「神が求めておられること」
2000年9月10日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 ホセア6・1‐11
●悔い改めの言葉は真実か
今日は6章1節からお読みしました。その冒頭には大変敬虔な美しい詩が記 されています。最初に3節までをお読みします。
「さあ、我々は主のもとに帰ろう。
主は我々を引き裂かれたが、いやし
我々を打たれたが、傷を包んでくださる。
二日の後、主は我々を生かし
三日目に、立ち上がらせてくださる。
我々は御前に生きる。
我々は主を知ろう。
主を知ることを追い求めよう。
主は曙の光のように必ず現れ
降り注ぐ雨のように
大地を潤す春雨のように
我々を訪れてくださる。」 (6:1‐3)
この前後に記されているのは主の言葉です。主の言葉に挟まれたこの部分は、 引用された言葉のようです。歌のようでもあります。ホセア自身がこのように 呼び掛けているというよりは、むしろ人々の口に上っている言葉、あるいは歌 をここに引用しているものと思われます。歌であるとするならば、それは礼拝 において歌われていた悔い改めの歌であるに違いありません。
さて、このような悔い改めの言葉が言い表されたり、歌われたりするのはど のような状況においてでしょうか。それは容易に想像できます。それは深刻な 危機的な状況に違いありません。飢饉や戦争などにおける危機的状況において、 人々や王が断食し、悔い改めを言い表すということはイスラエルの伝統であり ました。私たちはそのような場面を旧約聖書においていくつも見ることができ ます。
ホセア書のこれらの言葉の背景になっているのは、先週も少し触れましたが、 シリア・イスラエル同盟軍とユダの軍隊とが戦ったシリア・エフライム戦争で あろうと言われます。その戦争は5章8節以下の言葉によって描写されており ました。そして、5章の最後は次のような言葉で終わっていました。「わたし はエフライムに対して獅子となり、ユダの家には、若獅子となる。わたしは引 き裂いて過ぎ行き、さらって行くが、救い出す者はいない。わたしは立ち去り、 自分の場所に戻っていよう。彼らが罪を認めて、わたしを尋ね求め、苦しみの 中で、わたしを捜し求めるまで」(5・14‐15)。このように、イスラエ ルはまさに獅子によって引き裂かれた獲物のような状態であったのです。その ような状態において、人々が神殿に集まり、犠牲を捧げ、このような悔い改め の言葉を言い表し、あるいは悔い改めの歌をうたっていたのでしょう。
ホセアはそのような人々の言葉を、彼ら自身に対して改めて語り聞かせます。 自分がいったい何を言っているのかを聞かせるのです。それは人々に対しての 問いかけでもあったに違いありません。「『さあ、我々は主のもとに帰ろう。 我々は主を知ろう。主を知ることを追い求めよう』とあなたがたは言う。しか し、それは本当にあなたがたの意味することなのか」と問うているのです。
悔い改めとは主のもとに帰ることです。それ以外の何ものでもありません。 そして、ここに記されているとおり、それは主を知ることを切に求めることに 他なりません。「主を知る」ということは「主について知る」ということでは ありません。その意味するところは、夫婦の間に本来あるべき深い人格的な結 びつきに譬えられます。彼らがそのような関係を本当に求めているのかどうか が、ここで問われているのです。
私たちもまた、しばしば悔い改めを言い表します。礼拝において共に悔い改 めを言い表します。時として、私たちはその言葉を美しく歌い上げることさえ するでしょう。しかし、そのような私たちもまた、時として、自らの口から出 ている言葉を、もう一度自分の耳で聞く必要があろうかと思います。その時、 私たちに対して同じ問いが突きつけられるに違いありません。「あなたは、本 当に主に立ち帰ろうとしているのか。主を知ろうとしているのか。それとも、 ただ苦境から逃れたいだけなのか。ただ癒されたいだけなのか」と。
実際、イスラエルの民の現実は、そこに美しい敬虔な言葉をもって語られて いるとおりではありませんでした。危機的状況における彼らの悔い改めの言葉 は、豊作と繁栄を求めてバアルに捧げた礼拝と、本質的には何ら変わるところ はありませんでした。彼らが本当に求めていたのは、主のもとに帰ることでも、 主を知ることでも、主を愛して生きることでもなかったのです。往々にして人 間はそのことを抜きにして、その先に書かれていることを求めるものでありま す。「主は我々を引き裂かれたが、いやし、我々を打たれたが、傷をつつんで くださる」。その次の「二日の後、主は我々を生かし、三日目に、立ち上がら せてくださる」という言葉も、せいぜい被占領地の奪回や国家の復興ぐらいに しか考えていなかったことでしょう。しかし、本来、神との関係こそ命なので す。人は神と結ばれて初めて「生きる」のです。彼らの悔い改めの言葉そのも のは決して間違いではありませんでした。しかし、彼らは自分が何を語ってい るのかを知りませんでした。
●お前たちの愛は朝の霧
それゆえ、彼らの悔い改めの言葉に、主の嘆きの言葉が続くのです。4節か ら6節までをお読みします。
エフライムよ
わたしはお前をどうしたらよいのか。
ユダよ、お前をどうしたらよいのか。
お前たちの愛は朝の霧
すぐに消えうせる露のようだ。
それゆえ、わたしは彼らを
預言者たちによって切り倒し
わたしの口の言葉をもって滅ぼす。
わたしの行う裁きは光のように現れる。
わたしが喜ぶのは
愛であっていけにえではなく
神を知ることであって
焼き尽くす献げ物ではない。 (6:4‐6)
エフライムについて、またユダについて、「わたしはお前をどうしたらよい のか」と、主は嘆きの声を上げられます。困惑し、疲れ果てているのは苦境に 立たされているイスラエルの民ではありません。苦境の中においても、なお自 らの罪を認めて主のもとに帰ろうとしない民を目の前にした神御自身なのです。
本当に嘆いているのは民ではありません。嘆いておられるのは神なのでありま す。
主は、彼らの愛について嘆いて言われます。「お前たちの愛は朝の霧、すぐ に消えうせる露のようだ」。この「愛」は、4章1節において「慈しみ」と訳 されていた「ヘセド」という言葉です。以前お話ししましたように、これは契 約に基づいた変わらざる愛を意味します。例えば結婚の誓約において求められ ているような、いかなる状況においても保持されるべき愛であります。単なる 「好き」という感情ではありません。聖書の多くの箇所においてそうであるよ うに、「真実」という言葉と並記されるべき「愛」であります。真実を伴わな い「ヘセド」などあり得ません。主は真実と愛による関係、夫と妻との関係が 回復することを、どれほど望んでおられることでしょうか。しかし、その本来 のヘセドをどうしても御自分の民のうちに見いだすことができないのです。見 いだし得るのは、朝の霧のようなものだけなのです。
本来、愛(ヘセド)が朝の霧のようであるというのは、それ自体言葉の矛盾 です。しかし、それがイスラエルの民の現実でありました。そして、それはし ばしば私たちの現実であるかも知れません。悔い改めの言葉に伴っているのが 真実の愛、「ヘセド」であるのか否かは、自ずと明らかになるものです。本当 は主に立ち帰る気などなく、主を知ることを求めているのでもなく、ただ苦し みから逃れたいだけの悔い改めならば、その苦境が長く続けば悔い改めの言葉 もまた失われることでしょう。あるいはたとえ苦境から逃れることができたと してもそれは失われるに違いありません。苦しみから逃れれば、もはや神は必 要なくなるのですから。いずれにせよ、切に求められていたのは主ではなかっ たことが、そのようにして明らかにされるのです。その愛は朝の霧に過ぎず、 日が上れば消えうせる露に過ぎなかったことが明らかにされるのです。
そこで主は再び裁きを宣言せざるを得ません。「わたしの行う裁きは光のよ うに現れる」と語られます。しかし、主が本当に望んでいるのは、裁いて滅ぼ すことではありません。それゆえ、主が何を求めておられるのかを彼らに語ら れるのです。「わたしが喜ぶのは愛であっていけにえではなく、神を知ること であって焼き尽くす献げ物ではない」と。
「私たちはこれだけ多くの犠牲を献げているではないか。祭りの献げ物を献 げ、焼き尽くす献げ物を献げ、穀物の献げ物を献げ、肥えた動物を献げ、竪琴 の音や讃美の歌声を献げているではないか」と人々は言うかもしれません。事 実、彼らがどれほど多くの犠牲を献げていたかは、少し前の時代の預言者アモ スが語っております。しかし、多くの犠牲は主のもとに帰ることの代わりには ならないのです。主のために何かを行うことは、主を知ることを追い求める代 わりにはならないのです。ヘセドに基づいた関係の代わりにはならないのです。
それゆえ主は言われるのです。「わたしが喜ぶのは、愛であっていけにえでは なく、神を知ることであって、焼き尽くす献げ物ではない」。
そして、どれほど宗教的に見えても、神との愛の関係が成り立ってはいない なら、その現実は人と人との間にも自ずと現れます。人と人との間にも愛の関 係が成り立たなくなるのです。その結果、イスラエルにおいては、一方では神 殿において多くの犠牲を献げながら、もう一方では神の御心からはほど遠い彼 らの社会生活がありました。主は彼らの現状を次のように告発しておられます。
彼らはアダムで契約を破り
そこでわたしを裏切った。
ギレアドは悪を行う者どもの住みか
流血の罪を犯した者の足跡がしるされている。
祭司の一団は待ち伏せる強盗のように
シケムへの道で人を殺す。
なんという悪事を彼らは行うことか。
イスラエルの家に、恐るべきことをわたしは見た。
そこでエフライムは姦淫をし
イスラエルは自分を汚した。
ユダよ、お前にも
刈り取られる時が定められている。 (6:7‐11)
アダムという場所でどのような出来事が起こったので「契約を破った」と言 われているのかは定かではありません。アダムの周辺、ヨルダンの低地には鋳 造所があったようです(列王上7・46)ので、もしかしたらそこで偶像を造 っていたということが告発されているのかもしれません。ギレアドについては、 ホセアの時代の出来事として、次のように書かれています。「彼(ペカフヤ) の侍従、レマルヤの子ペカが謀反を起こし、サマリアの宮殿の城郭で、五十人 のギレアド人と組んで、アルゴブおよびアルイエと共にペカフヤを打ち殺した。
こうしてペカが代わって王となった」(列王記下15・25)。このような流 血の惨事は、これだけではありません。主が言及しているのは一例に過ぎませ ん。ヤロブアム二世が世を去った後、イスラエルが経験したのはまさにクーデ ターに次ぐクーデターでありました。
そして、さらには、「祭司の一団は待ち伏せる強盗のようい、シケムへの道 で人を殺す」と書かれています。これは、実際に人を殺したのか、神殿におけ る搾取を言っているのかはっきりしません。しかし、いずれにせよ実際に犠牲 を神の前に献げて神の前で祭儀を行っているはずの祭司が、もはや神を神とせ ず、人を人とも思ってもいなかったということであります。私たちは彼らほど ひどい状態にはない、と言い得るでしょうか。私たちもまた、痛みと嘆きをも って語られた主の言葉を繰り返し聞かなくてはならないでしょう。「わたしが 喜ぶのは、愛であっていけにえではなく、神を知ることであって焼き尽くす献 げ物ではない」。
「さあ、我々は主のもとに帰ろう。我々は主を知ろう。主を知ることを追い 求めよう」。これが本当に私たちの言葉となることを、主はどれほど望んでお られることでしょうか。主は、いけにえも焼き尽くす献げ物をも求めてはおら れません。主が求めておられるのは、私たち自身です。犠牲は主御自身が備え られました。御自分の独り子を十字架にかけられ、愛の祭儀において献げられ るべきまことの犠牲とされたのです。それはまことに私たちが主を愛し、主を 知る者となるためでした。最初の悔い改めの歌が、本当に私たちの言葉となる ためでありました。