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「本当の危機とは」

2000年10月15日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 ホセア8・1‐14

 本日与えられている聖書箇所はホセア書8章です。この預言は、ホセアの活 動した北イスラエル王国の末期に関わっています。その歴史的状況は、列王記 下17章に次のように記されています。「アッシリアの王シャルマナサルが攻 め上って来たとき、ホシェアは彼に服従して、貢ぎ物を納めた。しかし、アッ シリアの王は、ホシェアが謀反を企てて、エジプトの王ソに使節を派遣し、ア ッシリアの王に年ごとの貢ぎ物を納めなくなったのを知るに至り、彼を捕らえ て牢につないだ。アッシリアの王はこの国のすべての地に攻め上って来た。彼 はサマリアに攻め上って来て、三年間これを包囲し、ホシェアの治世第9年に サマリアを占領した。彼はイスラエル人を捕らえてアッシリアに連れて行き、 ヘラ、ハボル、ゴザン川、メディアの町々に住ませた」(列王下17・3‐6)。

 イスラエルの王ペカの治世には、王国はまだ反アッシリア政策を採っていま した。しかし、ホシェアの治世にアッシリアの勢力が脅威となった時、イスラ エルは転じてアッシリアに貢ぎを納めて服従するという政策に転じたのです。 しかし、その一方で、エジプト王に密使を送り、エジプトの勢力を背景にアッ シリアに対抗することを企てていたのでした。ところがその計画が発覚してし まいます。その結果、ホシェアは捕らえられ、サマリアはアッシリアに三年間 包囲された後、占領されることになったのでした。こうして北イスラエルは滅 びていったのです。

●イスラエルは恵みを退けた

 ホセア書8章の預言が厳密にどの時点で語られたものかを知ることは困難で す。しかし、9節には「アッシリアに上って行き、貢によって恋人を得た」と 書かれていますから、まだ王国が外面的にはアッシリアに服従している時であ ったと考えられます。であるならば、少なくとも当面の危機は回避できたと誰 もが考えていた時であったことでしょう。しかし、預言者ホセアはその時既に、 イスラエルの崩壊と滅亡を預言していたのでした。

 1節から3節までをご覧ください。

角笛を口に当てよ。
鷲のように主の家を襲うものがある。
イスラエルがわたしの契約を破り
わたしの律法に背いたからだ。
わたしに向かって彼らは叫ぶ。
「わが神よ
我々はあなたに従っています」と。
しかし、イスラエルは恵みを退けた。
敵に追われるがよい。    (8・1‐3)

 ここで「鷲のように主の家を襲うもの」がアッシリアを指していることは明 らかです。アッシリアが襲って来るとホセアは予告しているのです。それは実 際的には政治的な策略の失敗によって起こります。しかし、失敗そのものが本 質的な原因ではないと、ホセアを通して主は語られるのです。そうではなくて、 真の原因は、イスラエルが主の契約を破り、主の律法に背いたからだと言うの です。神との関係が崩壊しているゆえに、イスラエルは崩壊し、滅びることに なるのです。これはこの預言書に繰り返し現れるモチーフです。政治的な危機 に直面した時、人々はこれを政治的な事柄としか捉えませんでした。そうして、 アッシリアに貢いだり、エジプトに助けを求めたりしたのです。しかし、その ようなことをしても、国は滅びるのだ、とホセアは語るのです。

 その意味するところを私たちは深く心に留めなくてはなりません。私たちも また、しばしばこの世の問題はこの世の方法において解決されるべきだと考え ます。そして、解決する方法とそのための助けとを求めて右往左往するのです。

目の前の危機を乗り越えるために、ありとあらゆることを試みます。しかし、 そのような私たちは、主の言葉によって表現されるならば、まさに愚かで悟り がない鳩のようなものです(7・11)。往々にして本当の危機は神との関係 が壊れていることであるのに、多くの場合そのことに気付きません。問題は人 間の罪、私たち自身の罪であるのに、そのことに目を向けようとはいたしませ ん。そのようにして、真に大切なことは棚上げにして、目の前の問題にだけ対 処しようといたします。その愚かさを、ホセアの預言は私たちに示しているの です。

 もちろん、イスラエルの人々は決して神に関わる事柄にまったく無関心であ ったということではありません。彼らは宗教的な国民です。神殿において、宗 教的な祭儀は盛大に行われておりました。彼らは言うのです。「わが神よ、我 々はあなたに従っています」(2節)と。これは直訳すると「わが神よ、我々 はあなたを知っています」という言葉です。しかし、神は言われます。「イス ラエルは恵みを退けた(あるいは「善を退けた」)」。言葉としてはいくらで も正統的なことを言うのです。神を知っているつもりでいるのです。しかし、 現実の生活としては恵みを退けて生きているのです。それは神御自身を退ける ことに他なりません。

●サマリアよ、お前の子牛を捨てよ

 さらに預言者はさらに厳しく言葉を続けます。4節以下をご覧ください。

彼らは王を立てた。
しかし、それはわたしから出たことではない。
彼らは高官たちを立てた。
しかし、わたしは関知しない。
彼らは金銀で偶像を造ったが
それらは打ち壊される。
サマリアよ、お前の子牛を捨てよ。
わたしの怒りは彼らに向かって燃える。
いつまで清くなりえないのか。
それはイスラエルのしたことだ。
職人が造ったもので、神ではない。
サマリアの子牛は必ず粉々に砕かれる。(8・4‐6)

 ここに「サマリアの子牛」という言葉が出てきます。北王国の都であるサマ リアに子牛の像が祀られていたことが分かります。ホセアの時代の二百年ほど 前、南北の王国が分裂した当初、北王国の王となったヤロブアム一世は金の子 牛を二体造り、ベテルとダンに置きました。それは、南北分裂後の政治的な理 由によるものでした。北イスラエルの人々が、礼拝のために南ユダに属するエ ルサレムに行かなくてよいようにするためだったのです。「彼はよく考えたう えで、金の子牛を二体造り、人々に言った。『あなたたちはもはやエルサレム に上る必要はない。見よ、イスラエルよ、これがあなたをエジプトから導き上 ったあなたの神である』」(列王上12・28)。もちろん、最初の意図は、 子牛を神として拝ませることではなかったでしょう。子牛像は見えざる神のた めの台座であったものと思われます。しかし、あくまでも人間的な理由からそ れらが置かれたという事実は、そこにカナンの豊穣神礼拝などが入り込む素地 を提供し、人間中心の偶像礼拝に道を開くことになりました。やがてサマリア に子牛の像が置かれる頃には、子牛像そのものが神として崇められるようなこ とが起こっていたことが分かります。

 そのような人間中心の偶像礼拝は、それがたとえ主の名によって行われてい たとしても、主の恵みに対する真実な応答を生み出すことはありません。それ によって、人々が主なる神の支配を求め、主の御心が実現することを求めるよ うになることはありません。そこでは人間中心の欲求や願望がかき立てられる だけなのです。その結果は政治的な領域にも現れました。ホセアの時代、次々 と統治する王が替わります。しかし、人々はその王が神に従順であるか否かを 問いません。神の御心に適っているか否かを問いません。新たに高官たちが立 てられます。その高官たちが神に従順であるか、神の御心にかなっているか、 そんなことはどうでもよいのです。支配者が代わって平和が保たれ、国が繁栄 し、自分たちの幸福が確保されればそれでよいのです。それゆえに、「それは わたしから出たことではない。わたしは関知しない」と主は言われるのです。

 人が神を忘れて平和だけを追い求める時、決して平和を得ることはないので す。神を忘れて繁栄や幸福だけを追い求める時、むしろそれらは遠ざかってゆ くのです。それは未来を開く道ではなくて、滅びへと向かう道なのです。その ように動いている王国は、確実に滅びへと向かっていることをホセアは預言し たのです。

 7節以下には次のように語られています。

彼らは風の中で蒔き
嵐の中で刈り取る。
芽が伸びても、穂が出ず
麦粉を作ることができない。
作ったとしても、他国の人々が食い尽くす。
イスラエルは食い尽くされる。
今や、彼らは諸国民の間にあってだれにも喜ばれない器のようだ。
エフライムは独りいる野ろば。
アッシリアに上って行き、貢によって恋人を得た。
彼らは諸国に貢いでいる。
今や、わたしは諸国を集める。
諸侯を従える王への貢ぎ物が重荷となって
彼らはもだえ苦しむようになる。 (8・7‐10)

 種蒔きの時に風が吹いていることは、当時の農法から言えば非常に都合のよ いことでした。しかし、刈り取るときには、同じ風ではありますが、嵐になっ ていると言うのです。つまり、アッシリアに貢を納めてそれで急場をしのいだ ように見えるかもしれないけれど、最終的にはそのアッシリアによって滅ぼさ れるということです。人が神に立ち帰ることなくしても、急場はしのげること でしょう。その時の困難は回避できるかもしれません。しかし、やがて嵐がや ってくるのです。芽は出るかもしれません。しかし、穂は出ないのです。いや、 穂も出て麦粉を作れるかもしれません。しかし、それを自ら口にすることはで きないと言うのです。これらすべては同じことを言っているのです。人間の罪 の問題、神との関係に関わる問題を解決しないなら、目先の問題をうまく切り 抜けたように見えても、最終的には滅びを刈り取ることになるのです。

●彼らはエジプトに帰らねばならない

 残念ながら、彼らの祭壇は、もはや神に立ち帰り、神と共に生き始める場で はありませんでした。主は、彼らの礼拝を御覧になられ、次のように語られま す。

エフライムは罪を償う祭壇を増やした。
しかし、それは罪を犯す祭壇となった。
わたしは多くの戒めを書き与えた。
しかし、彼らはそれを無縁のものと見なした。
わたしへの贈り物としていけにえをささげるが
その肉を食べるのは彼らだ。
主は彼らを喜ばれない。
今や、主は彼らの不義に心を留め
その罪を裁かれる。
彼らはエジプトに帰らねばならない。
イスラエルはその造り主を忘れた。
彼らは宮殿を建て連ねた。
ユダも要塞の町を増し加えたが
わたしはその町々に火を送り
火は城郭を焼き尽くす。 (8・11‐14)

 罪を償う祭壇は多く作られました。しかし、罪を赦された者として神と共に 生きることは、もはや彼らの関心事ではありませんでした。罪の償いの祭儀は、 具体的な生活とは無縁の、形骸化したものに過ぎませんでした。国家の危機的 な状況にあって、人々は競い合うようにして多くのいけにえを捧げました。し かし、それは危機の回避を求めているのであって、神との関係の回復を求めて いるのではありませんでした。ですから、そこで神の言葉は重んじられません。

神が求め給うことが何であるかには関心がありません。人々は、神の戒めを無 縁のものと見なしていたのです。

 神の言葉を離れると、献げ物も礼拝そのものも迷信となっていきます。その ような迷信的な礼拝を人々は喜び、それに満足していたかもしれません。しか し、「主は彼らを喜ばれない」とホセアは語るのです。それは裁きをもたらす ものでしかありません。そのような彼らは「エジプトに帰らねばならない」と さえ言われます。それは出エジプト以前に引き戻されることを意味します。そ れは神の救いの恵みを無にしてしまうことに他なりません。彼らは実にそのよ うな危機に瀕していたのです。しかし、「造り主を忘れた」イスラエルは、自 分がどのような危機にあるかということに気付きませんでした。

 このようなイスラエルの姿は、教会の歴史においても、決して無縁なもので はありませんでした。今でも、私たちのあり方が問われているように思います。

主の十字架による罪の赦しが安価な恵みとされ、その裂かれた肉と流された血 にあずかる聖餐が形骸化し、私たちの現実の生活とはまったく無縁の儀式とな ってしまうことはあり得ることです。「わが神よ、我々はあなたを知っていま す」と告白していながら、現実の歩みにおいては「造り主を忘れた」との責め を負うような信仰者であってはなりません。そのような教会であってはならな いのです。

 
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