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「貧しい人々は幸いである」

2000年9月24日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生, 久下倫生宣教師説教
聖書 ルカによる福音書 6章20節

 今日私たちに与えられました御言葉は、聖書の言葉の中でももっとも有名な 言葉のひとつです。しかしよく考えますと、なかなか素直にアーメンといえな い言葉であります。特に続いて主イエス様が語られた、24節「しかし、富んで いるあなた方は、不幸である」とあわせて読みますとき、正面からこれを受け 取れば、失望いたします。なぜなら、現代の日本に住む私たちは、みな豊かで あり、富んでいるからであります。私は貧しいという方がいらっしゃるかも知 れませんが、ひとたび世界に目を転ずれば、間違いなく私たちはみな豊かであ ります。贅沢といってもいいかも知れません。それでは私たちは、25,26節に あるように、不幸であってやがては飢えるようになり、悲しみ泣くようになる しかないのでしょうか? それともマタイによる福音書の5章を持ち出して、物 質的には豊かだが、「心」は貧しいから、これでいいのだと慰めるしかないの でしょうか。

 聖書語句辞典を調べますと、貧しいという表現は実にたくさん出てまいりま す。そして、これを丹念に読んでいきますと、どう見てもキリスト教は貧者の 宗教であります。一方で、「富む、富める」「富」という言葉は、旧約におい ても、新約においても祝福されるより、時として「のろい」の言葉とさえ結び ついているように思われるのであります。有名な言葉を2,3挙げてみましょう。

 「はっきり言っておく。金持ちが天の国に入るのは難しい。重ねて言うが、 金持ちが天の国に入るよりも、ラクダが針の穴を通るほうがまだ易しい。」 (マタイによる福音書19章24節)「日が昇り熱風が吹きつけると、草は枯れ、 花は散り、その美しさは失せてしまいます。同じように、富んでいるものも、 人生の半ばで消えうせるのです。」(ヤコブの手紙1章11節)「富んでいる人 たち、よく聞きなさい。自分に降りかかってくる不幸を思って、泣きわめきな さい。あなた方の富は朽ち果て、衣服には虫がつき、金銀もさびてしまいます。

このさびこそが、あなた方の罪の証拠となり、あなた方の肉を火のように食い 尽くすでしょう。」(ヤコブの手紙、5章1-3節)

 現代の私たちだけでなく、弟子のペトロもイエス様の言葉に驚きこういって います。「このとおり、私たちは何もかも捨ててあなたに従ってまいりました。

では、私たちは、何をいただけるのでしょうか?」(マタイ19章27節)おっし ゃるとおり私たちは貧しくなりましたよ、どうしてくれますか、と聞いており ます。私はこのペトロの言葉に親しみを感じます。信仰を告白してキリスト者 とされたとき、私は20歳の学生で金持ちではありませんでした。それでも主イ エスが金持ちの青年におっしゃった言葉、「もし完全になりたいのなら、行っ て持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば天に宝を積むこと になる。それから私に従いなさい。」(マタイ19章21節)は、大きな障害でし た。

 私が信仰を言い表そうかどうかなやんでいたころ、日本は学生運動の波に洗 われていました。大学は無期限ストで授業はなく、毎日のようにデモがありま した。マルクス・レーニン主義は、単なる観念ではなく、真に克服すべき課題 でありました。「宗教はアヘンである」というのはレーニンの有名な言葉であ ります。今日の御言葉「貧しい人々はさいわいである。神の国はあなたがたの ものである」といって貧しい者を麻痺させ、向上心をなくさせ取り組むべき階 級闘争から人民の目をそらさせるから、というのであります。「反革命」であ ります。ふたつの問いかけがここにあります。豊かなままで神の国に入れない のか?貧しいものは祝福されているようだから、そのままほって置いていいの か?いや、そもそもこういう問い自身が間違っているでしょうか。

 ここで聖書が私たちに語りかける言葉を理解するため、自分の疑問を横にお き、もう一度聖書そのものを注意して読み直してみたいのであります。はじめ に、すぐ気が付きますのが、マタイによる福音書の平行記事が異なる記述をし ていることであります。ここは大切な点だと思います。マタイは「心の貧しい 人たちは、幸いである」というのであります。「霊において貧しい人」という 意味でありましょう。実はパリサイ人は非富裕階層に属する人たちでありまし た。貧しい人たちでありましたが、自己安心的な敬虔に基づく高ぶりを、主イ エス様から厳しく糾弾された人々でありました。神に対して自己をよしとする パリサイ的敬虔は、まさに「こころ豊か」と自負していたのであります。ルカ はどの点で貧しいのかを述べておりませんが、この言葉を語られた人たちは、 同じ人たちでありますから、外面的な貧しさ、貧乏と、内面的な貧しさ、神様 の前で貧しくある、この2つが重なり、この世では、ひっそりと生き、所有物 が少なく、まさしく神の国を待ち望む人たちだったのでしょう。一方で必ずし も神の国を待ち望まなくてもいい人たちがいたことが分かります。胸を張って、 律法を守っているぞ、と誇ったり、より頼むことができるほどの所有物があり、 すでにこの世ではなぐさめられている人は、主イエス様がこられても、何ら変 化を期待しなかったのでありましょう。

 ルカによる福音書を、もう少し読んでいきますと、キリストに祝福された二 人の人物が出てまいります。一人は有名、子供でも知っています。(この教会 の青年は誰でも知っています。)もう一人は無名の人。有名な方は大変な金持 ちであります。無名の方は、盲人で物乞いでした。ではこの二人に主イエス様 はどう語りかけられたかを見てまいりましょう。

 18章35節をご覧ください。エリコという町、ここはエルサレムに向かう 人々が絶えず通るところです。その町の近くのおそらく一番人通りの多いとこ ろで、道端にうずくまっている物乞いがいる。それ以外に生活の方法がなかっ たのでしょう。とても埃っぽい道です。日本の道のような舗装道路ではありま せん。パレスチナの暑い日ざしのなかで、埃の立つ道の傍らに、気の毒な盲人 が座っています。何歳くらいでしょうか、聖書は言いませんが、年を取った人 かも知れません。マルコはこの人がバルティマイという名前だと伝えています。

(マルコ10章46節)人の情けだけを頼りに、死ぬまでそうするしかない人。

そこに主イエス様が来られたのであります。主はこの人にも目をかけられた。 なるほどイエス様は愛の深い方です。しかし少し踏み込んで考えてみたいので あります。私はいったい、この盲人の物乞いとどう関係があるでしょうか。実 はないのです。私は目が見える。私は物乞いなんかしていません。イエス様は 私たちとはぜんぜん違うこういう気の毒な人にも愛を示された。そういうお話 でしょうか。ここで視点を少し変えてみましょう。

 バルティマイのように道端に座り、目をつむりますと、逆に見えてくること があります。人の物音、話声、足音だけを聞きながら、この人はお金を入れて くれるだろうか、ああ素通りした、と考えています。そこへ、今大評判のお方 が通られるというニュースはこの人にも伝わっていたのでありましょう。奇跡 を起こされた、死んだ娘をも甦らせたお方が、ついにエルサレムに向かわれる。

今この方に助けてもらわなければ、生涯チャンスはないと切羽詰った気持ちだ ったのでしょう。大声で叫び続けたと聖書は語ります。「ダビデの子よ、私を 哀れんでください。」人々の制止を押しのけて叫びました。周りの人たちは、 おそらくおまえはだだの乞食じゃないか。イエス様の恩恵に浴するような人間 じゃないと、口には出しませんが、そう思ったことでしょう。私たちは、聖書 を読んでいますから、いやこういう人こそ、主の恵みに預かるだろうと思いま す。みんな、どこかでこの人と私を区別しています。

 「誰だそこで叫んでいるのは。私のところに連れてきなさい。」主は命じら れました。「おまえはいったい私に何をして欲しいのか?」この人は一瞬ひる んだかも知れません。あまりにも不思議な質問だったのでしょう。目が見えな いんです。だから働けない。だから哀れみにすがるしかない、見えるようにな りたいに決まっているではないですか。しかし主はこの人の答えを期待されま した。主イエスの方向にこの人の気持ちが向くことを求められたのでありまし ょう。脱線しますが詩篇にはこのように神に叫び求めることがよく出てきます。

「苦難の襲うとき私が呼び求めれば、あなたは必ず答えてくださるでしょう。 」(詩篇86編)

 この後この人は「どうもありがとうございます。これで働けます。さような ら。」とは言っておりません。イエスに従った、と記録されています。見える ようになったその目で、彼が見たものは、実はこの恩人が十字架で死ぬ悲惨な 姿ではなかったかと思われます。イエス様を見たその眼で、人々がイエス様を 殺すのを見たのであります。見えないほうがよかったと思ったかもしれません。

この人の名前がマルコ福音書に記録されているのは、福音書の記者か読み手に この人に関係した人がいたのではないかと想像できます。結局聖書は、ある意 味で見えるようになった目で、何を見るのか、何がみえるのかを知っている人 たちが書いた、ともいえるのではないでしょうか。思い切っていえば、道端の 物乞いのまなざしで書かれているということでしょう。そこから見ないと聖書 の意味が見えてまいりません。

 主のまなざしがどういうところに向けられたか、この直後の記事はもっとは っきり出てまいります。ザアカイの物語です。

 イエス様はいよいよエリコの町に入られました。目を癒された男も後ろから いっしょについて行ったでしょう。パレスチナを家内と旅したとき、いちじく 桑という木が並木として植えられているのを見ました。日本のいちじくとは違 います。もっと大きな木です。その街路樹の上の男を主イエスはすぐに見つけ られました。エリコというのは街道の町です。税関があります。ローマ帝国は 税金をとるのに政府機関によらず、税金取立権を支配地の有力者に売っており ました。ですから税関も私企業です。そこで手練手管を使って儲けを確保しよ うとします。ザアカイはその税関の持ち主、徴税人の頭でありました。ローマ の権力を背景に面白いようにお金が集められます。悪いこともできそうです。 皮肉なことにザアカイというのは正しい人という意味です。背が小さくて馬鹿 にされたので、見返してやろうと思ったのかどうか分かりませんが、彼はつい に、この儲かるポジションについたのであります。人々の彼を見る目は冷たかっ たでしょう。暖かいまなざしで見られたことがなかったのでしょう。この人も 人々が街道に群がり、有名なナザレのイエスがここを通るということを知って いました。イエス様の前に出て行く勇気はなかったのでしょうか。木の上から 見ておりました。あるいはみんなに、前に出ることを阻まれたのでしょう。 「何だ、おまえか。おまえ見たいなやつにイエス様は関係ない。」一目でもいい からイエス様を見たいというのは、よく分かる気持ちです。私は若いとき、ひ とめでいいから、矢内原忠雄に会いたかった。心酔していました。会えば何か が起こりそうに思ったのです。(しかしもちろん当時彼は死んでいました。そ こで弟子の一人、高橋三郎に会いに行こうとしました。その準備として、当時 理学部長だった、やはり矢内原の弟子、富田教授に会いに行こうとしていると きに教会に誘われたのです。ひょっとしたら今ごろ無教会のメンバーになって 一人で聖書を読んでいたかもしれません。)

 ここで驚くべきことがおこります。「ザアカイ、急いで降りてきなさい。今 日はぜひあなたの家に泊まりたい。」英語の聖書は, I must stay at your house today.と書いてあります。泊まらなければならない。泊まることに決まって いる。そういう計画で来た、ということでしょう。学者は言います。この「な ければならない」は大事なところで使われている。ルカ9章22節「人の子は必 ず多くの苦しみを受け、――殺され、三日目に復活することになっている。」

 ザアカイが家を持っていたことは確かですが、想像するに家族もいたのでは ないでしょうか。世間で冷たい目で見られていたザアカイ、奥さんは暖かく見 ていたでしょうか。お金はあるけど評判のよくない夫をもってつらかったかも 知れません。家族も幸せじゃなかったのかもしれません。だからこそ主イエス は「今日、救いがこの家を訪れた。」とおっしゃったのでしょう。

 木の上でイエス様に見つめられたザアカイは、そのまなざしにみんなとは違 うものを瞬時に感じたことでしょう。「私はあなたにお会いしたかった。」と いいたかったかも知れません。人は自分では気が付かないで、神様に愛される ことをまっています。主に出会って見つめられたときに、ああこれが願ってい たことだと気が付きます。

 このように見てまいりますとバルティマイもザアカイも、なんとなく似てい るような気がしませんでしょうか。一方は大金持ち、他方はおそらく完全な文 無しです。しかし、キリストに目を留めていただいたとき、彼らの人生は、完 全に変わりました。全く新しい人生に入れられたのであります。

 私ははじめに、貧しい人は幸いだという言葉にアーメンと言えないと申しま した。社会主義の影響もあったでしょう。しかし大切なのは「自分が変わろう と思っていない」からではないかと気が付くのです。もし自分がこれでいいな ら、聖書の言葉は古典となります。しかし、叫びながらでも、こっそりとでも 主に近づくとき、主イエス様は、私が何をいくら持っているかを、お尋ねには ならないのです。

祈ります。

 
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