスラエルよ、これがあなたをエジプトから導き 上ったあなたの神である」。こうして彼は、一体をベテルに、もう一体をダン に置いたのです。
人々の心をつなぎ止めておくために、しばしば有効な手段として用いられる のは宗教です。世に現れた多くの支配者が、その手段を巧妙に用いてきました。
ヤロブアムにとっても、また後の王にとっても、国家が維持されていくために は、イスラエルの宗教が民衆にとって魅力的であることがどうしても必要とさ れました。そこで、ヤロブアムは、さらに数ある聖なる高台に神殿を設け、そ こでレビ人でない民の中から祭司に任じ、祭儀を盛大に執り行わせ、また王自 ら祭壇に立っていけにえを捧げたのでした。その「聖なる高台」とは、先住の カナン人がかつて神々を礼拝していた聖所のあった場所のことです。ヤロブア ムは改めてそれらの高台を主の礼拝の場所として重視したのでした。そのよう にしてカナンのバアル礼拝と区別の付かなくなった彼らの礼拝は、王国におい て民衆の心を惹きつけたのです。そして、それは魅力的な宗教であり続け、約 二百年後のホセアの時代にまで至っていたのでした。
さて、今日、日本の伝道が論じられる場において、しばしばキリスト教会の 魅力のなさが語られます。もっと魅力的な教会にならねばならないと言われま す。確かに、キリストの福音は、本来非常に魅力的なものであるはずです。代 々の聖徒たちは、この福音の故に、喜んで命を捨てさえしたのですから。です から、教会は本当の意味で、魅力的にならねばならない、福音の魅力をこの世 界に証しすることのできる教会とならねばならないと思うのです。しかし、宗 教の魅力というものを安易に提供したり求めたりするところには、大きな危険 が伴うことを、私たちは見落としてはなりません。列王記を読みますと、ヤロ ブアムのしたことは、後々に至るまで「ヤロブアムの罪」として言及されてい るのです。そして、ホセア書において激しく告発されているのも、また一般的 に見れば、多くの人々が喜んで熱心に関わっている、非常に盛んな聖所であり、 そこにおける祭儀だったのです。
●魅力的な宗教
それでは、初めに11節から14節までをお読みしましょう。
ぶどう酒と新しい酒は心を奪う。
わが民は木に託宣を求め
その枝に指示を受ける。
淫行の霊に惑わされ
神のもとを離れて淫行にふけり
山々の頂でいけにえをささげ
丘の上で香をたく。
樫、ポプラ、テレビンなどの木陰が快いからだ。
お前たちの娘は淫行にふけり
嫁も姦淫を行う。
娘が淫行にふけっても
嫁が姦淫を行っても、わたしはとがめはしない。
親自身が遊女と共に背き去り
神殿娼婦と共にいけにえをささげているからだ。
悟りのない民は滅びる。 (4・11‐14)
ここに彼らを魅惑した宗教がいかなるものであったかが言い表されています。
それは「酒」と「淫行」によって代表されております。飲酒と性行為による陶 酔の中で彼らは「木に託宣を求め、その枝に指示を受け」たのです。私たちは、 この描写と近年の特殊なカルト宗教とを重ね合わせることができるかも知れま せん。しかし、実はこの一つ一つの要素は、決して私たちと無縁のものではな いのです。私たちの信仰生活が、これと文字通り同じ行為を伴わないとしても、 その本質がイスラエルのバアル宗教と大差ないものとなる可能性はいくらでも あるのです。
祭儀にぶどう酒や新しい酒が伴うのは、元来その年の収穫を感謝するという 意味だったのでしょう。しかし、ここに見るように、それは本来の意味を失い、 ただ熱狂と興奮を得るための手段となっておりました。宗教に非理性的な世界 を求めるのは、人の世の常であります。それは非日常的な世界と言って良いか もしれません。非理性的・非日常的世界を求めるのは、いつでも理性的に向か い合わなくてはならない日常から逃避するためであります。世俗の世界におい てもしばしば酒はそのための手段として用いられます。それが宗教の世界に持 ち込まれると、ここに書かれているようなことが起こるのです。しかし、その ような逃避は酒が用いられなくても起こるかも知れません。いずれにせよ現実 世界と覚めた心をもって向かい合うことができない人にとって、非理性的・非 日常的な一時を提供する宗教は非常に魅力的なものであるに違いありません。
一方、バアル礼拝に性行為が伴うのは、その大儀としては、土地の所有者で ある男神バアルと、大地の女神アシェラの間の性行為を模倣するという意味で ありました。しかし、そこで求められていたのは宗教的な装いを伴った恍惚状 態であり欲望の充足に他なりませんでした。もちろん、性行為そのものが悪な のではありません。男女の性の交わりそのものは、神の与えてくださった素晴 らしい賜物です。それは本来、深い人格的な結びつきをもたらし、二つの人格 である男女を一体とするものであります。「こういうわけで、男は父母を離れ て女と結ばれ、二人は一体となる」(創世記2・24)と書かれているとおり です。しかし、そうであるからこそ、これは一体として生きる具体的な結婚生 活、共に生きる家庭生活というものと切り離してはならないのです。
性行為が、一体として生きる具体的な生活と切り離されて、ただ恍惚と欲望 の充足、精神的な満足を得る手段になってしまうことは、この世においていく らでも起こってまいります。そして、そのような夫婦生活から遊離した性のあ り方が、生活そのものを破壊することは、昔も今も変わりません。そして、そ のような無責任な性のあり方が宗教の世界に入り込むと、ここに書かれている ようなバアル礼拝のような形を取るのです。他の人格と共に生きる具体的な生 活と向き合うことのできない人にとって、それを一時忘れさせてくれる恍惚と 欲望の満たしを提供してくれるものは、宗教であれ何であれ、いつでも魅力的 であるに違いありません。
そして、彼らはそのような状態において、木に託宣を求め、その枝に指示を 受けたのでした。「木に託宣を求める」とは、具体的には祭壇の傍らに立つア シェラ像よりの託宣を求めることを意味するものと思われます。また、「枝に 指示を受ける」の「枝」とは、占い棒の類と考えられます。一説によりますと、 二本の棒を倒し、その倒れ方によって託宣を告げるようなものであったようで す。詳しいことは、この記述だけでは分かりません。しかし、なんらかの形で、 直接的な答えが与えられるようになっていたことは確かです。恐らく具体的な 農作に関すること、様々な生活上の問題に関することなどが問われ、答えられ たのでしょう。
そのように、生活に関わることに直接的な答えが託宣という形で与えられる ことは、いつの時代おいても多くの人々が切に求めていることであります。そ れは今日でも、多くの人々が占い師のもとを訪れ、直接的な託宣を告げる新興 宗教に向かうことからも分かります。当時の人々にとって、特に自然と関わる 農業に携わる人々にとって、現在と未来についての手軽な答えを与えてくれる 宗教は非常に魅力的であったろうと思われます。
●魅力に伴う危険
しかし、魅力あるものには、往々にして危険が伴うものです。そのように非 理性的・非日常的な雰囲気の中で託宣を受ける人々は、確かな道筋を得ている ようでありながら、実は迷いの内にあるのです。神のもとにあるように見えな がら、実は神を離れることになるのです。「淫行の霊に惑わされ、神のもとを 離れて淫行にふけり…」(12節後半)と書かれているとおりです。
先週の箇所において見たように、そもそも問題は祭司たちが神を知る知識を 退け、神の律法を忘れたことにありました(4・6)。こうして、イスラエル の民から、知識と律法が失われたのです。彼らは、神御自身を求め、神を知り、 神との愛に基づいた人格的な関係に生きようとはしませんでした。また、神が 信仰者に何を求めておられるのかを知ろうとはしませんでした。信仰者がどこ に向かうべきなのか、その根本的な方向付けに全く関心を持たず、ただ目先の 関心についての安易な答えしか求めないならば、迷うことになるのは当たり前 なのです。自らの人生の方向が正しいか、間違っているかを振り返ろうとせず、 ただ目先の問題の安易な解決しか求めていないならば、結局迷いながら生きざ るを得ないのです。そうすることによって、神ならぬ悪しき霊に惑わされ、結 局は神を離れ、神の御心から外れた道を進んで気付かないのです。
そして、一つの世代が迷うなら、次の世代も迷いながら生きることになりま す。「お前たちの娘は淫行にふけり、嫁も姦淫を行う」(13節後半)。しか し、それはある意味で当然の結果であると主は御覧になっておられます。「娘 が淫行にふけっても、嫁が姦淫を行っても、わたしはとがめはしない」とまで 言われるのです。それは、当然起こるべくして起こったことだからです。「親 自身が遊女と共に背き去り、神殿娼婦と共にいけにえをささげているからだ」。
そして、この言葉をホセアは、当時の諺をもって締めくくります。「悟りのな い民は滅びる」。魅力的なものには危険が伴います。その危険は大きいのです。
それは滅びをもたらします。主イエスも、言われたではありませんか。「狭い 門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入 る者が多い」(マタイ7・13)。
●放たれた不幸な雌牛
しかし、主がいくら呼び掛けても、イスラエルの民は立ち帰ろうとはしませ んでした。そこで主は彼らにこう言われます。
イスラエルよ、たとえお前が遊女であっても
――ユダは罪を犯すな――
ギルガルに赴くな、ベト・アベンに上るな。
「主は生きておられる」と言って誓うな。
まことにイスラエルは強情な雌牛のように強情だ。
どうして主は、彼らを小羊のように
広い野で養われるだろうか。
エフライムは偶像のとりこになっている。
そのままにしておくがよい。
彼らは酔いしれたまま、淫行を重ね
恥知らずなふるまいに身をゆだねている。
欲望の霊は翼の中に彼らを巻き込み
彼らはいけにえのゆえに恥を受ける。 (4・15‐19)
イスラエルは強情な雌牛でした。飼い主がどんなに引こうが、自分の行きた い方向にしか進まない、またどんなに押そうが動きたくないと思ったら絶対に 動かない、そんな強情な雌牛です。熱心に聖所に集い、盛んに祭りを行う、一 見非常に信心深いイスラエルの民は、神から見るならば強情な雌牛以外の何も のでもなかったのです。結局は、主が本当に望んでおられる方向になど進むつ もりはないのです。彼らが熱心にしていることは、自分の心が喜びとすること だけでありました。しかし、それは他人事ではありません。私たちもまた彼ら と同じであるかもしれないのです。人の目から見てどんなに信仰熱心に見えた としても、結局は自分のしたいことだけをし、自分の心の欲するものだけを追 い求め、主の御心に従う意志が微塵もないならば、神の目から見てそれは強情 な雌牛と変わりません。少なくともそれは、羊飼いの声を聞いて、その声に導 かれて生きる羊の群れではありません。
それゆえに、ホセアはイスラエルの民について言うのです。「どうして主は、 彼らを小羊のように、広い野で養われるだろうか」。強情な雌牛を羊と同じよ うに養うことは、本来無理なことであります。しかし、その無理なことを、あ えて主がなさる時があるのです。主は、強情な雌牛を、広い野に放たれるので す。「エフライムは偶像のとりこになっている。そのままにしておくがよい」 (17節)と。家畜が野に放たれ、もはや誰も引き戻そうとしなくなったらど うなるでしょうか。それはその家畜にとって非常に不幸なことと言わざるを得 ないでしょう。そのように、強情な雌牛のような者にとって、本当に不幸なの は、何かが出来ない時ではなく、むしろ心の欲するままにしたいことが自由に 出来、行きたいところに自由に行けるようになることなのです。その結末をホ セアはこう語ります。「欲望の霊は翼の中に彼らを巻き込み、彼らはいけにえ のゆえに恥を受ける」。私たちは、主によって留められることの恵みを知らね ばなりません。