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「偽りの喜びよ去れ」

2000年10月22日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 ホセア9・1‐9

 本日はホセア書9章をお読みしました。この預言の背景となっているのは、 イスラエルの祭りです。5節に「祝いの日、主の祭りの日」とあります。「主 の祭り」と言われた場合、通常は古くからイスラエルで祝われた巡礼祭のうち 最も盛大に祝われた「取り入れの祭り」、後に「仮庵の祭り」と呼ばれるよう になったものを意味します。その時、人々は年の収穫を喜び、大いに楽しみ祝 うのです。しかし、そこに預言者ホセアが現れます。彼はそこで突然、人々の 喜びに水を差すようなことを叫び始めるのです。

●喜び祝うな

 1節以下をお読みします。

イスラエルよ、喜び祝うな。
諸国の民のように、喜び躍るな。
お前は自分の神を離れて姦淫し
どこの麦打ち場においても姦淫の報酬を慕い求めた。
麦打ち場も酒ぶねも、彼らを養いはしない。
新しい酒を期待しても裏切られる。     (1‐2節)

 旧約聖書には「喜び祝え」「喜び躍れ」という言葉がしばしば対となって出 てきます。例えば詩編97編の冒頭には、「主こそ王。全地よ、喜び躍れ。多 くの島々よ、喜び祝え」という言葉が出てきます。詩編などに現れますこのよ うな表現は、ホセアの時代の人々の間においても一般的に知られていたものと 思われます。ところが、ホセアはそのような言葉をもじって、祭りの喜びのま っただ中で、まったく逆のことを語り始めるのです。「喜び祝うな。喜び躍る な」。せっかく人々が喜び楽しんでいるのに、どうしてそれを邪魔するのでし ょう。

 しかし、ここで私たちはホセアの語りかけに注意深く耳を傾けたいと思うの です。彼は、ただ「喜び躍るな」と言っているのではありません。彼は、「諸 国の民のように、喜び躍るな」と言っているのです。つまり、ここにホセアが 叫んでいる理由があるのです。彼らの祭りはもはや主の祭りではなく、彼らの 礼拝は主への礼拝ではない、ということです。それは異教の神々を拝んでいる 諸国の民の祝いと同じだ、ということなのであります。

 私たちが教会の礼拝、様々なキリスト教の集会、種々の特別な祝いに出席し ている場面を思い浮かべてください。皆がその時を喜んで過ごしている時に、 突然一人の人が現れて、「こんな祝いはやめてしまえ!こんなものはキリスト 教の集会ではない!」と叫び始めたらどうでしょう。それがどれほど異様な光 景であるかは容易に想像できるでしょう。まさにホセアがしているのは、その ようなことなのです。もし、私たちがそのような状況に出くわしたら、一斉に 反発するに違いありません。「たわけたことを言うな。これは正真正銘、キリ スト教の集会ではないか。ここに集まっている多くはクリスチャンではないか。 」そう言い返すのではないでしょうか。

 そこにいた人々も同じです。彼らの中には、自分があからさまに異教の神々 を拝んでいるなどという意識をもっている人は、ほとんどいなかったはずなの です。彼らが祝っているのは、あくまでも「主の祭り」なのですから。皆、そ こでイスラエルの神、ヤハウェを礼拝していると思っているのです。

 しかし、それが「主の祭り、ヤハウェの祭り」と呼ばれているところにこそ、 大きな落とし穴がありました。それが名目上は主の名、ヤハウェの名によって 行われているゆえに、その内容が異教化しても、カナンの豊穣神信仰、バアル 信仰の影響を受けて変質してしまっていても、人々はそのことに気付かないの です。そこでどうしてもホセアのような預言者が叫ばざるを得なかったのであ ります。

 彼は言います。「お前は自分の神を離れて姦淫し、どこの麦打ち場において も姦淫の報酬を慕い求めた」。姦淫の報酬とは、人々が求めてやまなかった豊 作と繁栄のことです。彼らはこれを求めて祭りをするわけです。繁栄と平和と 幸福を与えてくれる神を拝むのです。そして、与えられた収穫を喜び祝うので す。しかし、ホセアは、人々のうちに豊作を喜び楽しみはするけれども、神を 喜び、神御自身を求める思はないことを見抜いていたのでした。要するに収穫 を得られれば、礼拝の対象はどうでもよいのです。主なる神がいかなる御方で あるか、ということは人々にとってはどうでもよいことなのです。それでは異 教の祭儀と変わらないではないか、とホセアは言っているのです。

 その礼拝において主なる神御自身に関心を持てないならば、その生活におい て神に関心を向けられないのは当然です。そこからは、神の愛に真実に応えて 生きるという本来決定的に重要な要素は生まれてはきません。神が求めておら れるのは、真実の愛によって結ばれた結婚にたとえられるような関係です。し かし、自分が喜べれば、自分の欲求が満たされば、相手のことなどどうでも良 いというならば、そのような信仰生活はどうしたって本来の結婚にたとえられ るものではないでしょう。それは姦淫以外の何ものでもありません。それがど んなに霊的に見えようと熱心であろうと、人間の欲求を中心とした信仰生活は 姦淫と同じなのです。人々の求めているのは姦淫の報酬なのです。

 私たちの信仰生活もまた、ただ姦淫の報酬を求めているに過ぎないものとな っているかもしれません。私たちが人間の願望や欲求によって振り回されず、 真に礼拝の対象である御方に思いを向け続けるということは何と難しいことで しょうか。教会が、人間の欲求や願望によって振り回されずに、常に正しい信 仰を追い求め続けることは何と難しいことでしょうか。いつの間にか、神がい かなる御方であり、何が神に受け入れられる礼拝であり、何が正しい信仰であ るか、などということはどうでもよくなって、「ただ自分の欲求が満たされれ ばよいではないか、ただ喜び楽しめればそれでよいではないか、熱心であり生 き生きとしていればそれでよいではないか」と考えてしまっているかもしれな いのです。それは、実に身近な誘惑です。教会が教会であり続けるための苦闘、 いつの間にかバアル礼拝をしているようなことがないように正しい信仰を求め る苦闘、その苦闘を放棄したところで、偽りの喜びが支配しているならば、そ こに預言者の声が響くのです。「喜び祝うな。喜び躍るな」と。

●エフライムはエジプトに帰る

 さらにホセアは、それが本質的にはバアル祭儀であり、永遠なる神との結婚 関係ではなく姦淫でしかないならば、やがてその喜びに終焉がおとずれること を告げ知らせます。3節以下をご覧ください。

彼らは主の土地にとどまりえず
エフライムはエジプトに帰り
アッシリアで汚れたものを食べる。
主にぶどう酒をささげることもできず
いけにえをささげても、受け入れられない。
彼らの食べ物は偶像にささげられたパンだ。
それを食べる者は皆、汚れる。
彼らのパンは自分の欲望のためだ。
それを主の神殿にもたらしてはならない。
祝いの日、主の祭りの日に
お前たちはどうするつもりか。
見よ、彼らが滅びを逃れても
エジプトが彼らを集め、メンフィスが葬る。
彼らの銀も宝物もいらくさに覆われ
天幕には茨がはびこる。    (3‐6節)

 イスラエルの民はもともとエジプトの奴隷でありました。その彼らがエジプ トから導き出され、荒れ野を導かれ、約束の地に入れられたのは、ただ一方的 な主の恵みでありました。彼らが与えられた約束の地は、まさに「乳と蜜の流 れる土地」(出エジプト3・8)でありました。しかし、彼らが荒れ野から肥 沃な土地に導かれたのは、ただその豊かさを享受するためではありませんでし た。彼らは主の民としてそこに生きるために救われ、約束の地に導かれたので す。そこはあくまでも「主の土地」(3節)なのです。主の土地における新し い生活へと導き入れられたのは、主を愛し、主の恵みに応えて生きる主の民と して彼らが生きるためだったのです。それは、もし彼らが主を忘れ、ただそこ における幸いだけを追い求める時、もはや主の土地にとどまりえないことを意 味します。人が神の恵みに応えて神に向かって生きるのでないならば、もはや 神の恵みによって救われた意味を失うことになるのです。

 ですからここで「エフライムはエジプトに帰ることになるのだ」、と告げら れているのです。それは出エジプト以前に戻ってしまうことを意味します。具 体的には、アッシリアに捕囚となることです。あるいは他の諸国に散らされる ことです。いずれにせよ、それは約束の地での生活を与えられた救いの恵みを 無にしてしまうことに他なりません。そこでは、もはや「主にぶどう酒をささ げることもできず、いけにえをささげても、受け入れられない」(4節)ので す。そのような状況に置かれることになります。「偶像に捧げられたパン」は 意訳です。直訳は「喪中のパン」です。要するに、主の礼拝のためにささげる に相応しいパンも手に入れられなくなるということです。異教の地に移される からです。それでも変わらず定められた祝いの日はやってくるでしょう。しか し、その時、もはや祝うことができなくなっている自分を見い出します。主は 言われるのです。「その日になってお前たちはどうするつもりか」と。

 私たちは往々にして主を礼拝しようと思えばいつでもできると考えてしまっ ているものです。主を求めるべき時になったら、いつでも求めることはできる と考えているのです。しかし、そうではありません。聖書はそのような私たち にホセアの預言を突きつけます。ホセアが語っていることは、まさにそれから 間もなく実現したのです。イスラエルの人々が主を求めようとしたときには、 もはや主の神殿のない国に連れ去られていたのです。それは私たちにおいても 同じです。今与えられている恵みを軽んじるならば、それを失うことになるの です。

 しかし、そのように語られても、人々は主に立ち帰ろうとはしませんでした。

そのような人々に対して、ホセアはさらに次のように語ります。7節以下をご 覧ください。

裁きの日が来た。
決裁の日が来た。
イスラエルよ、知れ。
お前の不義は甚だしく、敵意が激しいので
預言者は愚か者とされ、霊の人は狂う。
預言者はわが神と共にあるが
エフライムは彼を待ち伏せて
その行く道のどこにも鳥を取る者の罠を仕掛け
その神の家を敵意で満たす。
ギブアの日々のように、彼らの堕落は根深く
主は彼らの不義に心を留め
その罪を裁かれる。 (7‐9節)

 「預言者は愚か者とされ、霊の人は狂う(狂った者とされる)」というのは、 人々がそう見なしていたということです。人々はそのように、預言者を退け、 ホセアが語れば語るほど彼を憎んだのでした。そのような彼らについて、彼ら の堕落の根深さは「ギブアの日々」のようだと語ります。ギブアの日々という のは、士師記20章以下に記されている出来事です。ベニヤミン族が罪を犯し た時、彼らは悔い改めようとせず、むしろ他のイスラエル諸部族に戦いを挑ん だのです。「かえってベニヤミンの人々は町々からギブアに集まり、イスラエ ルの人々と戦おうとして出て来た」(士師記20・14)。その結果、ベニヤ ミンは自らの身に悲惨を招いたのです。悔い改めようとせず、神の言葉に敵対 して立つ者もこれと同じです。神の呼びかけを憎み退けるその頑なさが自らに 滅びを招くのです。

 それゆえに、ホセアは既に裁きの日が到来したものとして語ります。「決済 の日が来た」と。このような表現は預言の言葉に繰り返し現れます。捕囚にな るその時にすべてが決まるのではありません。滅亡が実現する時に、初めて神 の裁きが到来するのではありません。主の言葉を憎み退け、偽りの喜びに留ま っている時、その人は既に裁きの内にあるのです。それゆえ、いつでも問われ ているのは「今」なのです。それゆえにまた、主に立ち帰り、主を求め、真の 喜びに生きるべき時もまた「今」なのです。

 
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