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「五つのパンと二匹の魚」

2000年9月17日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 ヨハネ6・1‐13

 今日お読みしましたのは、ガリラヤ湖畔においてなされた驚くべき奇跡の物 語です。この奇跡物語は四つの福音書すべてに記されておりますが、今日私た ちはヨハネによる福音書に耳を傾けたいと思います。特に、ヨハネによる福音 書だけが伝えているいくつかの言葉に注目しながら読み進んでいくことにいた しましょう。

●試みられたフィリポ

 まず第一は、6節、7節の言葉です。「こう言ったのはフィリポを試みるた めであって、御自分では何をしようとしているか知っておられたのである。フ ィリポは『めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは 足りないでしょう』と答えた」(6・6‐7)。

 フィリポは現実を鋭く把握しています。二百デナリオンという金額は約二百 日分の賃金に当たります。男だけでも五千人ほどいるわけですから、それだけ のパンでも足りないだろう、というのがフィリポの分析でした。正しいと思い ます。しかし、彼は大切なことを見落としていました。キリストの言葉を聞き 落としていたと言ってもよいかもしれません。主イエスはすでに、御自分がし ておられることの意味を話されたはずです。主は言われました。「わたしのの 父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ」(5・19)。ま た、こうも言われました。「父がなさることはなんでも、子もそのとおりにす る」(5・19)。この福音書をずっと先まで読み進んで行きますと、フィリ ポが主イエスに次のように言ったということが記されています。ヨハネ14章 8節です。「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足でき ます。」そうしますと、主イエスはこのように答えられるのです。「フィリポ、 こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た 者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うの か。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。

…わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信 じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい」(14 ・9‐11)。

 なぜ、主イエスが殊更にフィリポを試みられたのか、分かるような気がいた します。主はフィリポにパンを求められたのではありません。そうではなくて、 信仰を求められたのです。主イエスと父なる神とが一つであると信じる信仰を 求められたのです。それは言い換えるならば、主イエスによって集められた交 わりには神が共におられるということです。主イエスの名による交わりに父な る神が確かに共におられるということなのです。そして、その父なる神に、主 イエスは既に「日毎の糧を与えたまえ」と祈ることを教えておられたはずでし た。これは日々の現実において、すべての必要を父に依存し、父によって生か され、支えられているのだという告白に他なりません。主は父なる神様を共に 仰ぎ望むことを求められたのです。その父なる神が主イエスと共におられ、主 イエスを通して働きたもうことを信じるかどうかを試みられたのであります。

 それは私たち、主イエスの名によって集められている者についても同じです。

主イエスはパンを求めておられるのではありません。大切なのは十分なパンが あるかどうかではなくて、信仰があるかどうかなのです。だから、主イエスも 私たちを試みられるのです。キリストの御名によって集められ、キリストのも とにいるということがどういうことであるかを分からせるために、私たちを試 みられるのであります。それは私たちもまたキリストと共に父なる神を仰ぐた めなのであります。それが分からずに、キリストの父なる神に目を向けようと しないならば、結局、「これでは足りないでしょう」という力無い言葉に終わ らざるを得ないのです。そして、そのような場面のなんと多いことでしょうか。

私たちはキリストがこのしるしを現されるに当たって、フィリポを試みられた ということをしっかりと心に刻みつけておかなくてはなりません。

●主によって造り出された交わり

 主は御自分が為すべきことをご存じでした。主イエスは御自身と父なる神と が一つであることをここにおいても表されました。父なる神はキリストを通し て、人々の必要を豊かに満たし給いました。溢れるばかりに与えられました。 神様は私たちにも同じように必要を満たし給います。それは私たちが信ずべき 事柄です。

 しかし、これが主イエスのなさろうとしているすべてではありませんでした。

主は人がパンのみによって生きるのではないことを知っていたのであります。 人は神の口からでる一つ一つの言葉によって生きるのです(ルカ4・4)。キ リストの与えようとしている救いは単にその場の必要を満たすことではありま せんでした。人の救いは目の前の問題の解決ではありません。私たちは神様が すべての必要を満たされ、すべての問題の最終的な解決をお持ちであられるこ とを信ずべきであります。しかし、それが神の与えたもうすべてであると考え てはならないのであります。神は必要な時にパンを備えられます。しかし、パ ンを備えられることがすべてではありません。そうではなくて、私たちにとっ て最終的な救いは永遠に神と共にあることです。一時的に神の賜物をいただく ことではなくて、永遠に神によって生きることです。一時、神の助けをいただ くのではなくて、永遠に神の祝福に与る者とされることなのです。主イエスの なさったパンの奇跡はその「しるし」に過ぎません。

 そこで、私たちは第二に、もう一つの言葉に注目したいと思います。それは、 「過越祭が近づいていた」(4節)という言葉です。これもヨハネによる福音 書だけが語っている場面設定です。つまり、ここにおける食事が過越祭の食事 と関連づけられているのです。

 過越祭とは、ユダヤ人の三大祭りの一つです。それは、出エジプトの出来事 を記念する祭りです。詳しくは出エジプト記12章をご覧下さい。エジプトに おいて奴隷であった民が神の力によって解放され、モーセによって率いられて エジプトから脱出したのです。その時に神の命令に従って、子羊の血を鴨居と 柱とに塗った。血が塗られている家を神の裁きが過ぎ越したのです。それを記 念する祭りが過越祭です。そして、大切な事は、出エジプトの出来事が、「神 の恵みの業に与った者の共同体、救いに与った神の民イスラエルの誕生」をも 意味していたということであります。その日を記念するのが過越祭であり、毎 年イスラエルの人々は過ぎ越しの食事を共に食して祝ったのであります。

 主イエスはあたかも、過ぎ越しの食事を導く一家の家長のような有り様でそ こに立っておられます。そして、家長がするように感謝の祈りを唱えてから、 食物を分け与えるのです。その場はあたかも大きな一つの家族の交わりのよう です。そうです。これが主イエスの示そうとしておられることなのです。主を 通して現される神の恵みによって、やがて新しい共同体が生まれるのだ、とい うことです。キリストを中心とした新しい交わりが生まれるのです。主が作り 出そうとしておられるのは、そのような主を中心として一つにされ、神を愛し、 互いに愛しあう共同体なのであります。

 そして、それは、この世においてただ一時形作られる交わりではありません。

この世のあらゆる共同体は過ぎ去ります。私たちは永遠にそこに属するわけで はありません。ただ神のみが永遠であり、キリストを中心として作られた神と の交わりこそ、来るべき世、神の国において完成する永遠の交わりであります。

それは聖書的な表現を用いるならば、共に神の国の祝宴に連なる交わりである とも言えるでしょう。それが「教会」なのです。永遠に神と共にある交わりで す。

 そして、また、ここで「感謝の祈りを唱えて」と訳されている言葉にも注目 しなくてはなりません。これは単純に「感謝する」という言葉であって、ヨハ ネしかこの場面では用いていません。なぜ、あえて「感謝」という言葉が用い られているのでしょう。それは、聖餐が古来より「感謝(エウカリスティア) 」と呼ばれてきたことに関係します。ヨハネによる福音書は、明らかに「聖餐 」を念頭において、この主イエスのなされた奇跡物語を記しているのです。こ のパンの奇跡は聖餐を指し示しているものとして、ここに描かれているのです。

 今日、私たちもまた、聖餐を共にします。それは単なる象徴的儀式ではあり ません。キリストを中心とした交わり、永遠の神の国にまで連なる交わりが、 この聖餐によって造られるのです。教会は、共通した国籍、民族、興味、関心 などによって作り出される共同体ではありません。そうではなくて、共にキリ ストの恵みに与ることによって作り出される共同体なのであります。だから永 遠なのです。目の前の必要が満たされることも素晴らしいことですが、永遠な る神の恵みによる永遠の交わりに与ることはもっと素晴らしいことであります。

●少年の捧げたパンと魚

 さて、そのようなキリストの「しるし」をさらに鮮やかに彩る出来事があり ました。これもヨハネだけが伝えていることであります。分けられたパンと魚 はひとりの少年が持っていたものだ、というのです。少年が捧げたパンと魚で ありました。しかも大麦のパンです。これは安物です。魚も大したものではな いでしょう。しかし、少年が捧げて主イエスの手に渡り、集まった人々が満た されたというのです。いや、そればかりか、その残ったパン屑で12の篭がい っぱいになったというのです。12という数は完全数と呼ばれており、まさに 神の恵みの完全を現しております。

 もちろん、この少年がどれほど物事を理解した上でそれらを捧げたのかは分 かりません。しかし、この出来事は大切なことを示していると思うのです。そ こに集まっている群衆は、主イエスが病人になさったしるしを見て後を追って きたのでした。多くの人は更なる奇跡を求めて集まったのでしょう。それぞれ が自分のことで頭がいっぱいだったと思うのです。それぞれが自分の必要のた めに主イエスを求めていたのです。しかし、そこに実にささやかなものではあ りますが、自らのものを差し出す少年がおりました。そして、その捧げられた パンと魚が用いられ、それが救いのしるしとなり、神の恵みの豊かさを示すし るしとなったのです。

 そのように、互いに自分のことで精一杯、自分のことしか考えられなかった 私たちもまた、キリストを中心とした神の国の交わりに招かれ、自らを主に捧 げて生きるようにと召されております。確かに大麦のパンや干し魚のようなも のしか持ち合わせていないような私たちかもしれません。しかし、そのような 私たちの為しえる実にささやかな事が、主の御手にゆだねられ用いられる時、 それは神の恵みの豊かさを現すものとなり、神の国のしるしとなるのです。

 
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