「待っておられる神」
2000年9月3日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 ホセア5・1‐15
4章からホセア書の第二部に入りました。その冒頭の言葉は「主の言葉を聞 け」(4・1)でありました。5章に入って、再び「聞け」という言葉が繰り 返されます。「聞け、心して聞け、耳を傾けよ」と畳みかけるように語られる のです。神は、どれほど語ろうとも決して聞き従おうとしないイスラエルの民 に、なおも語り続けます。目先の問題の解決や安易な救いを求めて「木に託宣 を求め、その枝に指示を受ける」(4・12)ようなことはするけれども、本 当の意味で神の言葉に耳を傾け、聞き従おうとはしない民に、主はなおも関わ り続けるのであります。私たちは、主がその愛と忍耐をもって何を語り続けら れたのかを聞かなくてはなりません。そして、それが私たちにとって何を意味 するかをよく考えねばなりません。
●お前たちは罠となった
初めに1節と2節をお読みします。
聞け、祭司たちよ。
心して聞け、イスラエルの家よ。
耳を傾けよ、王の家よ。
お前たちに裁きが下る。
お前たちはミツパで罠となり
タボルの山で仕掛けられた網となり
シッテムでは深く掘った穴となった。
わたしはお前たちを皆、懲らしめる。(5・1‐2)
ここで語りかけられているのは、「祭司たち」であり「イスラエルの家」で あり「王の家」です。祭司たちと王家と共に出てくるので、この場合「イスラ エルの家」とは、北王国の全国民と言うよりは、長老たちなどの指導者層を指 しているものと思われます。そこで上げられている三者に呼応するように、 「罠となり」「網となり」「穴となった」と語られております。そのゆえに、 彼らに対して裁きが下ると宣告されているのです。
ここで彼らが「罠にはまった」「網に捕らえられた」「穴に落ち込んだ」者 たちとして語られていないことに注意してください。問題は、彼らがただ主の 道から外れてしまったことではありません。彼ら自身が罠や網や落とし穴にな ってしまっていることが問題なのです。彼らがそうなっているということは、 その罠にはまったり、落ちたりする人々がいるということです。それはイスラ エルの民衆です。その結果、イスラエル全体が主に背き去ることになったので す。
人が神に背く時、その事実はただその人のみに関わるのではありません。一 人の不信仰は、必ず他の者に影響を与えることになります。一人が罠となれば、 他の者がそこに落ち込むことになるのです。王や祭司が迷えば民も迷うことに なるのです。一つの世代のあり方は、次の世代の歩みを必ず左右することにな るでしょう。
先週、私たちは教会全体のキャンプを行いました。そこで語られたテーマの 一つは信仰の継承でありました。与えられている信仰を次の世代に継承してい くということは、まことに光栄に満ちた務めです。しかし、継承と言うからに は、そこで「何が伝えられるべきなのか」が必ず問題となるでしょう。つまり、 私たち自身が「何を信じているのか」「どのように信じているのか」が問われ るのです。私たち自身が伝えられてきた福音をしっかりと受けとめることなく して、それを次の世代に継承することができようはずがありません。私たちは、 次の世代にとって祝福ともなり得るし、罠ともなり得るのです。イスラエルの 祭司も、長老たちも、王家の人々も、神の民としての伝承と神の律法を正しく 保持し、継承させる責任を負っている人々であるはずでした。しかし、そのこ とを正しく為しえなくなった時、彼らは「罠」となり「網」となり「穴」とな ったのです。この事実を、私たちもまた厳粛に受けとめねばならないと思うの であります。
●わたしは懲らしめる
そのように罠となった人々、また罠に落ち込んだイスラエルの民全体に対し て、主はなおも関わられます。主は言われるのです。「わたしはお前たちを皆、 懲らしめる」と。「懲らしめる」という言葉はまた、「訓練する」ことをも意 味します。その目的は滅ぼすことではありません。立ち帰らせることにあるの です。主がこのように語られるのは、主が御自分の民の現実を知り尽くしてお られるからです。3節以下をご覧下さい。
わたしはエフライムを知り尽くしている。
イスラエルがわたしから隠れることはできない。
まことに、エフライムは淫行にふけり
イスラエルは身を汚している。
彼らは悪行のゆえに、神に帰ることができない。
淫行の霊が彼らの中にあり
主を知りえないからだ。 (5・3‐4)
イスラエルは主の名によって事を為していました。聖所の祭儀も、宗教的な 日常の生活も、確かに主の名によって行っているのです。しかし、主はその背 後にあることを御覧になられます。何ものも神から隠れることはありません。 彼らが追求しているのは主御自身ではなく、豊穣と繁栄なのであり、彼らが願 っているのは主の愛と真実に基づいた交わりではなく、欲望の充足でしかない ことをご存じなのです。ただ淫行にふけり、身を汚すばかりの彼らの現実は、 主の御目から隠れることはありません。そして、彼らはもはやその悪行によっ て主に立ち帰ることすらできません。淫行の霊によって捕らえられているから です。
この「帰ることができない」という言葉は、エレミヤ書などにも繰り返し現 れます。これは恐るべき言葉です。悔い改めようと思えばいつでも悔い改めら れる。立ち帰ろうと思えばいつでも立ち帰ることはできる。私たちがそのよう に考えているとするならば、それは大きな間違いです。私たちは、罪の本当の 恐ろしさを知らないゆえに、あまりにも安易に悔い改めについて語っているの かも知れません。主はここで、確かに罪のもたらす恐るべき現実を見ておられ まる。人がもはや神に帰れなくなるという現実を見ておられるのです。それゆ えに、主は言われるのです、「わたしはお前たちを皆、懲らしめる」と。主は その民を懲らしめざるを得ません。なぜなら、そのままでは、彼らは決して主 に立ち帰ることはできないからです。主からの働きかけなくして、罪に捕らえ られた人間が主に立ち帰ることはできないのです。
そして、主はさらに言われます。
イスラエルを罪に落とすのは自らの高慢だ。
イスラエルとエフライムは
不義によってつまずき
ユダも共につまずく。
彼らは羊と牛を携えて主を尋ね求めるが
見いだすことはできない。
主は彼らを離れ去られた。
彼らは主を裏切り
異国人の子らを産んだ。
それゆえ、新月の祭りが
彼らをも、その所有をも食い尽くす。(5・5‐7)
「高慢」という言葉がここに現れるのは、いささか唐突であるような気がい たします。しかし、よくよく考えて見るならば、人間の罪深い現実の根っこに は、いつでも人間の高慢さ、高ぶりがあるのではないでしょうか。「高慢は人 間の最初の罪であり最後の罪である」と言った人がいましたが、まことにその 通りだと思います。ここで語られている高慢とは、ひたすら自分のために栄光 を求めることです。高慢は、神にではなく自己に栄光を帰することです。人間 の欲望は実にここに極まります。人間のあらゆる営みは、この欲求の充足へと 向かっているとも言えるでしょう。どれほど愚かな仕方であっても、たとえ他 者を踏みにじることであっても、傷つけることであっても、人は自らに栄光を 帰し、満足することを望みます。しばしば、神礼拝さえもその手段や道具とさ れるのです。
ですから、彼らはもはや神を見出すことができません。彼らは、羊と牛を携 えて主を尋ね求めます。彼らは主の御名を唱えて礼拝を捧げます。しかし、彼 らの関心は神の栄光にはありません。彼らの関心は神に向いているのではなく、 最終的には自分にしか向いていないのです。そのような彼らは主を見いだすこ とができません。なんと、ここで「主は彼らを離れ去られた」と書かれている のです。主はその礼拝する民の間に、もはや共にはおられないというのです。
そのままでは、主を見いだすことができず、主を知ることもできない。高慢 であるままで、人は主に立ち帰ることはできません。それゆえに、神の懲らし めが必要とされるのです。神の懲らしめは、人間の求めてやまない自己の栄光 へと向かいます。神の懲らしめの御手は、人間の高ぶりの心を打ち砕くために 動かされるのです。
●罪を認めて主を尋ね求めるために
それが具体的にどのように実現するのか。主は次のように語られます。8節 から14節までお読みします。
ギブアで角笛を
ラマでラッパを吹き鳴らせ。
ベト・アベンで鬨の声をあげよ。
ベニヤミンよ、背後を警戒せよ。
懲らしめの日が来れば
エフライムは廃虚と化す。
確かに起こることをわたしはイスラエルの諸部族に教えた。
ユダの将軍たちは国境を移す者となった。
わたしは彼らに、水のように憤りを注ぐ。
エフライムは蹂躙され
裁きによって踏み砕かれる。
むなしいものを追い続けているからだ。
わたしはエフライムに対して食い尽くす虫となり
ユダの家には、骨の腐れとなる。
エフライムが自分の病を見
ユダが自分のただれを見たとき
エフライムはアッシリアに行き
ユダは大王に使者を送った。
しかし、彼はお前たちをいやしえず
ただれを取り去ることもできない。
わたしはエフライムに対して獅子となり
ユダの家には、若獅子となる。
わたしは引き裂いて過ぎ行き
さらって行くが、救い出す者はいない。(5・8‐14)
ホセアが見ているのは戦乱によって傷ついた国土です。すべての繁栄が失わ れ、廃墟となったエフライムであります。ギブア、ラマ、ベト・アベンという 地名は南から北へ向かうように列挙されています。ここには南ユダが北イスラ エルに侵攻している様子が描き出されています。紀元前733年、シリア・イ スラエル同盟軍とユダの間に戦争が起こりました。シリア・エフライム戦争な どと呼ばれます。ここに語られているホセアの預言の背後には、このシリア・ エフライム戦争があると言われます。
しかし、ここで重要なことは、イスラエルにとって本当の敵はユダではなく、 ユダにとって本当の敵はイスラエルではない、ということです。彼らに敵対し て行動を起こしておられるのは神御自身であると語られているのです。「わた しはエフライムに対して食い尽くす虫となり、ユダの家には、骨の腐れとなる 」(12節)と語られているとおりです。
彼らはそのことを知りませんでした。それゆえに、危機的状況の中で、大国 の助けを求めます。アッシリアに行き、大王に使者を送るのです。彼らの姿と、 いつでも人間に頼って安易な解決を求めようとする私たちの姿が重なります。 しかし、彼らにとって本当の危機は戦乱の中にあるのではないのです。神との 正しい関係が失われていることにこそあるのです。彼らが罪のうちにあること こそ、最大の危機なのです。ですから、アッシリアに頼ることは最終的な解決 にはならないのです。「彼はお前たちをいやしえず、ただれを取り去ることも できない」(13節)のです。
神は、そのようなエフライムに対して獅子のように、ユダに対して若獅子の ように行動されます。獅子が獲物を引き裂くように、神は彼らを引き裂かれる のです。何と恐るべきことでしょう。しかし、それは彼らを滅ぼすためではあ りません。主は彼らを捨ててしまわれたのではありません。神の望んでおられ ることは、人が神に立ち帰ることなのです。人がもはや立ち帰ることができな くなっているゆえに、神は懲らしめの業を通して、高慢さを打ち砕き、罪を認 めることができるようにし、立ち帰るための道筋をつけられるのです。
それゆえ、主はこう言われるのです。
わたしは立ち去り、自分の場所に戻っていよう。
彼らが罪を認めて、わたしを尋ね求め
苦しみの中で、わたしを捜し求めるまで。(5・15)
神が人を苦しみの中に置かれるとするならば、その苦しみには意味がありま す。彼らにとって、苦しみの中に置かれたのは、そこで自分の罪を認めること ができるようになるためでありました。人がそこから主を尋ね求め、捜し求め るようになることを、主は何よりも望んでおられるのです。その御手に罪の赦 しの恵みを携えて、主は待っておられるのであります。