「信仰による共済」
2000年10月8日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生, 台湾長老教会 陳天賜宣教師説教
聖書 マタイ20:1‐16
中国語には「同船共済」という表現があります。同じ団体に属する人たちが 互いに力を合わせて助け合うという意味です。
天国はあるぶどう園の主人の話にたとえられます。ぶどう園の主人は、朝早 く6時から夕方まで、働き人を雇うために、二、三時間おきに出かけます。夕 方になったら、主人が一人一デナリオンづつの賃金を最後に雇った人から先に 渡します。それで、最初から雇った人は、働いた時間が違うのに賃金が同じこ とについて、主人の不公平に文句を言います。しかし、主人はその一人一人に 次のように答えました。「友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたは わたしと一デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りな さい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。
自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気 前のよさをねたむのか」(マタイ20・13‐15)。
皆さんはこの物語をよく知っておられることでしょう。この物語の主人公は 誰でしょうか。雇い人は誰でしょうか。
ご存知のように、この物語を通して、神の国の福音が証しされているのです。
イエス様は、天国とはぶどう園の主人のようだということ、そして、神さまが 私たちの中に臨在しておられるということを強調しておられます。神さまは、 どのように人間の中に臨在しておられるのでしょうか。
まず、神さまが人と共済しておられることから理解しましょう。「共済」の 意味は、先にも説明したように、それは団結し、互いの関係において助け合い、 生命の共同体となることを意味します。
神さまは私たちを決して孤独にならないこと、乏しくもならないことを望ん でおられるのです。ぶどう園の主人は朝から晩まで人を雇いに出かけます。時 間を問わずに平等に賃金を渡します。ここで神さまは私たちに一つの船に乗っ ているように互いに助け合うことを教えられ、同時に神さまがわざわざ天から 降りてきて私たちを助けてくださり、共におられることを指し示しているので す。
普通の主人が人を雇う場合は部下に任せるでしょう。わざわざ自分が行く必 要はないはずです。しかし、ぶどう園の主人は自分で出かけました。この物語 が示しているのは、主人が他人によらずに、御自分で参与するということです。
ヨハネの福音書には、「ことばは肉となった」(ヨハネ1:14)と書かれて います。神さまが人間の中に臨在されることを表す表現の一つです。
そして、人間は人間の政治的な手段を用いますが、神さまは神の国の手段を 用います。自由経済の観念によると、異なる労働時間に同じ賃金を与えるのは 理解できないことです。しかし、ある人の抗議に主人は「友よ、あなたに不当 なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか 」(20:13)と答えました。イエスは人間の「同じ労働時間で同じ賃金を 貰う」という経済観念を破り改めたいと思っていらっしゃいます。
イエスは不平等の社会秩序に、平等な秩序を造られました。それは、それぞ れの困難において平等な世話がなされる秩序です。皆さんもご存知のように、 不平等な経済、文化、教育などは人間の価値観に悪影響を与えます。さらに青 少年の問題をも引き起こします。ぶどう園のたとえ話には、神さまが人々に平 等な世話をする愛に満ちた原則があります。
神さまは、人間の経済、文化、政治、教育の公平性を配慮しておられます。 しかし、神の国はどのようにして教会を通してこの世界に関わるのでしょうか。
教会は世界で最も良い共済団体のモデルになるはずです。弱小教会、キリスト 教機構等に対して、金持ちの大きい教会は責を負うはずでしょう。兄弟姉妹ど うし、教会どうしに互いに感心がなかったら、どんな教会になるでしょうか。 もし共同体の意識がないなら、キリストの十字架の愛をどう証しすれば良いで しょうか。共済の精神の無い教会は成長するでしょうか。むしろ時代の流れの 中に残るはずがなく、さらには神さまに裁かれるでしょう。
キリスト者は人に対して、相手が弱ければ弱いほど愛するべきです。能力が 無ければ無いほど、赦し合い、手伝い合うのです。多くの人は、ホームレスに なるのは彼らが怠け者だからだと考え、軽視します。実は、それは仕事がない から、病気だからです。ホームレスの人には精神や身体障がい者の人も多いの です。(寿町のホームレスの統計でみれば六千五百人のうちの約三分の一は身 体や精神の障がい者です。)なぜこのような群れに入りましたでしょうか。そ れは家の人に受け入れられず、社会、地域の人にも認められないで追い出され たからです。これは皆、共済の精神がないからです。共に苦しみ、共に分かち 合う心がないのです。
これは、今日の人が造った政治形態、自由経済、資本主義の文化です。資本 主義の結果として、資本家のために弱い人が犠牲になるというありのままの姿 です。
我々が信じる神さまは、この世に参与される神であり、この不平等の世界秩 序を改善すべきだと思っている神さまです。だから、この世界に神の愛が満た されるために、神さまは我々を選ばれました。教会は「言葉が肉となった」と いう信仰で、この世に参与すべきです。
私たちは時として、聖なる群れだと理屈を言って、社会に対する責任を逃れ ていませんか。神の愛を深く知っている教会が、完全に神さまに従順な信仰生 活をしなかったら、教会は神の愛、平等などをこの世界に実践することができ ないでしょう。
台湾では一年前の地震を巡って、世界各国からの支援金を受けました。台湾 の人々の「同船共済」の心も現れました。台湾基督教会の信仰による愛によっ てもやる気を起こされました。
ある台湾の一つの教会は、地震のために、日本円で四億円近いお金を献げま した。教会は地震後の一日目から今日に至るまで一日も休まずに、続けて支援 しながら、心を回復するためにボランティアを派遣し、さらに5年、10年の 継続的ケアの計画も立てています。
教会は神の国を実現するモデルです。さらにそれが世界中に発展するための 拠点です。もし、教会で神の国の同船共済の精神と行いがなかったら、神の国 の福音はどう証しされるでしょう。
いったい教会は同船共済するのか、あるいは同床異夢に過ぎないのでしょう か。願わくは、神さまの愛で全てを乗り越えて、我々は人と神、人と人、また 大自然との間で同船共済をしたいものです。