「神の期待と失望」
2000年10月1日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 ホセア6・11b‐7・16
●神の目の前にある悪
預言者ホセアが見ていたのは、戦乱と内紛によって引き裂かれ、傷つき、深 く病んでいる末期的状況のイスラエルでありました。そこには回復を必要とす る国家がありました。そこには癒しを必要とする人々がおりました。そのよう なイスラエルの民に、主はホセアを通してこのように語られたのです。
わたしが民を回復させようとし
イスラエルをいやそうとしても
かえって、エフライムの不義
サマリアの悪が現れる。
実に、彼らは偽りをたくらむ。
人は家に忍び込み
外では追いはぎの群れが人を襲う。
わたしは彼らの悪事をすべて心に留めている。
しかし、彼らは少しも意に介さない。
今や、彼らは悪に取り囲まれ
その有様はわたしの目の前にある。(6・11b‐7・2)
主が望んでおられるのは、イスラエルの民が滅びることではありませんでし た。主が与えようとしておられたのは、回復であり癒しでありました。しかし、 本当の回復と癒しというのは、ただ事態が元通りになることではありません。 ただ荒れ果てた国家が再び繁栄を回復することではありません。ただ危機的状 況が過ぎ去ることでも、苦しみが取り除かれることでもありません。ただ政治 的な平和と安定が取り戻されればよいのではありません。主は、傷や病そのも のが本当の問題なのではないことを御覧になっておられるのです。問題はもっ と深いところにあります。それは人間の罪であります。問題は彼らの不義と悪 にこそあるのです。
偽りを企むのは心の中においてです。それは他人の目からは隠れています。 盗人が家に忍び込むことも、人々の目の前では行われません。それは人目を忍 んですることです。これもまた隠れた事柄です。追いはぎの群れが人を襲うの も町の外においてです。自分たちが捕らえられ、法的に裁かれ、刑罰を科せら れることがないように、それを行うのです。このように、人間の不義と悪は、 いつでも人間の目と人間の裁きから隠れたところにおいて行われるのです。
しかし、人の目から隠れていても、神の目から隠れることはありません。主 は言われるのです。「わたしは彼らの悪事をすべて心に留めている」と。しか し、続けて言われます。「しかし、彼らは少しも意に介さない」。人間の問題 は、神の目を「少しも意に介さない」ところにあります。人の目は気にするの です。自分の悪が人目に曝されることは恐れるのです。しかし、神の目は恐れ ません。神を侮って生きています。このように、本当の病根は、神との正しい 関係が失われていることにこそあるのです。社会が神を失い、人生が神を失っ ていることにこそあるのです。人は、不幸そのものを問題にいたします。苦し みや痛みそのものを問題にいたします。しかし、その根がどこにあるのかに関 心がありません。それは木が枯れてしまった時に、葉が落ちてしまうことばか りを嘆いているようなものです。本当は、根が腐っているから木が枯れ、葉が 落ちるのでしょう。主は、ここでまさに根が腐っていることを問題にしておら れるのです。「今や、彼らは悪に取り囲まれ、その有様はわたしの目の前にあ る」と言われるのです。
●主を呼ぶ者はなかった
主は、その根の腐りきった現実を次のように描写します。
彼らは悪事によって王を
欺きによって高官たちを喜ばせる。
彼らは皆、姦淫を行う者
燃えるかまどのようだ。
パンを焼く者は小麦粉をこねると
膨むまで、火をかき立てずにじっと待つ。
我々の王の祝いの日に
高官たちはぶどう酒の熱で無力になり
王は陰謀を働く者たちと手を結び
燃えるかまどのようなたくらみに心を近づける。
夜の間眠っていた彼らの怒りは
朝になると燃え盛る火のように炎を噴く。
彼らは皆、かまどのように熱くなり
自分たちを支配する者を焼き尽くした。
王たちはことごとく倒れ
ひとりとして、わたしを呼ぶ者はなかった。(7・3‐7)
罪に捕らえられた人間の欲望の炎は燃えるかまどのようです。彼らのある者 はこの世の権力にすり寄り、支配力を求めます。ある者は快楽を求め、倦むと ころを知りません。イスラエルには不正が満ち、淫行の霊が人々を支配してい ます。あるいは、この「姦淫」という言葉は、5節以下に見るように、政治的 な陰謀を指しているのかもしれません。いずれにせよ、彼らを動かしているの は燃えさかる欲望の炎であることには変わりありません。そのような中、次か ら次へと政変が起こります。「自分たちを支配する者を焼き尽くした」という のは、そのような事情を指しているものと思われます。欲望の炎は自分を支配 する者を焼き滅ぼします。自分が支配する者となるためです。そのようにして、 王たちは次々と倒れてゆくのです。イスラエルを統治した王は18人おりまし た。その約半数は殺害されて治世を終えております。それがイスラエルの現実 でありました。そして、ホセアの時代、王国は末期的状況を呈している瀕死の 状態にあったのです。
しかし、本当に悲しむべき事態は7節の終わりに記されております。「ひと りとして、わたしを呼ぶ者はなかった」と主は言われるのです。他者を殺害し て王となった者は、自分自身としては、政治的に安定した社会を求めたに違い ありません。しかし、彼らの内に、神を真実に呼び求める者はいなかったと言 うのです。いや、それは王だけではないでしょう。新しく王位に着いた者も民 衆も共に、支配体制が代わり、新しい世となり、国家に再び繁栄と平和を回復 することを望んでいたに違いありません。しかし、神を呼び求める者は一人も いなかったのです。回復と癒しは求めても、神を呼び求める者はいなかったの です。神との関係が壊れているところにこそ問題を見いだし、自らの罪を悔い 改め、真実に神を呼び求めようとする者はいなかったのです。それは今日の私 たちにおいても同じであるかも知れません。そこに主の深い失望と嘆きがある のです。
●裏返さずに焼かれた菓子
それゆえ、主はさらに、イスラエルの民の現実について、嘆きつつ次のよう に語られます。
エフライムは諸国民の中に交ぜ合わされ
エフライムは裏返さずに焼かれた菓子となった。
他国の人々が彼の力を食い尽くしても彼はそれに気づかない。
白髪が多くなっても彼はそれに気づかない。
イスラエルを罪に落とすのは自らの高慢である。
彼らは神なる主に帰らず
これらすべてのことがあっても主を尋ね求めようとしない。
エフライムは鳩のようだ。
愚かで、悟りがない。
エジプトに助けを求め
あるいは、アッシリアに頼って行く。
彼らが出て行こうとするとき
わたしはその上に網を張り
網にかかった音を聞くと
空の鳥のように、引き落として捕らえる。(7・8‐12)
イスラエルの民は、主のもとに帰ろうとはしませんでした。神を求める代わ りに、彼らはエジプトに助けを求め、あるいはアッシリアに頼って行きます。 それは人間的に見るならば、その時の最善の政策であったのかも知れません。 しかし、主はそのような姿を、愚かで悟りのない鳩のようだ、と言われるので す。そして、イスラエルが最終的にアッシリアに滅ぼされ、その時エジプトは 何の頼りにもならなかったことを思います時に、預言者の言葉は真実であった ことを思わされます。
人が神を求めることをしないなら、危機において「どうしたらよいか」とい うことしか考えられなくなるのは当然のことです。そのようにして、安易な解 決を求めるのです。手軽な回復と癒しの道を求めて動き回るのです。そのよう に、ただ「どうしたらよいか」ということだけを考えて右往左往している姿は、 確かに愚かで悟りのない鳩のようではありませんか。そして、実際それがしば しば私たちの姿であろうかと思うのです。
そのようなイスラエルはまた、「裏返さずに焼かれた菓子」と表現されてい ます。菓子を裏返さずに焼いたらどうなるでしょう。表がこんがりと良い色に 焼けていたとしても、裏は真っ黒に焦げてしまっています。それと同じように、 イスラエルは国家としての体裁は整えているかもしれないし、目の前の危機は 逃れたように見えるかもしれないけれども、本質的には救いへと向かってはい ないのです。むしろ、滅びへと向かっているのです。見えないところで、既に 真っ黒焦げになっているのです。他国に頼りながら、実は力を吸い取られてい る。老衰状態へと向かっているのです。安易な救いを求めることによって、か えって滅びを招いているのです。そして、そのことに気付かないのです。
●主の助けを求めない人々
そのように、裏返さずに焼かれた菓子のようなイスラエルに対して、主はこ う言われます。
なんと災いなことか。
彼らはわたしから離れ去った。
わたしに背いたから、彼らは滅びる。
どんなに彼らを救おうとしても
彼らはわたしに偽って語る。
彼らは心からわたしの助けを求めようとはしない。
寝床の上で泣き叫び
穀物と新しい酒を求めて身を傷つけるが
わたしには背を向けている。
わたしは、彼らを教えてその腕を強くしたが
彼らはわたしに対して悪事をたくらんだ。
彼らは戻ってきたが
ねじれた弓のようにむなしいものに向かった。
高官たちは自分で吐いた呪いのために剣にかかって倒れ
エジプトの地で、物笑いの種となる。 (7・13‐16)
危機的状況そのものが滅亡をもたらすのではありません。神に背いていると いう事実そのものが滅亡をもたらすのです。「わたしに背いたから、彼らは滅 びる」と主は言われるのです。主は彼らを救おうとしておられます。神は彼ら が真実に主に立ち帰り、主の名を呼び求めることを期待しておられるのです。 しかし、失望と落胆のうちに主は言われます。「彼らは心からわたしの助けを 求めようとはしない」。
もちろん、彼らは「助け」そのものを求めていないわけではありません。い や、むしろ助けは熱心に求めているのです。寝床の上で泣き叫びます。収穫を 再び得られるようになることを求めて自分自身の身を傷つけることさえするの です。そうです、人は癒されるために、回復されるために、いかなることをも するものです。しかし、彼らが求めているのは「助け」なのであって、必ずし も「主なる神から来る助け」ではありません。ここに書かれているのは、バア ル祭儀の典型的な姿です。泣き叫び、身を傷つけるのです。一見熱心に見える のです。しかし、繁栄を得、助けを得るためには熱心であるけれども、祈り求 める対象は要するに何でもよいのです。助けを与えてくれるものならば、何だ ってよいのです。それが偶像礼拝の特徴です。そのような姿は、この国にいく らでも見られます。そのような人々に対して、「わたしに背を向けている」と 主なる神は言われるのです。
国内の腐敗と混乱、人間的な思惑による対外政策による破局、熱心ではある が神との真実な関係を失っている偶像礼拝、これらはみな一つのことがらです。
人間のすることはいつの時代でも変わりません。そのようなところに真の回復 も癒しもないのです。私たちは、神の嘆きの声に耳を傾けなくてはなりません。
現代に生きる私たちもまた、ここで何が問題とされているのかをしっかりと心 に留めなくてはらなりません。
最後に新約聖書から一箇所お読みいたしましょう。使徒ペトロは教会に次の ように書き送りました。「(キリストは)ののしられてもののしり返さず、苦 しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。そし て、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。
わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そ のお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。あなたがたは羊 のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり、監督者である方のと ころへ戻って来たのです」(1ペトロ2・23‐25)。
私たちが、まことの魂の牧者、監督者である主のもとに帰ることこそ、まこ との癒しであり回復なのです。キリストはそのために来て、十字架において私 たちの罪を担ってくださったのです。